2023年12月16日土曜日

〈100年前の世界156〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑬) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 塚崎直義『辨護三十年』 上砂勝七『憲兵三十一年』 宮崎清隆『憲兵』 正力談話(安成メモ)     

 

仮出所後の1926年11月3日、記者会見に臨む甘粕(中央)

〈100年前の世界155〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅻ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 11月24日 第6回軍法会議 論告求刑 12月8日 判決 より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑬) 

佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より


〈以下は、一部既述と重複があります〉

■塚崎直義(甘粕の弁護人)『辨護三十年』(昭和12年)

〈第二回の公判は十一月十六日に開かれた。先づ甘粕大尉の訊問から開始されたが、甘粕は従前通り大杉及び野枝は自分が手を下して殺したが、子供の殺されたのは知らない、死体も見なかつたと答弁した。それに対して、森曹長以下三被告は、上官の命令で殺したと主張してゐる。

遂に、告森法務官から、「甘粕、お前はどうか、森のいふ事に相違ないか?」と訊問された時、甘粕氏は決心の色を現して答へた。

「双方のいひ分が違つて居れば、どちらかの思ひ違ひでせう。森が命令されたといへば、さうかも知れません」

「では、前の申立ては違つてゐるのか」

「私は軍人であります。宗一殺しを命じたと思ひます。命じなければならないと思ひます」

「他人の言は何うでもよい、被告の記憶はどうか」

「命じました」

遂に甘粕氏は命令したと断然云ひ放ってしまつた


■上砂(かみさご)勝七『憲兵三十一年』

甘粕の1期下の陸士25期生、甘粕と同じく歩兵から憲兵に転じ、終戦時は台湾憲兵隊司令官で少将。

「無政府主義者大杉の検束は、憲兵司令官の小泉六一が甘粕大尉に命じたものだった」とはっきり記している。

そもそも、麹町憲兵分隊長の甘粕は、東京憲兵隊に所属する森以下の4人を指揮命令する権限もなければ、立場にもない。彼らに命令できるのは、東京憲兵隊長の小山介蔵か、さらに上の憲兵司令官の小泉六一だけである。しかし、小山も小泉も大杉事件との関わりを全面否定している

小山も小泉も形式上この事件の責任をとって、一時停職処分となった。しかし、その後、小泉は中将に昇進し、支那駐屯軍司令官となった。小山も少将に昇進し、関東憲兵隊司令官に就いている

■宮崎清隆(元憲兵曹長)『憲兵』(富士書房、昭和27年)

宮崎は、関東大震災当時、赤坂憲兵分隊長服部守次からこんな話を聞かされた。

服部が目撃した光景。

大杉を麹町憲兵分隊が検束したというので、服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉が両手両足を厳重に縛られてコンクリートの上に筵を敷いて座らされていた。そばには野枝と子どももいた。

(これは軍法会議での甘粕らの供述を覆す。甘粕も森もそれ以外の3被告も、軍法会議で憲兵隊の屋上ということは一言も口にしていない)。

森以下の東京憲兵隊員は甘粕に内緒で、大杉らを屋上に連れて行き、そこで虐殺しながら、甘粕証言に合わせ、大杉らは室内で絞殺したと全員が口裏合わせの供述をしたのではないか。


■正力談話

安成二郎(読売新聞元婦人部長)のメモ(昭和35年に自宅で発見した自筆メモ、昭和35年10月発行「自由思想」第2号(大杉栄特集2)に転載)

安成はその前書きに、これは大正13年10月4日に読売新聞社の幹部が、同社社長正力松太郎を囲んで開かれた会合をメモしたものである、と記している。

正力は警視庁の官房主事、警務部長と出世コースを歩き、警視総監は間違いなしといわれていた。だが大正12年12月27日、摂政宮を狙撃した虎ノ門事件の警護責任を問われて警視庁を辞職し、読売新聞の経営者に転じた。

大杉事件から1年以上たった会合で、なぜ大杉事件に関する話が出たか記憶が定かではない。けれど、軍法会議判決が前年12月8日、大杉の葬儀が12月16日、大杉の遺骨強奪事件の判決が大正13年1月23日と、事件はまだ記憶に新しく、自然にそういう話になったものか。

