大正12(1923)年
9月5日
・永井荷風『断腸亭日乗』大正12年9月5,6日
「九月五日。午後鷲津牧師大久保に来る。谷中三崎に避難したりといふ。相見て無事を賀す。晩間大久保を辭し、四谷荒木町の妓窩を過ぎ、阿房の家に憩ひ甘酒を飲む。郵便局裏木原といふ女の家を訪ひ、夕餉を食し、九時家に歸る。途中雨に値ふ。
九月六日。疲労して家を出る力なし。・・・」
・この日、内閣告諭第2号(「震災に際し国民自重に関する件(鮮人の所為取締に関する件)」)及び関東戒厳司令官(福田雅太郎大将)命第2号。
「内閣告諭第二号 今次ノ震災ニ乗ジ 一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗ル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所為若シ不穏ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其処置ニ俟ツベキモノナルニ民衆自ラ濫リニ鮮人ニ迫害ラ加フルガ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラズ 又諸外国ニ報ゼラレテ決シテ好マシキコトニアラズ 事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ基因スト認メラルルモ刻下ノ非常ニ当リ克ク平素ノ冷静ラ失ハズ慎重前後ノ措置ヲ誤ラズ以テ我国民ノ節制卜平和ノ精神ヲ発揮セムコトハ 本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ 内閣総理大臣伯爵 山本権兵衛」
(民衆が朝鮮人を迫害するのは、韓国を併合した日本の「善意」に反し、外国で報道されるのは好ましくない。虐殺の事実が諸外国で報道され、日本の不利益になることを恐れた。)
「一、自警ノ為団体若クハ個人毎ニ所要ノ警戒方法ヲ執リアルモノハ、予メ最寄警備隊、憲兵又ハ警察官こ届出其指示を受クベシ
二、戒厳地域内ニ於ケル通行人ニ対スル誰何、検問ハ軍隊、憲兵及警察官二限り之ヲ行アモノトス
三、軍隊、憲兵又ハ警察官憲ヨリ許可アルニ非ザレバ、地方自警団及一般人民ハ武器又ハ兇器ノ携帯ヲ許サズ」
・この日、陸軍習志野捕虜収容所への朝鮮人、中国人の移送開始
移送の連絡担当は遠藤三郎。遠藤は4日午前〇時、第3中隊を連れて国府台を出発、深川区の岩崎別邸で罹災者の救援にあたっていた。その後、5日午前4時頃、野重第3旅団の「増加参謀」として招かれ、亀戸警察署など収容能力を越えていた朝鮮人・中国人の収容先確保にあたることになる。遠藤は旅団長命令により戒厳司令部に行き、習志野収容所での保護の了解を得て習志野に向かう。
移送された朝鮮人は約1千人弱。移送途中、江東区の旧羅漢寺で一部が虐殺され、習志野に移された後も虐殺が続く。
遠藤三郎;
当時、国府台の野重砲第1連隊第3中隊長、30歳。震災時は休暇で家族と共に郷里の米沢にいた。妻の兄も姉も東京にいるので、幼児も連れて東京に戻る。2日夜に小岩村の自宅に到着。
3日午前8時に連隊に出勤。この時すでに国府台最高責任者の金子直(なおし)旅団長以下は朝鮮人暴動を信じて、「討伐隊」を東京に送り込んでいた。
2日の午前10時半、岩波少尉以下69人は小松川についていた。この日の岩波少尉らの朝鮮人虐殺は「武勇」として評判になっていた。
野重第1連隊兵士久保野茂次の日記には、「望月上等兵と岩波少尉は震災地に警備の任をもってゆき、小松川の温順に服してくる鮮人労働者二百名も兵を指揮して惨ぎゃくした」とある。
旧・羅漢寺付近にて
習志野収容所に送られる途中の、1000人近いと思われる朝鮮人の列から、憲兵が16人だけを抜き出して銭湯の建物に入れ、さらにその裏口から「放免」することで、群衆の殺すがままに任せた。
9月5日 水曜日 午後4時半 旧・羅漢寺付近(東京都江東区)
差し出された16人
千葉街道に出ると、朝鮮人が1000人に近いをと思うほど4列に並ばされていました。亀戸警察に一時収容していた人たちです。憲兵と兵隊がある程度ついて、習志野のほうへ護送されるところでした。
もちろん歩いて。列からはみ出すと殴って、捕虜みたいなもので人間扱いじゃないです。(中略)僕は当時純粋の盛りですからね。この人たちが本当に悪いことをするのかなって、気の毒で異様な感じでした。(中略)
ここ(羅漢寺隣の銭湯前)まで来たら、針金で縛って連れてきた朝鮮人が8人ずつ16人いました。さっきの人たちの一部ですね。憲兵がたしか2人。兵隊と巡査が4、5人ついているのですが、そのあとを民衆がぞろぞろついてきて「渡せ、渡せ」「俺たちのかたきを渡せ」って、いきり立っているのです。
銭湯に朝鮮人を入れたんです、民衆を追っ払ってね。僕も怖いもの見たさについてきたんだけど、ここで保護して習志野(収容所)に送るんだなあと、よかったなーって思いましたよ。それで帰ろうと思ったら、何分もしをいうちに「裏から出たぞー」って騒ぐわけなんです。
何だって見ると、民衆、自警団が殺到していくんです。裏というのは墓地で、一段低くなって水がたまっていました。軍隊も巡査も、あとはいいようにしろと言わんばかりに消えちゃって。さあもうそのあとは、切る、刺す、殴る、蹴る、さすがに鉄砲はなかったけれど、見てはおれませんでした。
16人完全にね、殺したんです。5、60人がかたまって、半狂乱で。
(中略)ちょうど夕方4時半かそこらで、走った血に夕陽が照るのが、いまだに60何年たっても目の前に浮かびます。自警団ばかりじゃなく、一般の民衆も裸の入れ墨をした人も、「こいつらがやったんだ」って夢中になってやったんです。
浦辺政雄(16歳、『風よ鳳仙花の歌をはこべ』)
・言論統制により、警官・軍隊・自警団による朝鮮人虐殺の事実を隠し、また新たな流言を流す事でこれをを正当化する工作。外国政府・内外世論・植民地支配への影響を危惧。
5日、各省と戒厳司令部との協議機関の臨時震災救護事務局警備部は、次の事項を事件の真相として宜伝し始める。
「鮮人に対しことさらに大なる迫害を加えたる事実なし」
「朝鮮人、暴行または暴行せんとしたる事実を極力調査し、肯定に努むること」
「海外宣伝は特に赤化日本人及び赤化鮮人が背後に暴行を煽動したる事実ありたることを宣伝するに努むること」。
この決定は、存在しない朝鮮人暴動の背後で社会主義者が糸をひいていたのだ、との新しい流言が生む。
・警視庁、正力官房主事と馬場警務部長名の通牒。社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ。
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