大正12(1923)年
9月4日
『〈証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人』より
震災見舞(日記) 志賀直哉
九月一日、午後、電柱に貼られた号外で関東地方の震災を知る。東海道汽車不通とあるに、その朝特急で帰京の途についた父の上が気にかかる。・・・
(略)
翌朝、家人に覚まされ、号外を見せられる。思いの外の惨害に驚く。麻布の家、心配になる。父の留守女棚かり故一層気にかかる。
(略)
信越線廻わりで川口町まで汽車通ずる由、H君聴いて来る。・・・
(略)
T君に送られ、三時何分の列車にてたつ、客車の内、込まず、平日に変りなし、・・・・・
(略)
八時四十分、臨時川口町直行と云うに乗る。旧式な三等車の窓際に陣取ったが後から後から乗って来る人で箱は直ぐ一杯になった。皆東京へ行く人だ。・・・・・
(略)
塩尻でも、松本でも、篠ノ井でも、下車して次の列車を待って呉れと言われる。然し乗客達は直行を引返す法はないと承知しなかった。・・・・・
(略)
何の停車場でももう食物を手に入れる事は困難になって居た。H君は篠ノ井で汽車の侍って居る間に町へ行き、出来るだけ食料品を買込んで来た。・・・・・
(略)
汽車は停って二時間余りになるが却々(なかなか)出そうにない。吾々は京都を出て一昼夜になる。
やがて信越線の定期が着いたが、客車は既に一杯以上の人だった。五六百人の人々はそのまま歩廊(プラットホーム)に立尽くさねばならぬ。間もなく定期よりも先に吾々の列車が動き出した。此方の乗客達は歓声を挙げ、手を拍って騒いだ。
(略)
軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では鮮人が爆弾を持って暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、兵隊二三人に弥次馬十人余りで一人の鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」直ぐ引返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、余りに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
高崎では一体の空気が甚く険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。救護の人々活動す。すれ違いの汽車は避難の人々で一杯。屋根まで居る。
駅毎高張提灯をたで、青年団、在郷軍人などいう連中救護につとむ。
(略)
四日午前二時半漸く川口駅着。夜警の町を行く。所々に倒れた家を見る。・
(略)
此所を出て、堤を越え、舟橋にて荒川を渡る。其辺地面に亀裂あり、行く人逃れ出る人、往来賑う。・・・・・
赤羽駅も一杯の人だった。駅前の大きなテントには疲れ切った人々が荷に倚って寝て居た。自分もきたない物の落ち散った歩廊(プラットホーム)に長々となる。何時か眠る。
H君に起こされ、急いで日暮里行きの列車に、窓から乗込む。
入谷から逃れ、又荷を取りに帰ると云う六十ばかりの女と話す。火にあおられ、漸く逃れ、井戸を見つけて飲もうとすると、毒を投込んだ者があるから飲めぬと云われた時は本統に情けない気がした、など云う。
(略)
日暮里下車。少し線路を歩き、或る所から谷中へ入る。・・・・・所々に関所をかまえ、通行人の監視をしている。日本刀をさした者、錆刀を抜身のまま引きずって行く者等あり。何となく殺気立っている。
谷中天王寺の塔がビクともせず立っている。・・・・・
上野公園は避難の人々で一杯だった。・・・・・
交番の傍に人だかりがしている。人の肩越しに覗くと幾つかの死体が並べてあり、自分は女の萎びた乳房だけをチラリと見てやめる。
三宜亭(さんぎてい)という掛茶屋の近くにある、あの大きな欅の洞が未だ弱々しく燃えていた。・・・・・
山から見た市中は聴いていた通り一面の焼野原だった。・・・・・
(略)
広小路の今は無いいとう松坂の角で本郷へ行くH君に別れ、電車路をたどって行く。焼けて骨だけになった電車、・・・・
黒門町、万世橋、須田町、此所の焼けて惜しくない銅像は貼紙だらけの台石を踏まえ反りかえって居た。
駿河台と云う高台を自身の足元から、ずっとスロープで眺めるのは不思議な感じがした。
ニコライ堂は塔が倒れ、あのいい色をした屋根のお椀がなくなって居た。
神田橋はくの字なりに垂れ下がって渡れない。傍の水道を包んだ木管の橘を用心しいしい渡る。
二昼夜の旅と空腹で自分は可成り疲れて居る。所々で休み、魔法壜の湯を呑む。
そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合い、二人は友達らしく立話を始めた。
「 - 叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある - 」刺子の若者が得意気にいった。「 - 鮮人が裏へ廻ったてんで、直ぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ね一寸此方を見、言葉を切ったが、直ぐ続けた「然しこう云う時でもなけりやあ、人間は斬れねえと思ったから、到頭やっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、不断左う思うよりは自分も気楽な気特でいた。
(略)
麻布の家は土塀石塀等は壊れたが、人も家も全く無事だった。・・・・・
(略)
鮮人騒ぎの噂却々(なかなか)烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛する事にする。一般市民が鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしている事、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ている事などを知らせ、幾分でも起るべき不快な事を避ける事が出来れば幸だと考えた。・・・・・
(略)
(大正十二年九月)
(『新興』第一号、一九二四年二月。翌年四月、志賀直哉著『雨蛙』改造社に収録)
つづく
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