大正12(1923)年
9月16日 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(Ⅲ)
■佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)より
9月1日(関東大震災当日)、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦(大尉)は、麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。任命された時期といい、その職務といい、これは異例中の異例の人事だった。
麹町憲兵分隊は、東京憲兵隊本部直轄の近衛師団的存在で、規模も他の分隊より大きく、分隊長には佐官クラスが就くのが通例となっていた。その分隊長に大尉の甘粕が就くのは、二つの分隊のトップを兼任することを含めて前例のない人事だった。
東京憲兵隊本部の人員が補助憲兵を含め32名なのに対し、麹町憲兵分隊の人員は補助憲兵を含め190名と、東京憲兵隊配下の憲兵分隊中最大の組織となっている。麹町憲兵分隊以外の主立った憲兵分隊として、東宮御所や秩父宮邸を警護する赤坂分隊が36名、渋谷分隊が29名である。
〈治安維持の最前線部隊を自任し、社会主義者や無政府主義者、さらには「不逞鮮人」らを何とか検挙しようと手ぐすねをひいていた東京憲兵隊にとって、帝都を揺るがした関東大震災下の戒厳令は彼らを一網打尽にする千載一遇のチャンスだった。
甘粕が〝東京憲兵隊の近衛師団″といわれた麹町憲兵分隊のトップを兼務したこの前例のない人事異動は、無政府主義者の巨頭の大杉栄を明らかに視野に入れた、いうなれば〝大杉シフト″だった。〉
甘粕は、名古屋の陸軍幼年学校から陸軍士官学校(24期)に進むが、陸軍戸山学校在学中の大正4年(1915)、膝関節を怪我する不慮の事故に遇い、念願の歩兵への道を諦め、憲兵になることを余儀なくされている。甘粕は千葉刑務所収監中に書いた獄中記で、「私は憲兵になった時もう靖国神社に祀られることがないのかと思ったら淋しい気がした」と記している。
甘粕は、朝鮮の京畿道楊州憲兵分隊長、市川憲兵分隊長を経て、大正11年1月、渋谷憲兵分隊長になった。渋谷憲兵分隊長時代の甘粕の最大の功績といわれるのは、朴烈事件の摘発だった。朴烈は、豊多摩郡富ヶ谷で内妻の金子文子と同棲中の大正12年8月中旬、所轄の渋谷憲兵分隊に内偵され、約半月後の関東大震災下に事前検束される。
甘粕は大杉事件の軍法会議で、次のような陳述をしている。
「大震災の後九月二日の夜中 摂政宮殿下が、潜かに宮城へ御這入りになったという噂が、盛に市民の耳朶を打ったことがありまするが、夫は大杉一派が朴某なる不逞鮮人を煽動して企てた某大逆事件に基因するものであるとの確信を得たのであります」
〈甘粕は帝都の治安を攪乱する〝不穏分子″を摘発する〝エース″だった。渋谷憲兵分隊長の身分のまま、麹町憲兵分隊長を兼務する異例の人事は、皇族の安寧を願い帝都の治安維持に尽力した甘粕のめざましい働きに対する論功行賞だったことは明らかだった。
大杉暗殺の事前謀議があったかどうかは別として、少なくとも大杉の検束は、軍中枢部ではすでに織り込みずみの計画だった。東京憲兵隊と麹町憲兵分隊を統括する最高意思決定機関の憲兵司令部は、その大任を遂行する人物に〝エース″の甘粕を抜擢した。〉
読売新聞元婦人部長安成二郎のメモ
大正13年10月4日、読売新聞社幹部が、社長正力松太郎氏を囲んで開かれた会合のメモ。
正力は、警視庁官房主事、警務部長と出世コースを歩き、警視総監間違いなしといわれていたが、大正12年12月27日、摂政宮を狙撃した虎ノ門事件の警護責任を問われて警視庁を辞職し、読売新聞の経営者に転じた。
(一)陸軍が十四日に大杉を殺すと言って来た。大杉と吉野作造博士と外の二人、誰だつたか(大山郁夫氏かと僕が聞いた、さうかも知らんと言って、正力氏は明答しなかつた)四人を殺すと言って来た、そんなバカなことがあるかと言って置くと、十六日になって淀橋署から大杉が憲兵隊に連れられて行ったといふ報告が来た、殺したナと思ったが黙ってゐた
すると、十八日になって、報知の夕刊に大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれたといふ記事が出た。それを見てこれはいかん、子供も殺したのでは必ずわかると思ったので、すぐ湯浅総監(湯浅倉平)に話した。総監はすぐ後藤内相の許へ報告に行った。すると、内相は復興事業に目を眩してゐて、「自分は手をはなせないから、君から総理に報告せよ」と言ったので、総監はすぐ総理大臣山本権兵衛伯に行って報告した。総理がすぐ陸相(田中義一)を呼んできくと「知らん」といふ。戒厳司令官(福田雅太郎)を呼んできくと知らんといふ。それから憲兵隊の捜査になったのだ
