2023年12月24日日曜日

〈100年前の世界164〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(㉑) 松下竜一『久さん伝』より 大正13(1924)年9月2日~10日 村木源次郎・古田大次郎、一連の爆弾事件のあと逮捕される   

 


〈100年前の世界163〉大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 松下竜一『久さん伝』より 和田久大郎はなぜ福田雅太郎狙撃に失敗したのか? より続く

大正12(1923)年 大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺(⑳) 

松下竜一『久さん伝』より


大正13(1924)年9月2日~10日 村木源次郎・古田大次郎、一連の爆弾事件のあと逮捕される 

9月2日夕、和田久太郎は市ヶ谷刑務所に移管される。

村木と古田は蛇窪の隠れ家でいたたまれぬ思いに駆られていた。すぐにも単身で第二の暗殺計画をはかろうと焦る村木を、古田が止めた。一緒に協力するから16日まで得てという。

もともと、福田大将暗殺計画は大杉直系の村木源次郎・和田久太郎の策したもので、ギロチン社という別グループに属する古田大次郎は、爆弾などの武器調達で相談を受けたに過ぎない。だから9月1日も、古田自身は何の武器も驚せずに小石川ロでの見張り役をつとめた。

村木も、古田が協力してくれるなら16日まで待つことに異存はなかった。指名手配されている村木よりも古田のほうが動きやすかったし、病身な村木にしてみれば、若い古田が頼りだった。このとき村木は34歳、古田は24歳。

9月16日と定めたのには、1年前のこの日に大杉・野枝・甥の橘宗一少年が虐殺された日だからである。その16日に、村木は爆弾を抱いて福田の家に飛び込む計画を立て、古田もその日を村木との訣れの日として覚悟していた。

しかし、照準を9月16日に定めながら、それまでを無為に待つのが、若い古田には耐えられなかった。

9月3日夜、古田は和田久太郎を逮捕した本富士署の裏門から忍び込んで、窓から爆弾を投げ込んだ。点火が不十分であったのか、それは不発に終わった。

つづいて9月6日、ダイナマイト1本を仕込んだ爆弾を菓子箱に偽装した小包みに造り、偽りの差出名で福田大将宅に速達便で送りつけた。小包はこの日午後3時20分頃配達され、たまたま嫁ぎ先から帰っていた長女シノが小包みを開いた。

カチッと音がしてスーッと白煙があがったとき、彼女はとっさに危険を察知し、その場に菓子箱を投げ棄てて隣室へと逃げ込んだ。同時に大音響を発して爆発が起こり、茶の間の床板や天井板を打ち抜いたが、人身被害には至らなかった。この日、福田大将は出張中であった。

この事件は新聞記事差し止めとなって、世間には洩れなかった。風邪で寝ている村木がくやしがって、

「こりゃあ今度は、大勢の前でやって、どうしても隠せないようにしてやるのだな」

と言ったとき、古田はごく気軽な思いつきのように、

「そうだね。じゃあ一つ、汽車をひっくりかえしてやろうか」と応じた。

古田は下調べのあと鶴見川の鉄橋にダイナマイトをー本仕掛けた。汽車は通過したが、なぜか爆発は起こらなかったので、ダイナマイトを回収して帰った。

さら9月8日夜、古田は銀座4丁目の電車軌道にダイナマイト一本を仕掛けて電車に轢かせた。今度は大音響と黒煙をあげて爆発し、銀ブラ連を驚かせたが、電車にも人間にも実害は及ぼさなかった。逃げた位置でその大音響を耳たした瞬間、古田の身体はビグッとして固くこわばり、形容できぬほどの恐怖と悔恨が胸中に突き上げていた。彼は震える心をもつテロリストであった。

古田は、のちに獄中でこう書いている。


この銀座事件は、僕のやったいろいろの仕事の内で、一番悪戯(いあたずら)気分に満ち、不真面目な、そして「性質」の悪い仕葉と自分でも思い、他人も思っている。殊に親父なんか「まるで悪魔の所業だ」と云って叱ったものだ。 

僕は、この言葉を泣きながら肯定した位、辛い切ない気特で、あの「悪戯」をやったのだ。

詳しい説明は今すまい。只、これだけ言っておく。大震当時、僕の同志に加えた民衆の無知なる迫害、僕はそれを忘れられない。僕等は彼等に抗議しなければならないのだ。

(『死刑囚の思い出』)


この爆弾事件は、「人出盛の銀座で電車の大爆音、黒煙立昇りり大騒ぎしたが電車も軌道も無事で原因も判らぬ」と報じられて、いっこうに彼らの「抗議」とは結びつけられなかったので、二人はかえって苛立った。

いっそ今度は警視庁を灰にしてやろうかという相談をして、古田が下見に出かけ、村木が放火用の爆弾をつくった。

しかし、すでに警視庁は、一連の爆弾事件を関連づけて、網を絞ってきていた。

9月9日夜、平塚村上蛇窪五三二番地の鳥貞尚名義の隠れ家は、警視庁の網に包囲された。アジトには爆弾も拳銃もあると知って、踏み込む刑事たちは酒盛りをして酔いの勢いで繰り出していた。隠れ家の内では、それとは露知らぬ村木と古田がのんびりと文学論を交わしていた。                     

9月10日未明、「電報です」の声に、古田が戸をあげたところを、ぐいと手を掴まれて外に引っ張り出され、あっけなく組み伏せられた。間髪をおかず雨戸を蹴破ってなだれこんだ刑事たちは、蚊帳の釣り手を切り落として村木を袋の鼠とした。それでも村木はいったん拳銃を構えたが、発射はせずに観念した。             

「十六日まで待つのではなかったに1という村木の思わず洩らした痛恨の呟きを、傍らの刑事が聞きとめた。

上蛇窪のアジトを自白したのは、拷問に屈した和田久太郎であったと推測できるが、逮捕され古田は、少しも和田を疑っていないばかりか、むしろ獄中で次のよう詫びている。

「村木君和田君にも、僕は許して貰わなけれならない。それは蛇窪の隠れ家があのようにやすやすと警察に察知されたのは、撲たちの日常の注意が足りなかったからである」(『死の懺悔』)

さらに連累として、9月29日大阪で倉地啓司が捕まり、12月5日に京都で新谷与一郎が捕えられた。いずれも爆弾製作にかかわった一味としてで、倉地・古田とともにギロチン社に属していた。


つづく

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