2023年12月13日水曜日

〈100年前の世界153〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅹ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 10月8日 第1回軍法会議(つづき3) 大杉は橘宗一殺害を否定 鴨志田伍長らが自首    

 


〈100年前の世界152〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅸ) 佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より 10月8日 第1回軍法会議(つづき2) より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅹ)

佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より

10月8日  第1回軍法会議(つづき3)


■続いて、共犯とされた森への尋問

森は、憲兵としての経歴から、社会主義に対する感想や、震災後特別高等課長兼務となった甘粕の命令で大杉らの言動に関する調査を行った経過を述べた。甘粕が震災後特別高等課長兼務となったというのは、森のこの供述が始めて(真偽は不明)。森は東京憲兵隊本部特別高等課係員。


大杉殺害計画について甘粕から聞かされていたかという質問

「具体的ではありませんでしたが、大尉殿からこの際、大杉をヤッツケようとは申されました」


大杉らを連行するまでの経過をは甘粕の供述と大同小異。

「隊では私が子どもの手を引き、大杉夫妻はその後に従いました。裏手からわからぬように入ったので、私たちが帰ったことは他の同僚は知らないようでした。私は特別高等室から茶を持ってきて大杉らに与え、夕食も与えましたが、夫妻は既に済んだといって手をつけず、子どもだけ食べました。

大杉は持参の梨をむいて食べたようでしたが、私は梨をむく小刀をとりに司令部の廊下に出たとき、大尉殿は私に何かの暗示を与えたようでした。大杉のいる部屋に戻って、大杉に対し、隊長殿が取り調べるがそれでよいかと聞くと、よろしいとの返事でした。大尉殿も大杉を取り調べるため、応接室に入れたと思ったからです。まさか、その部屋ですぐ殺すとは思っていませんでした」


- 予審詞書を見ると、両人打ち合わせた上で殺害に及んだようだが。

森は言下に否定。

「打ち合わせてヤッツケると決めたわけではありません。場合によったらやるかもしれぬと想像していただけです。ですから大尉殿が絞殺するときも、ボンヤリそばで見ていたくらいです。大尉殿は先ほど、大杉のもがく足を押さえたかのように申されましたが、私にはそうした記憶がありません。ただ、大尉殿が誰か見ていないかと言われたようでありましたから、廊下に出てあたりの様子は見ました。

それから部屋に戻ると、大尉殿は大杉の首に既に縄を巻いておられました。私がもう生き返りませんかと聞きますと、もう舌をだしているから大丈夫だろうと申されました。大杉はそのときロから血を吐いていました」

(山根倬三は、森の陳述を開く甘粕の顔に苦笑が浮かんだ、と書く。甘粕は自分一人で罪をかぶる覚悟をしていたが、森からそこまで言われるとは思っていなかったのか)。


判士は甘粕に森の陳述との矛盾を質問

- 森の陳述は被告が申し立てたことと少し異なった点があるようだ。森は大杉のもがく足などは押さえていないといっているが、どちらが本当か。

「私は足を押さえよと申しましたが、森が押さえなかったというなら、或いは押さえなかったのかも知れません」

甘粕の官選弁護人、塚崎直義の質問

- 被告が祖先について知っているだけのことを申し述べてもらいたい

「私の祖先は新田義貞から出たものであります。かの川中島の戦いのとき、上杉謙信の部下として戦場に武名をあげた甘粕近江守はその末裔にあたり、歴史上に現れたのはこのときからであります」


- 被告人は日頃からたいへん子どもを愛しているようですが、それはなにゆえですか。

「私は子どもを持った経験はありませんが、性来無邪気な者を愛します。従って子どももよくなついてくれます。それは悪を憎む反動として、邪気なき子どもが自然と好きになったのだと思います」

弁護人は、誇り高き家名を汚すまいとしてきた甘粕の心情に訴えて、宗一殺しを否定させようとしていた。

塚崎が語るこの質問の狙い。

「甘粕大尉のような柔和仁慈の者が、あの可憐無邪気な少年をすげなく殺害するわけがない。もし大尉が本当に殺害したとなれば、大尉は人道の敵であり、また武士道の賊である。わが国の武士は古来このような惨酷なことをしたことがない。わが国三千年来燦爛と輝いてきた武士道の名誉のため、また日本全陸軍将校の名誉のため、天皇の名で裁かれる法廷で虚偽の証言をするはずはない」)