それとも、震災まで警視庁の大幹部だった正力氏は、新聞経営に没頭して、それまで社員と会食する機会がなかったが、この日の会合にあたり、「いまだから話そう」という気になり、自分の方から話し出したものか。"

〈(一)陸軍が十四日に大杉を殺すと言つて来た。大杉と吉野作造博士と外の二人、誰だつたか(大山郁夫氏かと僕が聞いた、さうかも知らんと言って、正力氏は明答しなかつた)四人を殺すと言つて来た、そんなバカなことがあるかと言つて置くと、十六日になつて淀橋署から大杉が憲兵隊に連れられて行つたといふ報告が来た、殺したナと思ったが黙ってゐた〉


正力は、震災直後から丸1日間は、朝鮮人暴動説を疑わず、知り合いの新聞記者を使ってこの流言を積極的に流していた。その一方で、軍隊の力を借りて徹底的に弾圧する方針を明確に打ち出していた。

正力は、9月14日に陸軍が殺す、と言ってきたときも、そんなバカなことがあるかと言っただけで、これを制止しようとはしていない。16日に淀橋署から憲兵隊が大杉を連行したという連絡が入ってきたときも、「殺したナ」と思っただけで、黙っていた。

大杉事件との関連を強く疑われながら、淀橋署の署員が不起訴になったが、正力談話でも明らかなように、警察は明らかに事件を予知しながらこれをあえて無視ないしは黙殺している

これは、法律に厳密に照らし合わせるなら、未必の故意にあたる立派な犯罪である。

大杉事件への警察の関与ついての弁明

『警視庁史大正編』(昭和35年)

判決文全文を掲載した上で、

〈このようにして行なわれたこの事件は、俄然世人の反響を呼んだのであつたが、ことに淀橋警察署の松元警部補と滋野部長が大杉の在否調査に対する協力を約したことが、甘粕大尉の暗殺計画を知つて、これを援助することを約し、暗殺の決意を促したかのように誤り伝えられて、種々の浮説が流れたため、ついに教唆の容疑がかかり、五十日間にわたって検事の取り調べを受けたのであった。

しかし、陸軍側の取り調べが進むにつれて、甘粕の大杉以下殺害の決意は、森等が淀橋署を訪ねる以前からすでにできていたことが判明し、また戒厳令下の警察官がその上級者に対し、職務上の便宜を図ることは当然であり、両名が暗殺計画を事前に感知したか否かについては、証拠不十分であるというので不起訴となった〉

としている。

〈すると、十八日になって、報知の夕刊に大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれたといふ記事が出た。それを見てこれはいかん、子供も殺したのでは必ずわかると思ったので、すぐ湯浅総監(湯浅倉平)に話した。総監はすぐ後藤内相の許へ報告に行った。すると、内相は復興事業に目を眩してゐて、「自分は手をはなせないから、君から総理に報告せよ」と言つたので、総監はすぐ総理大臣山本権兵衛伯に行つて報告した。総理がすぐ陸相(田中義一)を呼んできくと「知らん」といふ。戒厳司令官(福田雅太郎)を呼んできくと知らんといふ。それから憲兵隊の捜査になったのだ〉


正力が警視総監(湯浅)に報告をあげるのは、子どもも一緒に連行されたということがわかった時点で、必ずわかると思ったので、というのがその理由。バレなければそれでいい、と思っていたのだろう。

〈(二)陸軍には甘粕のやうな男はいくらもをる。甘粕がやらなければ外の誰かゞやつたのだ。子供が一緒で無ければ大杉事件はまるで知られずに済んだのだ。そして吉野博士もやられたかも知れない。(陸軍に頑固な軍人と浪人組の秘密結社があると中尾氏が口を咏(はさ)んだ。中尾氏は陸軍の中尉で、当時読売の陸軍省詰の記者であった)。その当時、陸軍が後藤内相と湯浅総監を憎んだことは非常なものだ。

陸相を出しぬいて直接総理へ話を持って行ったのが怪しからんといふので、後藤と湯浅を殺さうとする勢ひが動いて、実際危険であった。(私はやつて仕舞へと言って陸軍をケシかけたものだと中尾は口を咏んだ)。それには後藤さんがヨツフエを呼んで来たことも絡まってゐる、あいつは赤だといふことになったんだ〉


つづく




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