大正12(1923)年
9月4日
『証言集 関東大震災の真実 朝鮮人と日本人』より
学校帰りに殺されるのを見た 大島利男
四日、学校の帰りに自転車で荒川の土手にのぼった時、吹上方面から、たくさんの人が、土手の小段を歩いて来るのが見えました。人数はわかりませんが、二、三百人もいるかと思いました。三、四十人に一人ずつ警官が付いていたと思います。それが朝鮮人たったのです。だんだん目の前に集団が現われて来ました。角帽をかぶった大学生、女の人、子どももいました。軽く荒縄で縛られていたようです。土手の上には、袖がらみ、つるはし、農具などを持ったり、日本刀を腰にさした人びとが、一緒に歩いて来ました。その人達は、何か大きな声でさわいでいました。人数は朝鮮人の数よりも、ずっと少ないけれど、吹上方面から一緒に歩いて来たようでした。
やがて、土手の小段の所で休憩したようです。その時、前の稲の植えである田圃の中の小道へ、一人の朝鮮人が逃げ出しました。その後を、棒など変な物を持った連中が、十数人追いかけて行きました。朝鮮人は、元荒川に飛び込みました。当時は、澄んだ幅数メートルくらいの川でした。私が行った時には、棒などで突っつき、引き寄せていました。水の中でずいぶん苦しんでがまんしていたようですが、土手に引き寄せられたと思うと、また水の中にしゃがんでしまいました。そして立ち上がったら、川の端でつるはしを持っていた人が、それを脳天にぶっ刺し、引き寄せたのです。血と脳柴がふき出ました。脳天から四筋も六筋も血が流れ、口の中へ入っていくのが、目のあたりに見えました。川から上がり、「歩け」といわれたかと思います。五、六歩行って倒れました。
引き返して来ると、「出発」といって移動を開始しました。私が付いて行くと、荒川の土手を離れて、久下神社の前に行きました。当時は神社の脇に駐在所と久下役場があり、その役場の裏に蓮池がありました。(今は埋めてしまって農協の倉庫が建っている)。突然三、四人の朝鮮人が、役場の脇を通り、蓮池の方へ逃げました。人びとが追いました。すると追われた四十才がらみの男の朝鮮人が、蓮池をまわって、もどって来ました。誰かがその朝鮮人をひっくりかえしてしまいました。「おまえたちが、東京のおれたちの親戚の井戸に毒を入れた」とか、「この地震を、おまえたちが起こした」といって、数十人が輪になって朝鮮人を取り囲み、十貫目位の石を、ころがった朝鮮人の背中にぶっつけました。その石が、ごろごろと、ころがって向うへ行くと、それをまた向うの人が拾ってぶっつけました。四、五回やられ、朝鮮人は身体をぐっと伸し、息絶えたようでした。
私の見たのはそこまでですが、見はじめてから、一時間か二時間ぐらいだったと思います。蓮池の所でも幾人か殺されていたそうですが、私は見ませんでした。もう見るどころではありませんでした。
翌朝(五日)、自転車で熊中へ行く途中に、たくさん死体を見ました。一番多かったのは、秩父線の踏切の手前(線路の南側)、今マンションの建っているあたりです(当時は砂利置場になっていた)。のど笛が切られて血の塊が出ている人、肩からけさがけに切られている人、頭に穴をあげられている人などがいて、そこに犬がたむろしていました。九月で暑い時ですから、もう臭くなっていました。人数は二、三十人いたでしょうか、はっきりしません。
その他多かったのは、皮肉なもので、熊谷警察のあたりです。本町三丁目から四丁目にかけてです。それから熊谷寺の前にもありました。他に学校へ行く道がないので、やむなく通りましたが、おそろしくて数を数えるどころではありませんでした。その後幾日か、死体はそのままの状態で置かれていたと思います。学校を往復する時、何日か見た気がします。やがて隠坊の人が、鉄の輪のついた荷車に積んで大原墓地へ運び埋めたのです。
[当時、熊谷中学生]
