史実伝え、犠牲者悼む 公的文書、文化財として保管
大正12(1923)年
9月5日
「鮮人十数名を銃殺 いずれも爆弾の携帯者」(『北海タイムス』1923年9月5日)
2日夜東京駅付近にて朝鮮人十数名警備隊の為銃殺せらる。鮮人は爆弾携帯者ならん。
「不逞鮮人兇暴を極め 飲食物に毒薬や石油を注ぐ」『北海タイムス』(1923年9月5日)
巣鴨刑務所横道方面には従来多数の鮮人居住しおる関係上もっとも危険区域と見倣されているが、俄然2日夜に至り右警備隊によって600以上の鮮人を始め数十名の不逞鮮人を逮捕した。また日本婦人らしきもの松田と書ける商標の商品を用い朝鮮婦人を装い多数の不逞鮮人に通じあるを直に発見し、数百名の在郷軍人及び青年団員これを追撃したるも午後同時過ぎに至るも逮捕するに至らず。因みに警備隊は日本刀、棍棒、鉄棒等の各武器を携え不逞鮮人を見たる場合は呼子を鳴らして警備隊を召集する事になっているが、宇都宮師団の六六連隊、高崎一五連隊もこれに参加している。
「不逞の徒蜂起で物凄き帝都軍隊に手向いドシドシ検束」『北陸タイムス』(1923年9月5日)
3日午前中上野署に30名谷中署に30〜40名検束せられた。検束者は軍隊に手向いしたので血まみれの者もあり腕を切られている者もあり、一見物凄きものあり。この外無検束者で放火したため火中に投ぜられた者もある模様である。
『いはらき新聞』(1923年9月5日)
(3日午後10時20分亀有にて)亀有駅付近は3日午後7時頃より消防組、青年団、在郷軍人はいずれも日本刀、手槍、猟銃等を携え武装して街路々々を警戒し、また佐倉歩兵第五七連隊の一部は、出動して夜暗に全く戦時同様の歩哨線を張って警戒している。この如き想像も及ばぬ状態は全く不逞鮮人の一団と社会主義者の一味が協力して火事泥棒を働く結果で、〔略〕金町付近に出没した鮮人は井戸に毒を入れ、また火を放たんとするので、遂に7名ほどが惨殺したとのことであるが、三河島辺にも鮮人の死屍が所々に横わっていて、この嘘のような事実が現実に首肯されているとのことである。
「小梅邸の焼跡から 鮮人跳梁の地を過ぐ」(『いはらき新聞』1923年9月5日。前日号外再録)
〔隅田川で生き延びて〕2日午後2時頃から鮮人が跳梁をし始め〔略〕女子供達が泣き叫ぶのでこれを制し、自分は古川君(歩兵少尉)と共に戦闘準備をしてピストルに弾丸をこめて用意している内に、午後8時頃青年団等が鬨の声を揚げて応戦し小梅にまで来ない内に叩き殺されたり撃ち殺された。
更に3日午後3時頃白鬚で200人ばかりの鮮人隊と警備に出動した習志野騎兵第一四連隊の一隊が戦闘し機関銃を以て撃ち払い〔略〕この一帯寺島から四木橋付近の路傍には避難民の死体はなく、いずれも頭を割られたり撃たれたりした鮮人の死体が横たわっていた。〔略〕ある者は鮮人隊を指揮する日本人を見たと言い、又鮮人がサイダーの空瓶に毒水を入れて渇する避難民に飲ませて回っていたのを目撃したという。
小梅邸でも一鮮人が〔略〕発見されて追い詰められ、邸内の池に飛込み首だけ出していたので、四方から投石したため鮮人は両手を合わせて拝むので、手招きして呼び寄せ石で叩いて白状を迫ったが、一言も言わぬので股の辺りを日本刀で斬られた。そこへ福原家令が来て邸内を汚されては困ると追立てられたので引出され殺されたそうだ。
「鮮人を見たら殺して焼いてしまう」『いはらき新聞』(1923年9月5日)
3日千住から上野、九段、神田を経て日本橋、東京駅、丸の内、麻布六本木、三田、京橋、飯代橋、深川を踏破して帰った者の談によると、〔略〕鮮人の殺されたのを13人目撃したが、仲見世で踏んで殺された者は在郷軍人の服装でダイナマイト数本を携帯していた。巡査と憲兵は鮮人を縛するだけで殺さないが、抜刀、竹槍を持った野次がこれを殺し石油をかけて焼いているものもあった。
「大正12(1923)年9月5日」の項終り
つづく
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