大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉓)
松下竜一『久さん伝』より
大正13(1924)年 大正13(1924)年12月
魔子が送った童謡は、「労働運動」第6号(第4次、1924年12月1日発行)掲載の村木源次郎の短信にある。
童謡二ツ 大杉マコ
私ハ花ガ大スキヨ
チラチラチラト
チルカラヨ
ホントニ花ハ大スキヨ
*
花ガサク 花ガサク
ハルガキタカラ 花ガサク
風ガフクタビ
花ガチル
右は、先日、福岡にいるマコちゃんから、村木の源兄ィに見せるんだといって送って来た、童謡の中の二つであります。源兄イ同様に、マコちやん達の事を心配してゐて下さる諸君にお目にかけます。
マコちゃんは、今八つで二年生になってゐます。
この短信の載ったとき、村木源次郎はすでに獄中にあった。大杉らを虐殺した軍部に対し報復テロを実行し、失敗して捕えられた。
和田久太郎は12月、短歌をも詠み始めるが、それにも魔子を憶うやるせない感傷を托している。
しみじみと嬉しかりけり星一つかかるすき間の逢う瀬を思えば
キラキラと突いてやまぬ星一つ見飽かざりけり魔子や如何はと
「不思議な失策が却って辛(?)となり、先ず死刑だけは逃れそうな様子だ。が、監獄の中で長年に亙(わた)ってジリジリ死んで行く無期なんかは有難くないね。嫌やだね。有期で、そして確かに生きて出られそうな刑期なら受刑するが、無期の様なのなら、やはり死刑に願いたいものだと思っているよ。どうなるかなア。アハゝゝゝ。秋天高く月麗朗たり、さ」
事件直後の新聞予測では、せいぜい懲役4、5年ぐらいかということであったし、事件の筋もはっきりしているので、簡単に予審も終わるだろうと考えていたのに、久太郎は年末に沼判事から呼ばれ
「本年中に終わろうと思ったが、事件がこんがらかって、つい面白くなっていくものだから、やはり来年に延ばすことにした」
と告げられる。古田大次郎がかかわっているギロチン社事件とのからみのようであった。久太郎も覚悟を据えるしかない。
村木源次郎はこの獄中で病気が重くなり、翌1925(大正14)年1月22日に担架で労働運動社に返されてきたが回復することなく24日に息を引き取った。その日は、幸徳秋水らが処刑された大逆事件記念日でもあった。
和田久太郎が獄中で、悲痛な書簡を残している。
村木はあの体ですから、捕ったら駄目だとは思ってゐましたが、それにしても、せめて法廷にだけは起たしてやりたかったです。が、何んとも仕方ありませんでした。しかし、村木は村木らしく死にました。僕が思はず枕頭に涙を流したのを見て、彼は「泣いたつて……しょうが……あ、あるかッ」と切れ切れな言葉で僕を叱りました。そして、既に意識を失った死体同然の体を、タンカに乗せられて監獄を出て行きました。それは一月半ばの風の激しい、寒い闇の夜でした。
一味に対する判決は、暗殺未遂から1年後の1925(大正14)年9月10日で、古田大次郎は死刑(弁護人の山崎今朝弥、布施辰治は反対したが、 古田は死刑を受け入れ、控訴せず、同年 10月15日午前8時25分、絞首される)、和田久太郎は無期懲役、倉知啓司は懲役12年、新谷与一郎は懲役5年という重刑を宣告された。
未遂に終わった和田久太郎に対する無期懲役は過酷な重刑であった。大杉らを虐殺した甘粕は懲役10年の刑で、しかも在獄わずか2年10ヵ月でひそかに仮出所している。
つづく
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