姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)続き③
自警団の結成、村の人々への徹底
片柳村が9月26日付けで郡役所に報告した「自警団ニ関スル調査方ノ件」への回答には、「九月三日郡役所発庶第八号注意方通牒ニ基キ、村長ハ消防組頭・在郷軍人分会長・青年団長ヲ集メ協議シ各区毎(行政区ニシテ主トシテ大字ニヨル)適当ナル措置ヲ取ル」とある。片柳村では3日に届いた「不逞鮮人暴動に関する件」に基き各区ごとに自警団を組織した。
さらに片柳村では、通知類(郡長告諭、総理大臣告諭、知事告諭、戒厳司令官・同参謀告諭、「或ハ注意・緊急勅令ノ趣旨徹底宣伝」など)をガリ版印刷し、区長を通じて各戸に配布して周知徹底を図っていた。
例えば、6日付けの片柳村村長から吉三郎に宛てたガリ版刷りの「自警上の一般注意」には、「一、午後七時より午前六時迄ノ間ニ於テ其部内ヲ通過セントスルモノハ何人タルヲ問ハズ誰何シ出発地及行先並ニ住所氏名ヲ質シ疑シキモノハ其部境迄護送シ全時ニ伝令ヲ以テ次ノ部ニ通達スルコト、」とあり、「不逞鮮人」に対する対処や自警団についての村民への情報伝達は相当徹底したと考えられる。
「秘密ニ注意指示セラレタル件」
3日午後3時、染谷区長吉三郎は片柳村坂東村長から、「秘密ニ注意指示」「御配慮御協議」したい件があるとして召集され、役場にて「急報」の内容を知る。
村長は、区長への「移牒」の説明に際し、武器を使用して、「暴動」「襲来」する「不逞鮮人」と戦闘せよと命じたのあろう。だからこそ、口外してはならぬ、「秘密」の指示としたのだろう。実際、吉三郎メモには、「別に警戒団ノ刃物ヲ持参セヨト誰人モ云フシニアラネド各人棍棒 日本刀 槍 短銃 鳥打銃等ヲ持参シ集マル 青年団ハ余ノ門前ニ一旦集リ部署ニ付」とあり、具体的な指示を出していないにもかかわらず、自警団は武装して集合している。
このように、「移牒」の伝達を契機に自警団の在郷軍人、青年団は「不逞鮮人」と戦う戦闘集団へと激変した。
まさにこの夜、姜大興は片柳村染谷に迷い込んでしまった。そして自警団員たちは、たった一人の姜大興に対して、「不逞鮮人」が襲来したと信じ込み「戦闘」を開始した。
国家の側の誤った情報を鵜呑みにして、命令に従って罪もない朝鮮人を虐殺した日本人の責任は思いが、「移牒」が地域に届いたタイミングとその中味をみる限り、国家の責任はそれ以上に重大である。
何故、恩赦がだされたのか
片柳村染谷の事件で5人の自警団員が検挙、起訴され、全員有罪となっかが、2年の執行猶予がつき、翌年1924年3月には全員が恩赦を適用されている。
寄居警察署での朝鮮人虐殺事件で検挙されたKは、事件後に熊谷の警察署に集められ、「諸君らは流言ひ語にまどわされ国家のタメと思いながらも結果としては、犯罪行為をおこしてしまった。しかし事件も落着したことでもあるし、事件は無かったことにする。調査や経歴上の前科も一切なしにするので安心してもらいたい」と話されたと証言している(『かくされていた歴史』1973)。
史料『鮎川武治 述 埼玉県自警団事件経過真相』
ガリ版刷り56ページ、著者は「関東自警同盟。鮎川武治(1891-1966)は、熊谷市出身、東京帝大卒、弁護士、衆議院議員(戦前、1期)。東大在学中から国家主義運動に関わり、震災当時は大川周明の斡旋で南満洲鉄道株式会社総務部事務局管轄の東亜経済調査局に就職し、調査係をしていた。
