大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑭)
松下竜一『久さん伝』より
9月27日、荼毘ふされ、28日、遺骨は自宅に戻る。通夜。
遺体は腐乱がひどく、全身を包帯でぐるぐる巻きにされて、石灰詰めにされていた。そのまま落合火葬場に運んだが、ここも震災後のおびただしい死体処理が渋滞していて、27日にようやく茶毘に附され、28日に遺骨は自宅へ帰ってきた。
その日、警察の厳重な監視のなかを親しい同志たちが続々とつめかけて、通夜が営まれた。
大杉の同志和田久太郎の遺稿や書簡を蒐めた『獄窓から』に、和田が獄中から橘あやめ(橘宗一の母、大杉栄の妹)に宛てた書簡が収録されている。それによって、三人の遺骨が帰ってきた日の無惨な光景を知ることができる。
大杉らとともに殺された橘宗一は、六歳の少年であった。たまたま大杉と伊藤に手を引かれていたばかりに、まきぞえとなって殺されたのであるから、母あやめの慟哭は悲痛であった。
と、貴女は入ってくるなり庭から「宗坊はゐますかッ、宗坊はゐますかッ」と叫ばれました。僕達がそれにどう答へることが出来ませう・・・女運はすぐ「わっ」と声をあげました。それを聞いた貴女は、「じゃあ、あれは真当なんですかッ・・・真当なんですね・・・宗・・・」と言ひさして椽先きへ崩折れてしまはれました。其処へ、二階から村木が降りて来ました。勇さんも降りて来られました。そして、「兎に角まあ・・・」と言って、泣き入る貴女を二人で二階へ連れて行きました。僕は下に、じっと遺骨の傍で俯向いてゐました。そして、悲痛な腸をかきむしる様な貴女の泣き声を聞きながら、ガリガリと歯を噛んでゐました。
(中略)と其処へ、こんどは魔子ちゃんがエマちゃんと連れだつて、ニコニコ笑ひながら入つて来ました。その後とからは、まだ足つきの危ないルイちゃんが、これもキヤッキヤッと嬉しさうに笑ひながら、よちよちとついて来ました。
マコちゃんとエマちゃんは、そつと遺骨の前に行き、ぴつたり並んでお線香を上げました。そして、二人で顔を見合せて悪戯さうに笑み交しては、合掌礼拝するのでした。それを見たルイちやんがまた、後ろでキヤッキヤッと喜びながら、四ツ這ひになってお尻を突つ立て、頭でコツコツと畳を叩くのでした。服部の親子は、もうさつきから子供達のすることを眺めて、泣いてゐました。エマちゃんを探しに来た九州の伯母さんと、ルイちやんを探しに来た女中のお雪さんとは、襖の処へたつたまゝ、子供達を指さして泣き出しました。
僕も堪らなくなって、玄関から前庭へ走つて出ました。其処には葉鶏頭が、秋の日を充分に受けて真つ紅に燃えてゐました。僕はその真紅の血のやうな葉鶏頭をじつと見つめました。僕の眼からは泪は落ちませんでした。しかし、その葉鶏頭の血の色からは、しばらく眼を離す事が出来ませんでした。
10月4日、帰郷
大杉らの遺骨、大杉の遺児4人を野枝の故郷に連れ帰ったのは野枝の叔父代(だい)準介(56歳)。野枝の父亀吉の末の妹キチが後妻となっている人物。
貧しい伊藤家で、野枝(8歳)がロペらしのため預けられた先が、キチの嫁ぎ先の代家だった。当時準介は長崎で三菱造船に材木を納める商売が成功し、絶頂の時期にあった。長崎という都会で、活気ある代家で過ごした3年間が、野枝の精神の最初の啓発期となった。
また、15歳の野枝が向学の一心に燃えて頼って行くのも、東京に移って町工場を営んでいる準介だった。野枝の飛躍は、代準介によってその最初の足場を与えられた。
準介は事業家で、かつ侠気に富んだ国士風の人物でもあった。玄洋社の頭山満と相知っていたというから、大杉とは相反する立場であるが、大杉の人物について心から親しんでいた。初対面のとき、挨拶が苦手の大杉はひどく吃ってしまい、野枝が通訳をしなければならなかったが、世間から怪物のように恐れられている無政府主義の巨魁大杉の、そんなはにかみぶりに準介は心魅かれたのかもしれない。
準介の自伝『牟田の落穂』によると・・・
