2023年12月23日土曜日

〈100年前の世界163〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 松下竜一『久さん伝』より 和田久大郎はなぜ福田雅太郎狙撃に失敗したのか? 

 

布施辰治

〈100年前の世界162〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑲) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年9月1日 和田久太郎、福田雅太郎大将狙撃に失敗 より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 

松下竜一『久さん伝』より


至近距離で発射しながら、和田久大郎はなぜ福田雅太郎狙撃に失敗したのか。  

予審決定書では、

「久太郎は此機に乗じて同大将の身辺に迫り所持の拳銃を以て其背部を狙撃したるも偶々第一弾は空弾にして第二弾は故障に因り発射せざりし為め僅かに同大将の背部に一銭銅貨大の火傷を被らしめたるに止り遂に暗殺の目的を遂げるに至らず」

と簡記されているに過ぎない。

新聞は、和田が使用した拳銃はかなり旧式の五連発銃で、第一弾以外は実弾が装填されていたと報じている。

銃弾は雷管と薬莢と弾丸部から成っていて、拳銃の撃鉄が雷管を強打することで薬莢内の火薬が爆発し、先端の弾丸を発射させる。

ところが、この弾丸部分が紙や木で擬装された銃弾があって、これは空弾あるいは空包と呼ばれ、一見して実包と見分けがつきにくいが重さが違う。この空包で撃てば、轟音を発して薬莢葉肉の火薬は爆発するが、弾丸は飛び出さない。したがって、拳銃を撃つときの反動の衝撃に慣れるための練習などに使われたりする。

和田が使用した廻転式拳銃では、なぜか第一弾だけが空包で、あとは実包が装填されていたことになる。

その空包で福田大将が小さな火傷を負ったのは、薬莢の火薬が爆発し、熱いガスが走ったためで、和田が背に銃口を押しつけるようにして引金を引いたからである。

明治大学図書館に収蔵されている、この事件の弁護を担当した布施辰治弁護士の記録を見てみる。

拳銃の出所については、村木源次郎が弾丸とともに和田に貸したとを供述している。

村木は二艇の拳銃を所持していて、その一挺は1920(大正9)年頃、原敬首相の暗殺を企んだ折りに神戸の同志安谷寛一から買ったもので、これは福田大将狙撃の日に自らが携行していた。もう一挺は、この事件の年の5月に、東京日々の記者五十里幸太郎(29歳)から40円で買ったもので、それを和田に貸したという。

この拳銃は、山内恒身という青年が「シナノ何トカ事件ノ時使用サレタ記念品ダ」といって所持していたが、肺を病むこの山内青年が「これで自殺するんだ」というのか不安になって、五十里が預かったものという。

生前の和田を知る古河三樹松氏(大逆事件に連座して幸徳秋水らとともに処刑された古河力作の実弟)は、和田の拳銃は「あれは下谷のコーちゃんが村木に売ったものです」と明言する。「詩人くずれのような男」五十里幸太郎は、供述調書でみる原籍が東京下谷区茅町二丁目十番地となっている。「下谷のコーちゃん」である。

古河三樹松氏は、「あの事件のあとしばらくは、飲み屋などにコーちゃんが顔をみせると、皆からおまえのせいだと責められるんで、くさってましたよ」いい、仲間うちでは拳銃のいきさつは広く知られていたことになる。

調書の、検事の訊問に答える村木源次郎の部分。

問 弾丸ハ込メスニ渡シタノテアツタカ

答 ゾウダ、弾丸ハ紙へ包ンデ渡シタ然シ弾丸ノ込方ハ教へテヤリ込メテ見タリ取ツテ見タリシテ教へタ

問 弾丸ハ幾ツ渡シタノテアツタカ

答 十七八ダ

問 空弾ハナカツタカ

答 空弾ハナイト思フ

問 最初ノ一発ハ空弾ニシテ置ケト教へタノテハナカツタカ

答 ソウシタ事ハ云ハヌ

問 和田ハ勿論実弾ヲ込メタ様ニ云ツテイルノテアルカ実際ハ空弾テアツタ訳テアルカ什(ど)ウカ

答 普通ニ護身用トシテ持ツテイルノハ旧式ノモノハ安全機カナイカラ最初ノ一発ヲ空弾ニシテ置クノテアルカ然シ人ヲ対(う)ツ場合ニハ初メカラ実弾テヨイ訳テス私ハ最初ノ一発ハ空弾ニシテ置ケト云フ様ナ事ヲ話シタ事ハナイ・・・・

この調書によると、和田の撃った第一弾は空包で、その弾丸を装填したのは和田自身である。

押収された拳銃の検証結果にょれば、第一弾は薬莢のみが残り、第二弾の雷管には中央をはずれた一辺に撃針の当たった痕跡が残っているので、和田は第二弾の引金を引いたことが分かる。だが、拳銃が旧式のため引金と弾倉の廻転が一致せず、そのために不発に終ったと考えられる。残されている四発はいずれも実包であった。

では、和田は空包と知らずに弾を込めたのか、あるいは空包と知って込めのか?

後者だとすれば、和田は暗殺未遂をわざと演じてみせたということになる。当時も新聞には一部にこの狂言説が流れた。事件を売名行為と解釈するものだ。   

しかし、大がかりな準備を重ねて福田大将を狙い続けた経過に照らせば、狂言説は首肯できない。狂言を演じる意味がないうえに、その結果の犠牲はあまりにも大きい。

従って、結論は、和田が込めた第一弾は空包であり、和田はそれに気づかなかったということになる。のちに和田は獄中で、「命がけで打っ放すピストルの弾が空っぽだということを知らなかったほどの呆れ者」と、いくども自嘲しているが、その嘆きは痛切で演技臭は感じられない。

望月桂の証言。

事件発生の1日夜から2日にかけて、和田の周辺にいた者がつぎつぎに拘引され追及されているが(新聞によれは14人)、望月もその夜のうちに検束され芝の三田署に泊められ、翌朝には本富士署へ護送されて本格的な取調べを受けている。 

その本富士署で、便所へ行った帰りの廊下で、望月は調べから帰ってくる和田とばったり出遇った。                                 

和田が小声で「どうだった?」と聞くので、望月が頭を横に振ってみせると、「畜生!」と唇を噛んで留置場へ入っていったという。和田は、事件の翌日になっても自分の狙撃結果を確認でさすにいた。


つづく


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