2023年12月22日金曜日

〈100年前の世界162〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑲) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年9月1日 和田久太郎、福田雅太郎大将狙撃に失敗   


燕楽軒

〈100年前の世界161〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑱) 松下竜一『久さん伝』より 1924(大正13)年7月 ギロチン社の爆弾試験 9月1日、和田久太郎、福田雅太郎狙撃に失敗 より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑲) 

松下竜一『久さん伝』より


1924(大正13)年9月1日 和田久太郎の福田雅太郎大将狙撃失敗

和田久太郎の福田雅太郎大将狙撃失敗のその日(9月1日)、本郷区駒込片町の労働運動社が警察隊に急襲された。

近藤憲二は、その日の午後、2時間かかって青桐の枝おろしをすませ、浴衣に着かえ縁に立って明るくなった枝を見上げているとき、表と裏からどっとなだれこんできた警官たちに、いきなり連行された(『一無政府主義者の回想』)。

午後6時半頃に和田久太郎が逮捕されてからほとんど時を置かぬ警察の迅速行動であった。警視庁は労働運動社の村木源次郎を和田の共犯者とみて、緊急手配を布いた。

警察は、この日午後3時頃、労働運動社を出る村木をみかけながら、尾行をつけなかったという失態を演じていた。この日、浴衣がけの村木が出ていくのに、「村木さん、どちらへ?」と、尾行巡査が声をかけた。

「なに、天下の形勢はどうかと思ってね」

散歩にでも出るようなのんびりした答が返ってきて、つい尾行はついていかなかった。実はこの時、村木は懐に5連発の拳銃をしのばせていたが、同志たちでさえ「ご隠居」と呼ばれている彼の、いつもながらのものうい静けさに尾行は欺かれた。

この日、襲撃側は三重の網(本郷口に和田、小石川口に古田、長泉寺(会場)に村木)を張っていた。

会場の長泉寺のある菊坂町に車で到るには、本郷口と小石川口からの二つの進入口がある。福田の車のくるのは、たぶん燕楽軒のある本郷口からと考えて、そこを曲がる自動車に和田が爆弾を投げ込むというのが、必殺の第一計画であった。

ただ、もう一つ小石川ロから菊坂を登る道があるので、そちらをくるとは思われなかったが、念のため古田大次郎が見張りに立った。和田の失敗に備えて、会場である長泉寺に拳銃を持って待機したのが、村木である。  

予想通り、福田を乗せた車は、和田がいる本郷口のほうへきた。しかし、車は菊坂町へと曲がらずに、予想外にも燕楽軒前で止まり福田が降り立った。和田はすっかり慌てたらしく、最初の策であった爆弾投擲を忘れて、近接して拳銃で狙撃してしまった。失敗して逃走しようとする和田が現場に投げ棄てた女物の手提げ袋には、短刀一ふりと自動発火式爆弾一個が遺されていた。

村木は会場で待っていたが、一人の男が飛び込んできて「大変だ、大変だ」と叫んだので、さてはと思い飛び出していった。燕楽軒の角までの、軽い登り坂を約250m駆けつけてみると、燕楽軒周辺はすでに厳重な警戒で、何がどうなっているのかわからない。そのうちに警官が増えて、彼自身危険を感じたので、そのまま一人で古田の隠れ家となっている、平塚村上蛇窪(現在・東京都品川区)の家に引き揚げた。

夜10時すぎ、古田が帰ってきた。このときはまだ詳細はつかめなかった。

遅くなって出た号外で、ようやく二人は和田が逮捕されたことを確認した。福田大将は負傷したが「生命に別状はなき見込」とあるのをみて、村木はかえって喜んだ。これは当局が真相を伏せているので、和田の撃った弾は福田の体内に入っているに違いないと信じた。

和田自身もまたそう信じていた。

東京朝日の記事が報じている。

本富士署に引致された和田久太郎は係官から与へられた弁当をパクツキ、煙草を吹かしながら取調べに対して豪然たる態度を示してゐるが、本人はピストルが空砲であったことは知らず、従って福田大将は即死したものと思ひ込み、「これで大杉君も地下で喜こんでゐるたらう、確かに手ごたへがあった」と云ってゐる。


実際は、福田大将は燕楽軒楼上で、詰めかけた記者団などを前に褌姿で仁王立ちになり、背中の小さな火傷を調べてもらったあと、やや遅れて9時10分から20分間、予定通りの講演をすませた。

つづく

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