2023年12月25日月曜日

〈100年前の世界165〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉒) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年9月29日~12月1日 獄中の和田久太郎  

 


〈100年前の世界164〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉑) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年9月2日~10日 村木源次郎・古田大次郎、一連の爆弾事件のあと逮捕される より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉑) 

松下竜一『久さん伝』より 


大正13(1924)年9月29日~12月1日

9月29日夕、村木源次郎・古田大次郎は市ケ谷刑務所へ護送。

古田大次郎『死の懺悔』の記述


門の外で僕たちは、縄につながれたまま、ゾロゾロと虱(しらみ)のように、自動車をおりて、水たまりをよけながら、門の内にはいっていった ー のでなくて、じつは引きずりこまれた。いま一歩で門の内というときに、僕はこれが裟婆の土の踏みおさめかとおもうと、妙に心細かった。さぞ、しょんぼりと、あわれ気に見られたことだろう。

僕たち一同はそれから、いい加減あちこち引き廻されたあと、奇怪な室につれてゆかれた。(このへんは、あまりくわしく書かない。刑務所の規則に違反するそうだから)。そこで僕たちは、裟婆で着ていた着物から猿またまできれいにぬきすてて、素裸となり、尻の穴まで検査されたあげく、うす汚ない青色の獄衣を着せられた。これで立派な囚人が一人出来あがったわけである。

村木君も、皆と同様の囚人姿になりすました。小男の村木君が、うすっぺらな青着物をつけたかっこうはいたいたしいほどにみすぼらしかった。しかし村木君は元気だった。すこしはかり顔がむくんだように見えたが、たいして弱ってもいなかった。頭はまるで百日かずらのようで、青白い顔に、無精ひげがボソボソとはえたさまは、昔の武士が、長らく閉門をおおせつけられていましたが、今日やっと許されました、といった体裁だった。二人は着物の襟にぬいつけられた、番号札をゆびさして笑いあった。

大分おそくなってから、僕たちは、点呼をうけて、めいめいの部屋に引きとられた。村木君は、蒲団を小脇にかかえて、「では失敬」といいすてたまま、階段をスタスタと上っていった。壮健な姿の村木君を見たのはじっにこれが最後だった。

9月11日付けの和田久太郎の堺利彦(和田より26歳年上)宛て手紙。

僕も、今年は非常に壮健です。殊に入獄してからは、地震以来の悩みがきれいに一掃されて謂ゆる真如の月とかを仰いだ様な心持でいます (中略)

目的は未遂に終ったが、それも今ではアハハァと哄笑して済ましています。一時は未練がましく残念がりましたが、もう其の事も何んでもなくなりました。元来僕は、貴殿の恬淡味を些か嘲笑して来たものですが、そして今でも矢張り多少はそう思っていますが、然し其の僕自身を省みる時、やはりそれが多分にある事を見出して苦笑に堪えません。お互いに悪く日本人臭い所がありますよ。呵々


和田久太郎の労働運動社に宛てた第一信。

敗軍の卒、兵を語らず、今更ら何をか言わんやだ。・・・・・生ける者に自由あれ!だ。

いろんな所へ、トンダ迷惑が行ってる事と思う。ただ御許しを乞うより仕方がない。僕が斯んなことをやろうとは誰も夢にも思っていなかったろう。しかし、僕としては当然すぎる程に当然な行動だよ

近藤憲二は、大杉門下の三羽烏と称される一番身近な同志でありながら、村木からも和田からも福田大将暗殺計画を打ち明けられなかった。村木も和田も、近藤が安成二郎とともにとりかかっている『大杉栄全集』(10巻)編集に専念し、一日も早い刊行を願った。

また、彼らの運動の拠点である新聞『労働運動』の発行を支える者として、近藤を無傷のまま残したということでもあった。三人のなかで、そういう実務能力を持つのは、近藤以外になかった。

『大杉栄全集』はこの2年後に完結するが、その最終配本となった第4巻の付記のなかで、安成は、「・・・・・殊に、この全集の仕事に没頭している間、近藤君は有らゆる運動から耐え忍んで遠ざかって来た」と書きとどめた。近藤憲二は、村木源次郎と和田久太郎の希いに、誠実に応えた。

