2023年12月21日木曜日

〈100年前の世界161〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑱) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年7月 ギロチン社の爆弾試験 9月1日、和田久太郎、福田雅太郎狙撃に失敗    

 

和田久太郎(アナキストの漫画家望月桂の作)

〈100年前の世界160〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑰) 松下竜一『久さん伝』より 11月頃、中浜鉄、村木源次郎・和田久太郎に復讐決行を迫る 武器調達のため朝鮮に渡るがこれに失敗 翌年5月頃、労働運動社から離れて行く より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑱) 

松下竜一『久さん伝』より


1924(大正13)年7月 ギロチン社古田・倉地の爆弾試験

924(大正13)年7月19日、ギロチン社の古田と倉地が、東京市下谷区谷中の共同便所で最初の爆弾を試験爆発させ、28日には青山基地でも爆発させている。

労連社を離れた和田久太郎は、読売新聞社に勤める宮崎光男の新築の家(屋根が彩色されていたので、通称アメチョコハウスと呼ばれた)へ転がり込んだ。厳密には、宮崎が夏のあいだ九州の実家へいくので、望月桂の一家が留守を頼まれて吉祥寺の安養寺裏にあるアメチョコハウスに移ってきて、その望月家に和田は転がり込んだ。

和田は、千駄木にある望月家が好きで、労連社でも和田が見えないと、また千駄木だろうと言われるくらいに、この家庭に甘えていた。

アメチョコハウスに移ってからも、和田は、夕方になると女の所に行くといって家を出た。望月は首をかしげたが、和田の行先は蛇窪の古田の隠れ家であった。

一方、村木源次郎は労連社にとどまっている。彼らの打ち合わせは、労連社から遠くない本郷肴町にある軽食堂南天堂で行われた。

8月10日から、村木と和田が代々木山谷の福田大将の自宅を見張り始めた。朝夕2時間ずつ家の近くに立ち、福田宅の出入りを監祝して、隙あれば狙撃しようというのだ。二人は懐に拳銃をしのばせていた。

が、数日して村木が古田のところにきて言う。

「だめだ。僕らにはとうてい気長に張っている根気がない。面倒だから、ひと思いにやっつけようと思うんだ。最初、家のなか爆弾を投げ込んでおいて、それから二人で爆弾を抱えて家へ飛び込もうという計画にした。二、三日中に爆弾を三つ造っておいてくれないか」

村木に頼まれて、古田と倉地は爆弾を用意して待ったが、村木は姿をみせなかった。実は、大杉の遺した唯一の男児ネストルが、引きとられていた野枝の里で病没したので、村木はその葬儀に駆け付けていた。

大杉が晩年心を寄せたロシアの無政府主義将軍ネストル・マフノにちなんで命名したこの子は、薄倖であった。生後2ヶ月足らずで両親と死別し、自らも僅か1年の短い生を終えたのだ。村木や和田の悲嘆は深く、それがいよいよ彼らを復讐のテロへと駆り立てた。

8月29日、村木・和田は、この日の東京朝日新聞を見て歓声を挙げた。震災1周年の9月1日、本郷菊坂の長泉寺で、福田雅太郎が講演するという。彼らは、9月1日に綿密な照準を合わせた。

和田久太郎はこの日(29日)夜、労連社を訪ねて一泊し、翌30日近藤憲二とともに外出し、31日夜、再び労連社に戻って入浴し、それから吉祥寺の宮崎の家に帰っていった。和田久太郎の、近藤や労連社とのひそかな別れの挨拶であっただろう。

9月1日、和田久太郎、福田雅太郎狙撃に失敗

関東大震災1周年、1924(大正13)年9月1日は、晴れて風もなく暑い一日であった。

復興途上の東京では、各所で法要や記念の震災展、講演会が催されたが、なかでも3万4千人の焼死者を出した本所被服廠跡での大法要には、すでに払暁から焼香の遺族が集まり始めて、午前7時にはもう混雑するほどであった。

