大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑮)
松下竜一『久さん伝』より
10月4日、甘粕実弟襲撃未遂事件
この日、ギロチン社の田中勇之進が甘粕の弟を襲撃しようとして、失敗した。
和田久太郎たちは、この田中勇之進を知らなかったが、中浜鉄や古田大次郎らのギロチン社に属していて、中浜の指令により甘粕の実弟を狙った。
ギロチン社は、同じアナキストの集まりながら、大杉を中心とする労働運動社とは運動の方針が違っていて、リヤク(資金強奮)とテロの路線をとっていた。しかし、中浜は大杉に強く魅かれていた。
『杉よ!
眼の男!
更生の霊よ!』
大地は黒く汝のために香る。
大杉の死をくやしんだ中浜は、追悼の辞をかく書きつけている。彼は『労働運動』誌上にも詩を寄せる革命詩人でもあった。
中浜は、大杉直系の労働運動社一党が復讐に立たぬことを内心嘲笑していて、その役を自分たちが果たすのだと同志たちにはかった。そして若い田中勇之進にその役割を振り当てた。甘粕はすでに獄中にあるので、実弟五郎(17歳)が三重県津市第一中学校に通っているのを狙おうという。
この日午前7時過ぎ、三重県飯南郡松阪町の路上で、登校中の五郎に勇之進は短刀で襲いかかった。しかし、五郎の身辺を警戒して尾行していた刑事に阻まれ、いったんは逃走をはかったが逮捕された。あっけない未遂事件であったが、それは和田久太郎にとってはギロチン社の挑発と受けとめられた。
その頃の和田久太郎の権力に対する烈しい怒りの姿を、古河三樹松が伝えている。
〈忘れ難い九月も過ぎて逝く秋の冷い朝、僕達は同志武良二君の出獄を中野監獄前に待ち受けた。久さんは「ただ民衆よ迷羊よ、炎となりて地を焼けよ・・・」とあの歌を怒鳴り乍ら、黒鉄の厳しい門をきっと睨んでいたが、その時きっと久さんの心は権力に対する反抗に烈しく燃えていたに違いない〉
軍隊宣伝ビラ事件で入獄していた武良二が出獄したのは11月16日で、多少記述の誤りがある。
12月16日、大杉、野枝、橘宗一の葬儀
大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の葬儀が営まれたのは12月16日である。葬儀準備委員には和田栄太郎(正進会)、水沼辰夫(信友会)、佐藤陽一(芝浦労働組合)、田中寅吉(機械技工組合)など多くの労働組合代表と、平岩巌(自由人社)、望月桂(農村運動同盟)、武良二(朔風会)らアナキズム系の思想団体が名を連ねた。さすがにポル系の名はみえない。
だが、葬儀の朝、とんでもない事件が発生する。
8時頃、朝食を始めようとしていた労運社に、二人の人夫ふうの男と、もう一人紋付羽織袴の中年男が訪ねてきた。人夫ふうの男たちは縁に掛けたままで、羽織の男だけが上がり、「福岡県飯塚炭坑下鳥繁造」の名刺を岩佐に渡して、九州から葬儀に参列したくて来た旨丁寧に挨拶した。岩佐も挨拶を返し、遺骨に黙礼する男を残して、隣りの部屋に戻り朝食をとり始めた。
そのとき、「この骨は俺がもらって行く」という怒鳴り声が聞こえた。まっ先に部屋に飛び込んだ近藤は、男が一包みにしてある遺骨を左小脇に抱えて、縁先の男に渡すのをみた。近藤の叫びに男はその場に振り返ると、小卓を挟んでピストルを向けた。近藤がたじろいだ瞬間、下鳥は身を翻して門へと走った。近藤はとっさに椅子をつかんであとを追い、門の外で再び対峙した。近藤には、ピストルに弾が込められていないように思えた。
「撃て!」というと、パシャッと軽い音がした。「こやつ、やはり、からだまだぞ!」と叫んだとき、久太郎が飛び出してきて、再び逃げ始めた下鳥を追った。久太郎に向けて、下鳥は逃げつつ二発を撃った。ひるまずに追いつめて、電車通りで久太郎と近藤は下鳥を組み伏せた。そこへ駆けつけた望月が、朴歯の下駄で顔を踏みつけた。なにしろ駒込署の鼻先の騒ぎなので、警察が出てきて強引に久太郎たちの手から下鳥を引き立てていってしまった。
しかしそのあいだに、大杉たちの遺骨は、人夫ふうの男たちが待たせていた車で持ち去ってしまった。
これは葬儀妨害を企てた右翼団体大化会の仕業であった。下鳥が撃ったのはいずれも実弾で、久太郎か近藤も危いところであった。(のちに久太郎は、獄中でこの下鳥繁造と顔を合わせている)
この事件のために、午後1時から谷中斎場で行われた葬儀は、遺骨なしの緊張したものになった。もとより無宗教の葬儀である。祭壇には遺骨の代わりに三人の写真が飾られ、二十数旒(りゅう)旅の団体旗が立ち並んだ。参会者は700名に及んで場外にまで溢れた。
司会の岩佐作太郎は、開会の辞で40分にもわたる熱弁を揮い、虐殺事件の真相を暴露した。久太郎は大杉と野枝と橘宗一少年の略伝を全員の前で朗読した。それは久太郎に与えられた光栄であったかも知れない。
だが、そのときの久太郎が興奮のあまり舌がもつれ、草稿を持つ手がぶるぶる震えていたことを江口は目撃している。大物ではない久太郎の、それがありのままの姿であったろう。葬儀の終わりは「無政府主義万歳」の大合唱で、臨監警部による「中止・解散」の声で幕切れとなった。
大化会の岩田富美夫が遺骨を持って警視庁に出頭してきたのが27日のことで、連絡を受けた村木が受けとりにいくと、警視庁は異様に大混乱していて、遺骨受けとりどころではなかった。
じつにこの日、第48通常議会の開院式に出席する摂政の自動車に向けて、難波大助が仕込み銃を発射したのである。弾丸はお召自動車の窓を射抜いたが、侍従長が顔に負傷しただけで終わった。ときの内閣を総辞職させることになる「虎の門事件」である。このため大杉らの遺骨が返されてきたのは、じつに年を越えた翌年5月18日であった。
震災後の混乱から立ち上がって、第四次『労働運動』が刊行されたのは、大杉らの葬儀の日から四日後の12月20日である。第三次は7月1日発行の第15号で終わりになった。
フランスから帰ってきた大杉を迎えて、新しい発展を期していたところに襲ったのが震災であり、そのなかでの大杉らの惨死であった。主柱を喪った『労働運動』は再出発せざるをえなかった。同人には、近藤、和田、村木の他に、和田栄太郎(正進会)、水沼辰夫(信友会)、山鹿泰治が名を連ねた。
久太郎はこの第1号の巻頭に「大震大火による騒乱と奴等の逆襲 - 並びに急進愛国党の出現 -」という文章を書いている。
つづく
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