(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史 - 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者調査・追悼事業実行委員会、一九七四年)
関東大震災の追憶 渡辺良雄
2日より→
九月四日になると、色々な事実無根の流言が飛びかっだ。「朝鮮人が約二千人、浦安町に上陸して、自転車隊となり船橋の無線電信所を襲撃する。警戒せよ!」「船橋の三田浜海岸に、朝鮮人が数隻の船で上陸する。警戒せよ!」「只今、中山で警官と朝鮮人が衝突し、多くの怪我人が出た。」「朝鮮人が、東京で井戸に毒薬を入れたり、婦女暴行騒ぎ等があって大変だ。」その他、色々な流言が飛んだが、警戒したり調査すると、根も葉もない流言であったことが判明した。
[略]色々な流言に迷い、各所に自警団が組織され、消防団、一般住民、さらに東京方面からの避難民も加わり、日本刀を持ち出す者や竹槍を携えるものもあり、物情騒然たるものがあった。また、鉄道線路に押し掛けて、列車に停車を命じて車内を捜索する等、治安は極度に乱れた。
一方、関東地区に戒厳令が公布されて武装した軍隊が各所に配置され、船橋無線電信所の警備や市川橋や行徳橋等には、実砲着剣の軍人が通行人を尋問していた。そして各地で、流言で迷わされた軍人に、朝鮮人や言葉の明確でない日本人も相当射殺された。
[略]
大正一二年九月四日午後一時頃、元吉署長から、「北総鉄道に従事していた朝鮮人が、鎌ヶ谷方面から軍隊に護られて船橋に来るが、船橋に来ると皆殺しにされてしまうから、途中で軍隊から引継いで、習志野の捕虜収容所に連れて行くように。」と命ぜられた。私とほか数人の警察官が出掛けて行き、天沼の付近まで行くと、騎兵が前後について手を縛られている朝鮮人約五〇人位が列をなしてやって来た。私達はその騎兵に手を拡げて、「この人達を我々に渡してくれILとお願いした。すると騎兵隊は、「船橋の自警団に引き渡せと命令を受けて来たので、駄目だ。」と聞き入れてくれなかった。(みると、みんな針金でしぼられていた。みんなつながっていた。)
「もし船橋に行くと皆殺しにされるから、引き渡してくれ」と、押し問答しているうちに、ちょうどその時、船橋駅付近で列車を停めて検索していた自警団や、避難民の集団に発見された。警鐘を乱打して、約五〇〇人位の人達が、手に竹槍や鳶口等を持って押し寄せて来た。私は、ほかの人達に保護を頼んで、群集を振り分けながら船橋警察署に飛んで戻った。署に着いて元吉署長にその状況を報告すると、署長は、「警察の力が足りないので致し方ない。引き返して、状況をよく調べて来てくれ。」と命ぜられた。私がすぐ引き返して行くと、途中で、「万歳! 万歳!」という声がしたのでもう駄目だと思った。現場に行ってみると、地獄のありさまだった。保護に当った警察官の話では、「本当に、手の付けようがなかった。」とのことであった。調べてみると、女三人を含め、五三人が殺され、山のようになっていた。人間が殺される時は一カ所に寄り添うものであると思い、涙が出てしかたがなかった。後で判ったことであるが、船橋の消防団員が、朝鮮人の子ども二人を抱えて助け出し、逃げて警察に連れて来たとのことだった。少しは人の情というものが残っていたと思った。五三人の屍体は、付近の火葬場の側に一緒に埋めたが、その後、朝鮮の相愛会の人達が来て、調査するとのことで屍体を焼却して散乱してしまった。
→9月20日へ
[当時、船橋警察署(千葉県)巡査部長]
(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会編『いわれなく殺された人びと -関東大震災と朝鮮人」青木書店、一九八三年)
つづく
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