2023年11月22日水曜日

〈100年前の世界132〉大正12(1923)年9月4日 東北線上り開通。翌5日早朝には下り線も開通 この日付け新聞 「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」(『大阪朝日新聞』) 「白鉢巻の暴徒 後手に縛らる 上野付近は殺気漲る」「猛獣全部を銃殺不逞団体猛獣の解放を計画」「軍隊と衝突 不逞鮮人2名射撃」(『山形民報』) 「爆弾と毒薬を有持する不逞鮮人の大集団2日夜暗にまざれて市内に侵入 警備隊を組織して掃蕩中」(『河北新報』) 「大塚火薬庫付近で不逞鮮人と青年団格闘」「三河島上面より不逞鮮人が200名押寄す報」(『下野新聞』)など                

 


〈100年前の世界131〉大正12(1923)年9月4日 姜大興虐殺(片柳村染谷での事件)関連③ 『関東大震災 朝鮮人虐殺の真相 ー 地域から読み解く』より 歩兵第66連隊の見た間島虐殺 寄居の事件で在郷軍人が果たした役割 朝鮮人虐殺の中の在郷軍人(まとめ) より続く

大正12(1923)年

9月4日

・午前10時30分、東北線上り開通。翌5日早朝には下り線も開通。東北線開通により、北への輸送路が開かれ、関西へは信越線篠ノ井駅から中央線に乗り換えて輸送可能となる。また、鉄道省は、4日より、一般避難民輸送を無料化する。9月末迄に200万人を輸送するが、流言を全国に流布させることにもなる。

・ウラジオ郊外セダンカで亡命生活の荒畑寒村らに大震災の一報入る。10月中旬、上海に移動。

・この日付け「大阪朝日新聞」。

「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」

「神戸に於ける某無線電信で三日傍受したところによると、内務省警保局では朝鮮総督府、呉、佐世保両鎮守府並に舞鶴要港部司令官宛てに目下東京市内に於ける大混乱状態に附け込み、不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり。中には爆弾を持って市内を密行し、又石油缶を持ち運び混雑に紛れて大建築物に放火せんとするの模様あり。東京市内に於て極力警戒中であるが各地に於ても厳戒せられたしとあった」

・この日付け『山形民報』(1923年9月4日)

「白鉢巻の暴徒 後手に縛らる 上野付近は殺気漲る」

「大災害のため東京市より鉄道線路伝いに王子に避難した一青年は、2日再びパン類を買い入れ親族救済のため上野駅に引返すと、上野付近は殺気漲り白鉢巻の壮漢顔色血走り物凄い有様で、後手に縛せられおるもの数十名に達しているので愕きの余り食料を放棄した儘(まま)怱々逃げ帰った。」

「猛獣全部を銃殺不逞団体猛獣の解放を計画」

「災害の益々拡大して共に来ると、東京市内各所にわたって不逞鮮人や暴力団の蜂起したため、陸軍では警視庁に応援してその警戒をしていたが、安全地帯と目されていた上野公園並びに浅草に多数の避難民が逃れたが、この混雑に際し、上野動物園及び浅草花屋敷の猛獣を解放して市中を暴らさんとした不逞団体のあることを発見した陸軍当局では、2日朝万一の事を憂慮し射殺を命じたる結果伊藤中尉の率ゆる一個小隊は直ちに上野の動物園並びに花屋敷に至り、小鳥類は全部これを縄から放すと共に獅子、虎、豹等の猛獣並びに象など危険の恐れある猛類は全部これを銃殺してしまった。」

「軍隊と衝突 不逞鮮人2名射撃」

「3日午前新宿方面に現れた約150名の労働者並に不逞鮮人の一団は軍隊と衝突して烈しい競合を演じだが、この元兇約20名は間もなく軍隊の手に逮捕され、鮮人2名は射殺された。」


・この日付け『河北新報』(1923年9月4日)

「爆弾と毒薬を有持する不逞鮮人の大集団2日夜暗にまざれて市内に侵入 警備隊を組織して掃蕩中」

「折柄不逞鮮人多数入り込み井戸に毒薬を投じ石油を屋上に注ぎ放火をなすの恐れあれば、住民は直に警備団を組織すべしとの計画がありたるより人心一層不安の情に陥りたるも協力して直ちに多数の警備隊を組織し、久堅町大塚仲町養育院前等において約数十名の鮮人を引捕え、一々厳重なる身体検査をなし官憲の手にこれを引渡し、或は昂憤したる警備隊自ら適当の応懲を加え専ら放火の厄を免れんと努力しつつあるを発見したり。」


・この日付け『下野新聞』(1923年9月4日)

「大塚火薬庫付近で不逞鮮人と青年団格闘」

「本所区を根城とする不逞鮮人約300名は2日の夜丸の内方面に向い、一方約30名の同団は大塚火薬庫を爆破の陰謀があるなどの風評が伝わったので、万一を慮り宮城付近は近衛騎兵隊が警衛の任に当り、各地から上京した青年在郷軍人団等不逞者に一歩も足を踏ませまいとの意気を揚げ、丸の内方面には何等変事を生じなかったが、火薬庫付近では不逞鮮人と青年団との格闘を起し数名の重軽傷者を出したと噂専らである。」

「三河島上面より不逞鮮人が200名押寄す報」

「3日朝3時頃三河島方面より下谷に向け不逞鮮人約200名集団を為し押寄すとの報に接し軍隊青年団消防等共同して極力この方面に向って警戒しつつあったが、集団して来らず三々五々やって来る。」


・この日付け『いはらき新聞』(1923年9月4日)

「怒りに怒れる民衆 鮮人殴り殺さる 汽車の中で兇暴の行為」

「昨夜8時水戸着の列車は避難民を満載し列車の屋根にまで乗れるほどなるが、同車には亀有より4人の不逞らしき鮮人乗込み、1名は乗車場にて民衆のため殴り殺され、残りの鮮人は車内にまざれ込み荒川沖まで暴行をなしつつ来れる報に土浦にて取調1名を下車せしめたるも無抵抗なりしと。他は見当らなかった。」

渡辺初吉〔宇都宮市扇町新聞販売業宇陽舎主〕

「焦土の東京を一巡り 日本橋区内は大平原の様 竹槍鉄棒で青年団の警護」(「いはらき新聞』1923年9月4日)

「本郷の焼残りの地で〔2日〕午後4時頃〔略〕鮮人1名青年団に発見され柱へ縛り付けられ「放火人」と札を立てて置かれたが間もなく群衆のために叩き殺されるのを見た。

〔略〕2日夜に入ると不逞鮮人が押しかけるというので、もしも狼籍するなら青年団も正当防禦で臨機の処置を執ってもよいとまで警官に言われたが、2日夜までには鮮人の徒党らしきものは出現しなかった。数名の鮮人が捕えられたのは事実であった。薩摩原では1名の鮮人が電車線路内に竹槍で突き殺されているのも見た。」


「大正12(1923)年9月4日」の項終り

つづく

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