事件の余波でほとんどの同志たちが検束され、それぞれに2週間から1ヵ月近い拘束を受けた影響で、月刊『労働運動』は一時休刊とならざるをえなかったが、ようやく再開した12月号に、和田久太郎の市ヶ谷刑務所からの来信が掲載されている。

             

馬鹿に暖かだったり、寒かったりするが、俺は全く壮健だ。毎朝、冷水でからだを拭くし、室も綺麗に掃除する。運動のために。感心なものだろう。 

而して禅学に耽り、座禅三昧に、毎日二三時間費しつつある。悠々閑々たりだ。監獄にも菊が咲き始めた。受刑者の衣の塵のようなトンボも盛んに飛ぶ。紫に匂う曙や、つづれの錦のように輝く夕雲を見たいなら入獄する事だね。裟婆にいると決して自然がこんなに綺麗に映らないよ。

例によって俳句を見せようか。

半旗など買いたり菊も匂う今日

煙突の中程見えて秋の晴

秋の蝶に乾く病舎の布団哉

長き夜や鼠が鳴けば鳩も鳴く

下駄の音は新入りか知らず虫の声


11月25日、和田久太郎の接見禁止が解除され、望月桂の妻福子は、幼い公子を連れて面会にいったらしく、12月1日付けの手紙で和田は面会の礼を述べている。

望月桂は、犀川凡太郎の筆名を持つアナキズム系の画家であり漫画家で、大杉との共著に『漫文画』がある。和田は家庭的雰囲気が恋しくなると、千駄木の望月の家に入り浸っていた。和田にとって、それがいかに深い慰めであったかは、獄中から望月に苑てて次のように書送っていることで分かる。


それからなァ、君の家庭の如き幸福な善良な人々には、殊に福子夫人の如き人には、余り心配させるような事はするなよ。第一線には俺の様な浮浪人が起つ。独身者に限る。君の様な人は陣の背後にあって補助的事業をやってくれ。傷つき倒れる者の病院になってくれ。これ亦大事業だ。最大必要事だ。


福子が幼い公子を連れて面会にきてくれたのが、久太郎にはよほど嬉しかったらしい。福子宛ての手紙に、キミちゃん宛てて〈コレヲ、カアサンヤ、ネーチャンニ、ヨンデモラッテクダサイ〉と但し書きした、おかしな童謡を書き添えている。


久、久、鼠

キュウ、キュウ、ネズミ

キュウオジサン

ネズミノヨウナ

ヒゲデキタ

オマンマタべテ

ホンヨンデ

トキドキ ソトラ

キョロ、キョロト

ココハ、カナアミ

オリノナカ

トキドキ ソトヲ

キョロ、キョロト


この「久、久、鼠」は、たぶん8歳になる大杉魔子がその頃書き送ってきた童謡を読んで、それに触発されて書いてみたくなったのかも知れぬ。

大杉栄と伊藤野枝の遺児たち-魔子、エマ、ルイズ、ネストルの四人は、野枝の里である福岡県糸島郡今宿村の祖父母に引きとられていったが、長女魔子はその後、野枝の叔父にあたる福岡市の代準介方に引きとられている。

和田たちは、できるだけ早く長女の魔子と長男のネストルを労働運動社還れ戻して、自分たちの手で育てたいと考えていたが、もういまとなってはそれも果たせぬ夢となった。薄倖のネストルは、その今橋で此の年の夏8月15日にわずか1歳で病没している。

福岡の魔子が村木の源兄いにみせるのだといって自作の童謡を近藤宛てに送ってきたとき、近藤は村木だけでなく和田にも、さらには『労働運動』誌上にまで披露した。

和田の近藤宛て手紙。


マコの童謡、嬉しく挿見した。花だの風だのと、もう大分、漢字さえ書ける様になったのだね、早いものだ。僕からは手紙を出さないでいるが、君からついでに宜敷言ってやってくれ。その内、僕も童謡を一つ書き送ってやろうかな。最後の時までに、都合がつけは一度マコの顔を見たいものだと思っている。淀橋以来、僕は会わないからねえ・・・・・。然し、来られないなら仕方がない。


魔子に書き送らなかった童謡を、公子に書いたというわけだろう。


つづく


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