(二)陸軍には甘粕のやうな男はいくらもをる。甘粕がやらなければ外の誰かゞやったのだ。子供が一緒で無ければ大杉事件はまるで知られずに済んだのだ。そして吉野博士もやられたかも知れない。(陸軍に頑固な軍人と浪人組の秘密結社があると中尾氏がロを咏(はさ)んだ。中尾氏は陸軍の中尉で、当時読売の陸軍省詰の記者であった)。その当時、陸軍が後藤内相と湯浅総監を憎んだことは非常なものだ。
陸相を出しぬいて直接総理へ話を持って行ったのが怪しからんといふので、後藤と湯浅を殺さうとする勢ひが動いて、実際危険であった。(私はやって仕舞へと言って陸軍をケシかけたものだと中尾はロを咏んだ)。それには後藤さんがヨツフエを呼んで来たことも絡まってゐる、あいつは赤だといふことになったんだ)
〈大杉事件が国を震感させるまでの大事件に発展したのは、宗一がアメリカと日本の二重国籍をもつ少年だったことにも起因していた。母親のあやめは、わが子が虐殺されたことを知ると、アメリカ大使館に駆け込んで真相解明を求めた。これが外務省から総理官邸に伝わり、総理大臣の山本権兵衛は、さらなる決断を迫られることになった。
ことの重大さに驚いた山本総理は田中陸相を呼びつけ、あらためて調査を申しつけた。田中が憲兵司令官の小泉六一に真偽を尋ねたところ、小泉は甘粕の犯行を認めた上、これを称賛するかのような言辞を弄したため、田中は小泉を激しく叱りつけて謹慎を命じた。
これが、福田戒厳司令官の更迭、小泉憲兵司令官、小山東京憲兵隊長の停職という異例の重い処分につながった。〉
元憲兵曹長の宮崎清隆が昭和27年に出版した『憲兵』(富士書房)。
宮崎は、関東大震災当時、赤坂憲兵分隊長だった服部守次から聞かされた話。
大杉を麹町憲兵分隊が検束したというので、服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉が両手両足を厳重に縛られてコンクリートの上に筵を敷いて座らされていた。そばには野枝と子どももいた、という。
軍法会議では、甘粕も森もそれ他の三被告も、憲兵隊の屋上のことは一切出て来ていない。
これと戦後発見された「死因鑑定書」(大杉らの身体には凄惨な暴力をうけた痕跡が残っていた)に重ねるなら、こんな疑惑さえ浮かんでくる。
〈森以下の東京憲兵隊貝は甘粕に内緒で、大杉らを屋上に連れて行き、そこで虐殺しながら、甘粕証言に合わせ、大杉らは室内で絞殺したと全員が口裏合わせの供述をしたのではないか。〉
「死因鑑定書」
発見の経緯(「朝日新聞」昭和51年8月26日付け)
三人の「死因鑑定書」を事件直後に作成したのは、当時、陸軍衛成病院の外科に勤務していた故田中隆一軍医(大尉)。田中軍医は昭和14年に中国で戦死したが、夫人がそれを保管してた。
発見のきっかけは、まったくの偶然から。衛成病院で田中軍医の後輩だった東京・目黒区在住の医師・安田耕一氏が、自費出版を予定していた本のなかで田中軍医の思い出を書くため、田中未亡人に問い合わせたところ、田中軍医が作成した「死因鑑定書」が夫人の手元にあることがわかった。
鑑定書は、縦書き用筆23枚。まず、大杉栄、伊藤野枝、姓名不詳男性児の原籍、現住所を「不詳」としたあと、大杉、野枝、姓名不詳男性児の推定年齢を、それぞれ39歳、29歳、10歳としている。
続いては、「死体ハ三体共前記東京憲兵隊本部構内東北隅弾薬庫北側中央ニシテ弾薬庫ノ土台石ヲ去ル四尺ノ地点ニアル廃井戸中ニアリ」という現場所見を述べている。
〈井水ハ甚ダ不潔ナル濁水ナリ、井戸ノ上部ヨリ見ルニ附図ノ如キ位置ニ於テ畳表ニテ包ミ、麻縄ニテ縛セル三個ノ死体アリ〉
この記述にある巻末の附図には、三つの遺体が入った麻縄で縛られた菰袋の絵が描かれている。
1.男性屍、2.女性屍、3.小児屍と書かれた三つの菰袋のうち、男性屍を包んだ米俵のような菰袋のなかから大杉の足が出ていて、思わず目をそむけたくなるほど生々しい。
大杉は晒木綿の越中褌をつけていたが、野枝は「身体ニ附スル何物モ無ク全ク裸体ナリ」、宗一は「身二何等纏へルモノ無ク全ク裸体ナリ」という状態。
三人の解剖検査記銀は詳細をきわめている。身長、体格、皮膚や毛髪の状態から始まる所見は、全臓器に及んでいる。
「男女二屍ノ前胸部ノ受傷ハ頗ル強大ナル外力(蹴ル、踏ミツケル等)ニ依ルモノナルコトハ明白ナルモ前ニ説述セル如キ理由ニ依り此ハ絶命前ノ受傷ニシテ又死ノ直接原因ニ非ズ、然レ共死ヲ容易ナラシメタルハ確実ナリ」という所見。
甘相は軍法会議で、大杉も野枝も絞殺したと証言した。二人ともほとんど暴れることなく、十分ほどで絶命したと述べている。
田中軍医の「死因鑑定書」は、その甘粕供述のウノを明白に証明している。
大杉も野枝も、明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けている。そして虫の息になったところを一気に絞殺された。甘粕供述とはあまりにもかけはなれた集団暴行による嬲(なぶり)り殺しの実態である。
つづく
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