〈100年前の世界150〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅶ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 9月25日 遺体引取り 世論の動向(甘粕減刑嘆願、甘粕非難の声) より続く
大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅷ)
佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より
10月8日
第1回軍法会議(青山の第1師団司令部)
午前8時30分、開廷。
被告席に軍服姿の甘粕と、共犯とされた東京憲兵隊本部附曹長・森慶治郎が着席。
法務官のうしろの特別傍聴席には、第1師団長石光真臣中将と幕僚、一般傍聴席には、甘粕兄弟や陸士24期の同期生たちが並ぶ。
判士長岩倉正雄(陸軍歩兵大佐)が最初に甘粕を呼ぶ。
原籍、住所、氏名、年齢、叙勲、賞罰など型通りの人定質問、検察官山田喬三郎(陸軍法務官)による公訴事実の朗読、続いて判士小川關治郎(陸軍法務官)の実質審理に移る。
軍法会議の公判記録は散逸しているが、この裁判を傍聴しその様子を細大漏らさず書き留めた記録『問題の人甘粕正彦』(山根倬三・小西書店、大正13年出版)された記録がある。
この軍法会議ではは、甘粕は、大杉一家虐殺は自分一己の考えから出たことであり、上からの命令は一切なかったという点で首尾一貫している。
しかし、昭和51(1976)年に発見された大杉一家の「死因鑑定書」は、この甘粕の供述をことごとく覆す結果となった。
この軍法会議で最も見るべきは、殉教者意識の虜になったとしか思えない甘粕の”名演技”ぶりである。
■判士(陸軍法務官)小川關治郎に社会主義者に対する一般的感想を尋ねられた甘粕の回答
「思想問題については、以前ちょっと研究したことがあります。この頃は特別研究しておりませんが、今日の思想界がほとんど混乱状態に陥り、刻一刻と危機に瀕していることはいまさら申しあげるまでなきことで、国家のため憂慮にたえません。かかる危機的状況を何とかして一日も早く救い、ひいては社会の改善をはかりたい希望をもっておりました。
特にわが帝国は天祐とでも申しましょうか、西洋各国が五、六百年の間に繰り返し繰り返しやっと文明をかたちづくったのに対し、わずか五、六十年の間に建設することができました。この光輝ある帝国に不純なる思想を芽生えさせようとするのは、天と倶に許さざるところであります。
社会主義の根本は、人間が肉体を離れて霊にならなければできないことですが、よしその根本は間違っていても聞くべきものもあります。しかし、無政府主義にいたっては、国家に対し、国体を蠧毒(とどく)し、大和民族の帰結を害うことの甚だしきものであります。
かかる危険思想は、国家を憂える者が決然と起って排斥すると同時に、建国の大本を無視する獅子身中の虫は、天に代わって制裁を加えなければなりません」
■判士と甘粕の応酬
- 震災後の社会主義者の言動について、何か不穏という確証でも得たのか。
「震災後、放火犯人を逮捕して調べたところ、その背後に社会主義者がいて、朝鮮人と連絡をとり、ことを起こそうとしていることを知りました。伊藤野枝が爆弾を懐に、ひそかに活動しているということも聞きました」
- それらの者に対して、いかなる方法をとろうと思っていたのか。
「震災後、人心は非常に動揺しました。私は万一のことを考えて、寝食を忘れてその警戒にあたりました。それというのも、国家が一部人心の動揺のため、危殆に瀕しはしないかと痛感したからであります。しかるに警視庁は、社会主義者の末端は片っ端から検束しているのに、大杉栄のごとき巨頭はそのまま放任していた。これは非常に遺憾なことだと思いました」
- 大杉栄の行動に関して何か確証でも握ったのか。
「一日以来、野枝と一緒に行動していると聞きました」
- 放火犯人や朝鮮人を使嗾した主義者は誰だということだったか。
「ハッキリとはわかりませんが、大杉もむろんその一人だと思いました。特に大杉は検束されていませんでしたから、かかる運動をしているのは大杉らよりほかにないだろうと思ったのです」
ー 大杉の所在を捜索しようと思ったのはいつ頃か。
「九月上旬のことです」
- 所在を知ってどうしようと思ったか。
「捕らえたら殺してやろうと最初から考えていました」
(満員の傍聴席から驚きの声があがった。)
- いかなる方法で大杉をヤッツケようとしたのか。
「九月十五日の夕方、森曹長を従え私服で淀橋署に行きますと、大杉は子どもを連れて戸山ケ原を散歩していると聞きましたので、戸山ケ原に大杉がいたら、手で絞殺しよう、万一のときは射殺しようと思い、拳銃を持って行く覚悟を決めました。しかし、大杉は自宅にいることがわかり、その日は目的を果たさず、空しく帰りました」
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