銀座通りなど商店街も店の大戸をおろし、地震が襲った午前11時58分、一斉に鳴る工場や汽船の汽笛に合わせて、東京市民はそれぞれの場所で起立し2分間の黙祷を捧げた。そのあいだ、電車も自動車も動きを停めた。本所被服廠跡での大法要の参拝者は、この日だけで延べ40万人に達した。

震災時の戒厳司令官であった陸軍大将福田雅太郎は、この日午後6時から本郷区菊坂町の長泉寺での在郷軍人会主催の震災一周年記念講演会で講演をすることになっていた。

末曽有の震災で壊滅状態の東京には戒厳令が布かれ、全国からの兵の動員は19個師団に及び、一時は4万8千人が駐屯し、福田はその指揮系統の頂点に位置した。

「当時、吾輩も戒厳司令官をしていたのだから大いに思い出がある。とにかく震災当時難局を切り開いた軍隊の働きをみて、世間では軍隊の功労を賞めそやしておるが、吾輩をしていわしむれば、軍隊とはああしたもので、何も殊更に軍隊の功労といいたてるに当たらない。軍隊は褒貶の外に立ち困苦艱難して自立していくものであって、これが即ち軍隊の性質に外ならないのだ」

1年目の震災記念日を前にして、福田はこのような新聞談話を発表した。

この日夕刻、福田は迎えにきた菊坂町会会長石浦謙二郎大佐と副会長山根卓三郎とともに、府下代々木山谷の自邸を車で出発した。

午後6時をかなり過ぎた頃、長泉寺に近い本郷区四丁目の西洋料理店燕楽軒前まできたとき、一時小憩のため車を停めて、三人は車を降り立った。三人が燕楽軒の入口のほうへ歩きかけた瞬間、物陰から飛び出した一人の男が福田大将を背後から拳銃で狙撃するという事件が発生した。

東京朝日新聞(9月2日)が報じるその瞬間。


先づ石浦大佐が下車して福田大将を導き出さんとした際、突然附近の物陰から一人の怪漢飛出し、大将の背後僅に三尺位の所から、大将目蒐(めが)けて轟然ピストルを発射した。実に大将が下車して僅に数歩を運んだ刹那であった。その物音に驚いて大将は遽(にわか)に振向き、剣帯に手をかけたが、之より先石浦大佐は咄嗟に兇漢に飛附いて右腕を捻上げたので、山根氏は透(すか)さずピストルを捥(もぎ)ぎ取った。射撃された大将は幸ひにも空弾であったため、火薬のために背筋首下三寸の処の上衣とワイシャツ並に莫大小(メリヤス)シャツの三枚を一寸四分ばかり焼抜き命中部に梅干大の火傷を負うたに過ぎず、その儘燕楽軒の楼上に上り、附近勝島医師の手当を受けた。一方怪漢はピストルを奪はれるや逃走を企て電車線路を突き切って向ふ側に走ったところを、山根氏が追跡し左手で頭部を締め右手で両眼を打って、其場に倒すと、折柄見物中の群衆が寄ってたかって凶漢を打ちのめし、間もなく本富士署の清水・竹内・高行の三交通巡査其他二名の警官の手で犯人を引致した。


引致された小柄な男は、パナマ帽をかぶり、白絣に絽の羽織を着ていた。

この男の身元は、調べるまでもなくすぐに割れた。本郷区駒込片町十五番地、労働運動社内、無職和田久太郎(32歳)で、警視庁が常時尾行をつけて厳重な監視下に置く無政府主義の徒である。この時期、和田久太郎は駒込片町の労働運動社を出て、府下吉祥寺村の宮崎光男の新築の家へ居候しているが、この日は尾行を撒いていた。

狙撃者が、震災の混乱の中で憲兵大尉甘粕正彦によって虐殺された大杉栄の一味であると知って、警視庁は色めきたった。


つづく

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