大正12(1923)年
9月7日
・流言浮説取締令(または治安維持令)、緊急勅令で公布施行。
狙いは、朝鮮人虐殺や社会主義者迫害等に対する国民の批判を禁圧し、5日の警備部決定を推進させること。またこれは、犯罪そのものではなく、「煽動」「流布」「流言浮説」に重刑を科すという点で、朝憲素乱などの宣伝・勧誘を罰する過激社会運動取締法案につらなるもので、政府は第45議会で審議未了になった過激法案に代えて、これを震災のどさくさの中で緊急勅令によって公布。10年以下の懲役、禁錮、又は3千円以下の罰金。
・永井荷風『断腸亭日乗』大正12年9月7,9日
「九月七日。晝夜猶輕震あり。
九月九日。午前小山内吉井両君太陽堂番頭根本氏と相携え見舞に来る。小山内君西洋探検家の如き輕装をなし、片腕に東京日々新聞記者と書きたる白布を結びたり。午後平澤夫婦来訪。つゞいて浅利生来り、松筵子瀧野川の避難先より野方村に移りし由を告ぐ。此日地震數回。夜驟雨あり。」
・東京市内の夜間通行禁止
・地方の社会主義者グループの検挙や急進的自由主義者への弾圧。
岩鼻火薬所陸軍技手藤田悟、自警団に参加しないとの理由で家宅捜索。藤田が建設者同盟高津渡らと「群馬青年社会科学研究会」を作り、機関誌「上毛叛乱者」を出していたことが判明、治安警察法等違反で検挙。
・流言を打ち消すビラ。しかし、一般人は未だ朝鮮人来襲説に怯え、武器を携行して通行人を検問し、全国で朝鮮人を殺傷。
「有リモセヌ事ヲ言触ラスト処罰サレマス」
「朝鮮人ノ狂暴ヤ、大地震ガ再来スル、囚人ガ脱監シタナゾト言伝へテ処罰サレタモノハ多数アリマス」
・政府、震災地関係の手形で流通困難になると思われる21億円の内、決済の著しく困難と判断できる5億円について1ヶ月の支払猶予(モラトリアム)を決める。これ位では解決できない。
・日本銀行、ニューヨーク代理店監督役に対し、大震災(1日)の報により資金難に陥った為替銀行救済のため、横浜正金銀行に在外資金を払い下げるよう訓電。
〔1100の証言:品川区/品川・北品川・大崎〕
後藤甚太郎
〔7日頃〕私たちは品川駅を出発する時、駅前通りの東海道で異様な光景を見た。地方から東京に出てきている人の親族が、身内の安否を気遣い、馬車に物資を積んで、続々と東京に乗り込んで来ていた。その積み荷の上には、ほとんどの人が護身用として、竹槍や棒を積んでいた。警察は駅前に検問所を設け、それらの凶器を全部押収し、山積みにして焼却していた。
朝鮮人の暴動騒ぎのデマがこれほど早く地方にまで広がっていたことに、非常に驚いた。また恐ろしいことであると思った。
(後藤甚太郎『わが星霜』私家版、1983年)
《この日付け新聞》
第14師団井染禄朗参謀長、「今回の不逞鮮人の不逞行為の裏には、社会主義者やロシアの過激派が大なる関係を有するようである」と述べ、「神戸付近にロシア過激派の購買組合があって不逞鮮人と連絡をとり、ヨッフェ滞在中も不逞鮮人とロシア過激派と社会主義者のあいだで連絡があった」と語る。第14師団はシベリア出兵部隊で、井染は北部沿海州特務機関長で、反革命軍首領セミョーノフ贔屓として知られる。(「下野新聞」)
「帰来した青年団 情況報告」 (本県青年団活動報告)
(第一班)〔略〕3日午前2時岩淵に到着夜営した。然るに同地に鮮人が既に侵入し暴動起り、軍隊の活動で20余名を捕縛、現行犯2名を銃殺し尚数名の潜伏の模様ありしを以て一同厳重に警戒し徹宵した。
当時東京は一面紅空を呈し、時々銃声や爆発の音がドンと聞え物凄く、午前5時一同出発徒歩で赤羽王子間にさしかかるや警備の軍隊より宣告があった、「王子から東京は鮮人盛んに暴行を働きつつあり。もし鮮人を発見した時はぶち殺せ」と命じた。尚「井戸の水に毒薬投入されあるから一切飲むな」と命じた。〔略〕牛込下谷当りは青年団抜剣して実弾を打ちつつ警備した。 (「下野新聞」)
「鮮人の襲撃に一村全滅の所もある」『いはらき新聞』(1923年9月7日)
戒厳令が布かれてから軍隊憲兵警官の外に青年団等も日本刀槍等を携え夜間は皆抜刀である。暴動鮮人は自衛上これら防護団のために殺され又は捕縛されたが、最も多いのは2日朝上野東照宮前に200人捕縛されているのを実見した。それらはことごとく顔面手足ともに血みどろで労働者風のもの、学生、乞食の姿、鮮婦人も混じっていたが、自動車でドシドシ送っていた。
「鮮人の爆破に月島忽ち全滅」(『山形民報』1923年9月7日)
〔月島3号地の鉄管置場で〕翌朝〔2日朝〕に至って警視庁より「鮮人は爆弾を所持して工場その他を爆破し又井戸に毒薬を投じている。鮮人を見つけたならば直に捕縛せよ」との達しがあった。これで対岸の火災の原因もわかり又島内の爆音の正体も明になった訳だ。
〔略〕鮮人200名余り或は船に乗り或は泳いで月島に襲来した。そこで兵士が25名ばかり警戒のために上京し「鮮人は殺してしまえ」と命令したので島民は必死となって奮闘し片っぱしより惨殺した。それは実に残酷なもので或は焼き殺し或は撲殺し200余名の血を以て波止場を塗り上げられた。そしてさきに捕縛した者まで殺しつくした。〔略〕自分なども最初の一人を殺す時はイヤな気持もしたが、3人4人と数重なるに従って良心は麻痺し、かえって痛快な気特になっていった。
隅田元造〔福島県技師〕
「各所に発弾の音」
〔3日朝入京したが、警備隊・不逞鮮人のため1時間で去る〕私が山谷を去る時約2、3町の彼方に銃声数発聞えた。これは不逞鮮人を撃退するために軍隊が射殺したのであったが、流れ弾にでもあたってはならぬと思って、急いで逃、5日の夕刻川口から乗車したのだ。(『山形新聞』1923年9月7日)
鶴巻三郎〔当時芝浦製作所勤務〕
「不運鮮人射殺さる 荒川堤で200名」
鮮人との争闘は烈しく行われ、荒川堤では200人からの鮮人が射殺されました。ただ私は4日に東京を出ましたが、その頃は大部分の鮮人は郡部の方に逃げていました。(『北海タイムス』1923年9月7日)
近藤三次郎〔当時カスケート麦酒醸造元日英醸造会社勤務〕
鮮人に対する一般の反感は非常なもので、青年団等は急造の竹槍等を以て多数の鮮人を刺殺したり。ことに向島の白鬚橋等には多数の鮮人が倒れているのを見ました。死体や負傷者等は手のつけようもないと見えて私が発った4日の正午頃まではそのままとなっておりました。
(「鮮人に対する反感加わる」『北海タイムス』1923年9月7日)
「9月7日」の項終り
つづく
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