大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑯)
松下竜一『久さん伝』より
アナキスト結社ギロチン社の古田大次郎 小阪事件(10月16日) そして、古田は朝鮮に渡る(11月半ば)
のちに和田久太郎・村木源次郎と結び付く古田大次郎。
古田は偶発的とはいえ殺人を犯す(小阪事件)。彼は、獄中で『死刑囚の思い出』・『死の懺悔』(ベストセラーになる)を書き遺すが、この二冊の遺著によって、彼の人柄・思想・行動が後世に伝えられることになった。
古田大次郎は東京の出身。1900(明治33)年元日に生まれで、震災の年には満23歳。彼は、早稲田大学英法科に入って間もなく、学校の図書館で幸徳秋水の『社会主義神髄』を読み社会主義に目覚める。間もなく民人同盟会に加わり、のちに北沢新次郎教授の指導する建設者同盟に移る。だが、彼はそこにはなじめなかった。
彼は、自身が知識階級の端くれに位置しながら、研究にも打ち込めず、さりとて労働者にもなれぬという曖昧さを悩みつづけ、やがて建設者同盟を出て、アナキストたちに近づいていく。
卒業問ぎわの大学をやめ、農村問題に取り組むため、二人の同志と小作人社を結成し、雑誌『小作人』を発行し始めたのは、1922(大正11)年2月上旬。社会主義者としては自立した活動の第一歩であった。
『労働運動』の小さな広告では、〈『小作人』(月刊)定価一部三銭 埼玉県南埼玉郡綾瀬村上蓮田 小作人社〉とある。
この蓮田の家へ、中浜鉄がひょっこりと立ち寄る。この中浜との出通いが、古田をテロリストの道を選ばせる。中浜は古田の人柄を信じて、重大計画(4月に来日する英国皇太子の暗殺、またあわよくば、摂政裕仁をもともに葬りたい)を打ち明け、古田はこれに同意する。
英国皇太子襲撃については、中浜は武器の入手が遅れて機会を逸してしまう。
このあと、古田は小作人社を解散して、中浜と二人で那須温泉に出かけた江口渙の借家に転がり込む。古田は拾った小猫をかわいがり、毎日本を読むか海岸を散歩するかで静かな日々を過ごす、中浜は精力的に諸方に出没して活動をつづげ、やがてギロチン社(テロによって現体制を転覆させることを目的とする虚無的結社)を結成する。
年が明けて、古田は東京に戻る。ギロチン社の一党は北千住に家を借りて、狭い家に7、8人がごろごろしていた。彼らは「会社廻り」(リャク)に精出していた。掠奪の「リャク」で、会社をゆすって金を出させることをいう。
しかし、本来、革命運動のための資金集めという大義名分であったが、いつしかそれは自分たちの口腹を肥やし、女遊びに蕩尽されるようになって、多くのアナキストを堕落させることになった。
しかし、古田だけはいつも留守番役でリャクには加わらず、仲間もそれをさせようとはしなかった。古田は彼らの遊興にも加わらなかった。
東京ではリャクをやり尽くしてしまった中浜たちは、本拠を大阪へと移す。このとき、江口の紹介状で有島武郎を訪ねた中浜は、大阪へ移るための資金をもらうが、それが有島の自殺の前日であったという秘話を、江口は記している。
関東大震災のときには、古田は大阪にいた。ギロチン社の一党は、ここでも会社廻りを中心とするリャクをつづけたが、次第に仲間内がすさんでいた。古田は憂慮し、思いつめ、ここで一挙に巨きな資金を強奪する計画(銀行襲撃)を同志たちにはかる。
彼はこの計画をロシア虚無党にならったと述べている。ロシア虚無党はその活動資金を得るためにあらゆる手段を当然のこととしたが、暮夜銀行を襲ったり、白昼に現金輸送車を襲ったりしている。革命的な行動の陰には、強盗の汚名を着た党員がいたのであり、古田は自分もそのような縁の下の「石」となろうとした。
1923(大正12)年10月16日、小阪事件と呼ばれる銀行出張所襲壁事件がおこる。
その日午後、古田は小川義雄、内田源太郎とともに、大阪府中河内郡布施村にある十五銀行小阪出張所附近に待ち伏せしていた。小西次郎は運搬役として、別の場所に自転車を用志して待機していた。下調べによって、夕刻になると現金が運び出されることをつかんでいた。
午後4時、二人の銀行員が、一人はカバンを一人はトランクを持って出てきた。踊り出た三人が立ちはだかり、まず目潰しを投げつけると、古田は脅しのために短刀を抜いて突きつけ、トランクを奪おうと手をかけた。
男は叫び声をあげながら、逆にトランクを胸にひしと抱き締めた。カバンのほうの若い男が古田に組み付いてきたので、小川と内田がステッキをふるって撃ちかかり、あとは入り乱れての乱闘となった。その混乱のなかで、男はトランクを胸の下にかばうようにして地面に打ち伏した。男の身体の下からトランクを抜き取ろうとした古田は、男の腰部に短刀が突き刺さっているのを見た。いつ刺したのか自分でも気づかなかった。慌てて引き抜くと、濃い血潮がしたたった。恐怖に襲われた古田は、仲間に向かって「だめだ、引き揚げよう」と叫ぶと走り出した。二人も一緒に走り出した。
げっきょく、奪ったのはカバンだけで、そのなかには75円分の勧業債券が入っているだけだった。臆病風を吹かせて、トランクをとらずに逃げてしまったことを古田は恥じた。中浜たちに合わせる顔がなかった。男が即死であったことは、のちに知った。
・・・
思いがけないはずみとはいえ、古田大次郎は殺人犯となった。しかし、この事件の主犯が古田であることは警察にはなかなか割れなかった。間もなく河合康左右らギロチン社の幾人かが大阪で逮捕されたが、彼らも古田のことは口を割らなかった。
とはいえ、もはや追われる身である。11月半ば彼は朝鮮へと渡った。
〈その頃、中浜と僕との間には、大阪で逮捕された河合達のために、或る報復手段及び脱獄の事が計画されてあった。この計画と、僕達が最初から抱いている或る事業、それから、も一つ友人の村木、和田君が企てている暗殺計画、これらのために、僕達は是非爆弾と拳銃とが欲しかった。僕が朝鮮に来て、新局面を展開したいと云うのも、一つは何とかして朝鮮の所謂不逞団と接近し、彼等の手から爆弾等の武器を得る事に努めようという目的があったのだ〉(『死刑囚の思い出』)
村木源次郎、和田久太郎と古田大次郎がここでからまってくる。
つづく
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