冊子は、国家主義の立場から埼玉県北部で起った自警団事件について記述している。朝鮮人虐殺の原因となった県の「移牒」を告発し、自警団のみに責任を課して自ら責任をとらない埼玉県当局、目的もなく朝鮮人を中山道を北へ「逓送」した警察を強く批判している。
1ヵ月後の捜査開始
吉三郎メモによれば、片柳村染谷の事件発生から4時間後の9月4日午前6時半頃、「参考人」としてA(20歳)、N(20歳)が警察に連行される。
12時頃、両人が「刑務所」に収監されたとの話が伝わり、「助ケネバナラス」ということで村会が召集される。
しかし、翌5日朝、青年団が「刑務所」に差し入れに行くと「間モナク責付トナリ出獄ス」とある(釈放される)。責付とは、親族などに預けられて拘留の執行を停止されることをいう。この時、村長ら村の有力者が地域の実情などを記した嘆願書を予審判事に提出している。
ただし、この5日も自警団の夜警は継続され、村民は殺人という行為の重大性に思いを致すことなく、検挙された2人の救援対策を考えていた。
そして、「其后杳トシテ何ラモナカリシニ」突然、10月10日、村人3人が証人として喚問され、11日には村長が呼び出され、13日には「判事ノ臨検」も行われる。
更に、18日には区長の吉三郎が「熊五郎ガ余ノ井戸ニテ刀ヲ磨ギタルカ如何」を問われ「浦和ニ証人ニ呼ビ出サ」れる。
同じく18日には、C(46歳)、D(31歳)が取り調べを受け、19日にはE(40歳)も召喚される。
20日、22日、23日には村長、校長、在郷軍人会分会長など村の有力者も取り調べをうけている。
政府の司法委員会の方針
9月9日、「検察事務ノ統一ヲ期スル為臨時震災救護事務局警備部内ニ司法省刑事局長ノ主宰スル司法委員会」が組織され、9月22日まで毎日「会報ヲ行ヒ情報ノ交換事務ノ打合及協定」に従事することを決定。委員会には、内務省警保局長・司法省刑事局長・大審院上席検事・陸海軍法務局長・憲兵司令官が委員として、また各官の部下高等官・東京地方裁判所検事・警察庁刑事部長・陸軍省軍事課々員も事務官として列席し、戒厳司令部からは阿倍信行参謀長が委員として出席している。
9月11日の第三回委員会では、自警団事件については司法上放任することはしないが、「情状酌量スベキ点少カラザルヲ以テ、騒擾ニ加ハリタル全員ヲ検挙スルコトナク検挙ノ範囲ヲ顕著ナルモノゝミニ限定スル」こと、「警察権ニ反抗ノ実アルモノゝ検挙ハ厳正」に行うことを決定。
検挙の時期は、「人心尚安定セサル」ためすぐには行わず、「司法省ノ指揮」を待って行うとし、埼玉県内の自警団事件の検挙の日は「九月一九日実行スル」と決定された。実際、片柳村染谷以外の県内の事件にたついては9月22日に一斉検挙となったが、吉三郎メモにはこの日の動きは見えない。
『綾川経過真相』によると、浦和地裁検事正福井広道は、被疑者は事件について十分反省しているとして、検挙、取り調べは116名に限定し、他は「猶予」するという「破格ノ取扱ヒ」をしたという。
しかし、綾川は、ことの真相は異なるとしている。検挙が開始されると、「我々ヲシテ罪ヲオカサネバナラヌヤウナ立場ニ陥レ」たのは当局で「我々ハ県ノ移牒文ニヨッテ、「一朝有事」ニ備フヘク立ツタノダ」という憤激が各所で起ったため、検事局の「検挙打チ切リハ民間ノ正理正論ノ声ニ屈シタ所ニ原因」があるとしている。
片柳村染谷の事件の被疑者はこの「猶予」の対象になったと想定できる。県当局の「移牒」の責任追及を遮断するため、司法当局は犯罪事実を認識しながらも検挙・取り調べを行わないとの超法規的措置をとった。
つづく
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