〈遺児四人、遺骨三人分ヲ携へ、滞京十三日二シテ帰途二就ク。此時迄汽車開通シ居ラザル為メ、中仙道ニ廻リタリ。警視庁特高員三名附添ヒ塩尻迄送り呉レタレバ大二助カリタリ。一行ハ予ノ外伯母、女中、遺児四人二テ車中ノ困難名状シ能ハズ〉
代準介が遺骨の箱を抱き魔子(6歳)の手を引いた。大杉家に寄留していたキチの姉モトが、2歳8ヵ月のエマを抱き、女中の雪子が1歳3ヵ月のルイズをおぶった。生後2ヵ月たらずの男児ネストルは、神戸まで出迎えた武部ツタ(野枝の妹)が抱いて、哺乳瓶をふくませ続けた。珍しい洋服姿の幼な子たちを、虐殺された大杉・伊藤の遺児たちであると知って、そっと涙を拭う乗客もあったし、国賊の一行かという冷たい視線をあからさまに注ぐ乗客もあった。
門司駅では待ち構えていた新聞記者がいっせいにフラッシュを焚いて、その音と光に怯えたルイズが火のついたように泣き始め、エマもネストルもつられて泣いた。
一行が博多駅に着いたのは、10月4日午後5時56分。駅頭には、野枝の父亀吉や、弟の清、準介の妻キチなどが迎えて、幼い者たち一人一人を抱き竦めるようにして泣いた。そんな一行に、ここでも容赦なく写真機の閃光が浴びせられた。
その夜は博多の代家に眠り、翌日正午過ぎ、4人の遺児と遺骨は自動車で今宿(福岡県糸島郡、現在は福岡市に編入)の伊藤家へ帰って行った。
10月16日、今宿の伊藤家で葬儀
10月16日午後、郷里での葬儀が伊藤家で行われた。家の前の空地に浅黄に白の幔幕が張りめぐらされ、祭壇には3人の遺骨を納める3つの箱が白布に包まれて置かれた。
大杉は無宗であったが、伊藤家が真宗なので徳正寺住職武内師ら8名の僧侶を迎えての真宗葬とした。大杉の名を継いで栄と改名した長男ネストルが、嬰児ながら喪主として代準介に抱かれていた。
東京からは大杉の同志として川口慶助が来たが、社会主義者の出席は十数名で、他は伊藤家の縁者や知己で100名に満たぬ静かな葬儀となった。官憲の眼を恐れて弔文を読む者はなく、一人が無難な内容のものを短く読んで終わった。
遺児たちが順に焼香するにおよんでは、式場にすすり泣きが起こったが、幼い3姉妹は庭に咲くコスモスやダリヤの花に眼を奪われているようだった。
遺児たちの名前は、このときもう改められている。魔手は真子に、エマは笑子に、ルイズは留意子に、ネストルが栄である。いずれもその名で、野枝の私生児として今宿の村役場に入籍された。
かつて、野枝に伴われて今宿にきた大杉は、海を見降ろす松林の中の小高い墓原をことのほか好んで逍遥したが、その墓原に3人の遺骨は埋められた。東京で分骨してきているので、遺骨の量は少なかった。
だが、墓標を立てるときになって、村役場から思いがけぬ横槍が入った。野枝はともかく、大杉と宗一の埋葬許可は出せないという。無政府主義者大杉は、東京での生活でもいっさいの籍を役所に届けていなかったし、もちろん野枝をも入籍していない。これでは埋葬許可書を出せないといわれて、与吉らは途方に暮れた。また、橘宗一の籍はアメリカにあって、これも埋葬許可書を取ることが難しい。結局、表向きは野枝一人の遺骨を埋葬したということにして、白木の墓標には武内導師が「経曰其仏本願力、不欲名聞、往生悉到彼岸、国致不退転、伊藤野枝」と記した。
しかし、その白木の墓標もたちまち誰かに引き抜かれて持ち去られた。
今宿での葬儀を終えると、真子は代準介に連れられて、福岡市新柳町の代家に引き取られて行った。4人もの遺児たちを見かねた準介が、真子を自宅から小学校に通わせることにしたからで、代家の養子に取ったということではない。
大杉と野枝は、国家による庇護は一切求めぬという無政府主義者としての信念で、四人の子らの出生届けを役所に出していないので、すでに学齢に達しながら真子は小学校に通っていなかった。
福岡市春吉尋常小学校1年に編入された真子は、10月22日初登校した。2学期間もの遅れが心配されたが、真子は利発であった。
つづく
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