- 子どもに菓子を与えたとのことだが、それはどんな菓子だったのか。

「隊にあったものを私が食べずに置いてあったものです。かわいそうですから、それを与えました」


ー 誰か子どもを引き取って養育する者はいないかと聞いたことがありますか。

「そう言った事実はあります」


- かくも子どもを愛する被告が、わずか七歳になったばかりの子どもを殺害するとは、いかなる理由か。部下を庇っているのではないか。裁判は陛下の名に於いて行うものであって、神聖でなければなりません。しかも私はあなたの母上から頼まれました。あの子に限って子どもを殺すはずはない。このことだけは絶対に事実を述べるようあなたから伝えてくださいと、涙を流しての切なる御依頼です。

(傍聴席はどよめく。

甘粕はうなだれ、ロを閉ざし、目から涙があふれだした。甘粕はそれをハンカチで拭きとり、弱々しい声で答えた。


「度々申しあげた通り、私が子どもを殺したのは事実であります。そして無意識でありました」


- 憲兵大尉という高等官にあるものが、罪なき子どもを殺害したとあっては、あなた自身の不名誉であるばかりか、帝国陸軍将校全体の名誉にかかわりますぞ。

(甘粕は佇立したまま答えなかった。弁護人は10分間の休憩を申し出た)


(再開された法廷)


- 何とか考えはついたか。

「私はすでに母を捨てております。自分一己の栄達など念頭にもかけておりません。しかし先ほどからの陛下の御名をもってされては、嘘を申しあげることはできません。大杉栄、伊藤野枝の両人を殺したのは、考えがあったからです。今は申しあげます」

甘粕はすすり泣いて声をしぼりだした

「部下の者に罪を負わせるのは忍びませんので、ただいままで偽りを申し立てておりました。実際は私は子どもは殺さんのであります。菰包みになったのを見て、はじめてそれを知ったのであります

(「死因鑑定書」が発見された現在、甘粕は3人の死体が菰包みになったのを見てはじめて殺害の事実を知った可能性も否定できない。)


- 然らば誰が殺したか。

「私は存じません」


- 知らぬはずはない。

「私は存じません。誰がやったか本当に知らんのであります」


判士は、森に起立を命じた。

- お前は知らんのか。

「私もまったく存じません。大尉殿に気の毒でありますが、誰が殺したのか存じないのであります」

(森のこの証言をもって、第1回軍法会議は混迷のうちに閉幕)


この公判を傍聴していた東京憲兵隊上等兵の鴨志田安五郎と本多重雄、同隊伍長の平井利一の3人が、第1回軍法会議終了後、宗一殺害に関与したとして自首するいう異常事態となった。

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■弁護側の忌避申請によって、判士の小川關治郎(陸軍法務官)が突然解任。代わって第4師団の告森果陸軍法務官が選任。


小川忌避の理由は、小川と殺害された宗一少年は縁戚関係にあり、審理に予断が入るのではないかという懸念からだった。だがそれは表向きの理由で、甘粕に対する追及が厳しかった小川をこのまま判士にとどめておけば、やがて軍上層部と事件の関連性も問われるのではないかと、軍上層部が疑心暗鬼にかられた疑いが濃厚である。

小川と宗一少年との縁戚関係とは、小川が、宗一の父親の兄嫁の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫という、一読しただけではとても頭に入らない遠い縁戚関係。こじつけというより難癖。

小川はその後、永田鉄山陸軍軍務局長が相沢三郎に刺殺された昭和10年の相沢事件、その翌年の2・26事件の軍法会議の判士をつとめるなど、軍の上層部にからむ厄介な事件ばかり担当させられた。


■鴨志田安五郎の自首調書(10月9日)

第1回軍法会議(10月8日)終了後、大杉栄の甥の橘宗一殺しには自分らが関与したとして、東京憲兵隊所属の鴨志田安五郎、本多重雄の両上等兵と、同じ東京憲兵隊に所属する伍長の平井利一の計3人が自首

「私は大杉栄及伊藤野枝を殺害するには関係致して居りませんが、男児を殺したのであります。けれども甘粕大尉が若し事件が発覚した時は、自分と森曹長とで責任を負ふから汝等は関係ないと懇々(こんこん)云はれましたから、夫れを信じて居りました所、昨八日の午後当師団の軍法会議公判廷に於て甘粕大尉が男児を殺したのは自分でないと云ひ、又森慶次郎も男児の殺害に付ては何も知らぬと申立てましたから、甘粕大尉の言葉を信用して居たのを悔ひ自分の為したる男児殺害の事実を唯今申立てました次第であります」


つづく


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