2025年3月30日日曜日

大杉栄とその時代年表(450) 1903(明治36)年7月1日~10日 「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」)

 

夏目鏡子

大杉栄とその時代年表(449) 1903(明治36)年6月28日~7月 「日本では君主政体を国体と称するようである。(中略)社会主義なるものは、(中略) いわゆる国体、すなわち、二千五百年一系の皇統が存在するということと、矛盾・衝突するのであろうか。この間題に対して、わたくしは、断じて否と答えねばならぬ。(中略)社会主義は、かならずしも君主を排斥しないのである。」(幸徳秋水『社会主義神髄』付録「社会主義と国家」) より続く

1903(明治36)年

7月1日

チタ~ウラジオストック間の東清鉄道開通、全線開通。接続するシベリア鉄道はペテルブルク~ウラジオストク全線開通。また、東清鉄道は、満州里~ハルビン~奉天~大連~旅順の全線が開通。

7月1日

(株)日本製麻設立。(株)帝国製麻の前身のうちの1つ。

7月1日

啄木(17)、「ほほけては藪かげめぐる啄木鳥のみにくきがごと我は痩せにき」(『明星』卯歳第7号、4首の中の1首)。

7月1日

トゥール・ド・フランス第1回大会。フランス一周自転車レース。

7月2日

ロシア旅順口会議。~11日。陸相クロパトキンら極東関係者(関東長官アレキセーエフ中将、太平洋艦隊司令官スタルク中将、宮廷顧問官ベゾブラゾフら)。

ニコライ2世の意図は、極東での事業が日露開戦の口実を与えないようにすること。「東亜木材会社」関連の全将校の引揚げを指示。民営性徹底のため、鳳凰城の部隊と龍岩里の武器の撤収を命令。13日クロパトキン陸相、旅順口発。

7月2日

山県・松方元老、伊藤の枢相祀り上げ上奏。天皇に対し、桂内閣の退陣は不可、伊藤が元老で政党党首であることが国政に悪影響あり、「速やかにこれを政党より抜きて廟堂の要路に立たしめ」る必要ありと述べる。

天皇は、政党に不信あるものの、伊藤の失脚を意味する枢密院議長祀り上げには躊躇。徳大寺実則侍従長も説得、3日には天皇もこれを決意。伊藤の幕僚伊東巳代治もこれに絡むが、伊藤はこの事実を知らず。

7月2日

伊東は伊藤に対し、天皇が桂を慰留し、これを山県・松方から伝達した模様とのみ報告。山県・松方の上奏には触れず。

3日には、桂が伊藤を訪問。天皇に慰留されたのでしばらく葉山で静養すると述べる。伊藤はこの日、伊東に「別後首相来訪、談笑の中百疑氷釈、快然の至りに候。この上は井伯、陸相(寺内)をも煩わすの必要これあるまじきかと存じ候」と書き送る。伊藤は、桂が辞意を撤回したと見た。

7月7日付け伊東巳代治の山縣有朋宛手紙。


「例の一件に付きては容易ならざる御厚配感佩(かんぱい)の外これなく候。その後の御操様御伺いかたがた今夕拝趨仕りたくと存じ奉り供えども、昨朝より深更まで御妨げ申し上げ候儀に付き、今夕は引き控え申し候。・・・もっとも閣下に御面話を得候までは、伊藤侯を御訪問申し上げざる愚意に御坐候。」

7月2日


漱石)「七月二日(木)、晴。朝から晩まで、第一高等学校で点数会談開かれ疲れる。(学生の試験の結果極めて悪い。)菅虎雄宛で、神経衰弱だと伝える。俳句一句を添える。

七月三日(金)、午前七時、第一高等学校の入学試験監督のため、学校に行く。奥太一郎宛に手紙を出す。

七月四日(土)、五日(日)頃、鏡、尼子四郎から診察の結果を知らされる。その時、漱石の病状を話すと、ただの神経衰弱とは思えぬから、医学博士呉秀三(本郷区駒込西片町十番地)にみせてはと勧める。その方策を尼子四郎に委ねる。」

7月3日

林董駐英公使、日露交渉開始について英の諒解を求める。

7月4日

米、太平洋横断海底電線敷設。

7月6日

伊東巳代治は伊藤博文から翌日の召命について徳大寺侍従長に内々に尋ねるよう求められ、この日夜、「御用向は十の八九枢相の件なるべし」と報告。しかし伊東は、これは実現性が薄いとも答える。伊藤は、伊東の使者に対して「多分厳命はなかるべし」と話している。

7月6日

伊藤博文、参内。天皇は、対露交渉について諮問する機会も多くなるので枢密院議長に就任するよう内旨が下る

7月6日

エミール・ルベ仏大統領、外相とロンドン訪問(~9日)。英仏協商の交渉を開始。

7月7日

日本、清国に対ロシア強硬を勧告。

7月7日

英ヤングハズバンド大佐、遠征軍を率いてチベット侵入。

7月7日

天皇、伊藤元老に枢密院議長就任指示。

9日、徳大寺侍従長が勅書を手交。

10日、伊藤、松方・山県元老が枢密院顧問官になることを条件に、議長就任了解(松方・山県を道連れにする)。現議長の西園寺公望に政友会総裁就任を要請、西園寺は承諾。伊藤博文に政治の第1線での活動終る

山県・桂の陰謀

桂首相が辞表を提出、天皇には最高の相談役が必要との名目で、伊藤を枢密院議長に祭り上げ、政友会総裁辞任に追い込む、伊藤が総裁を辞任すれば政友会は自壊する考え。天皇は、決断に迷うが、ロシアとの交渉が極めて重要で戦争に繋がる危険も迫る時期で、内閣が倒れ政治に混乱を生じさせる訳にはいかず、伊藤に枢密院議長就任を求める。

伊藤は、山県・桂の陰謀を察知して、西園寺枢密院議長に自らの就任可否について相談、西園寺は拒否を勧める。翌日に西園寺から状況を聞いた政友会幹部原敬も同意見。結局、伊藤は天皇の苦悩を察し、桂内閣が再び辞表を提出しないという条件で枢密院議長就任を内諾。

7月7日

幸徳秋水(「一兵卒」署名)「戦争論者に告ぐ」(「万朝報」)。職業軍人と徴兵された一般兵士の差別、不公平。

戦争は、職業事人たちによって戦われるものではない。戦争にかり出される兵士たちはプロレタリアの子弟である。高等教育をうけたものは、様々な名目で兵役を免れており、徴兵をうけるのは貧乏人ばかりである。その多くは一家の働きざかりである。貧乏人は、兵役という貧乏クジを引くほかない社会の仕組は、不公平そのものである。勇ましい開戦論を唱える学者たちは、危険な戦場へ行かない。

「わが輩、一兵卒、あに甘んじて富貴者流のために犬死するにしのびんや。あえて一言して世の仁人に訴う。」

7月9日

福井県、暴風雨の被害甚大。死者13人、床上浸水3400戸。

7月10日

平出修(26)「七博士の行動を難ず」(「越後日報」7月10,11日)発表。この新聞は義兄平出善吉が高田市で発行・経営していた。修はこれ以前にも評論や短歌をいくつも寄稿している。

7月10日

この頃、漱石、神経衰弱再発(翌明治37年5月頃まで)。9月10日ころまで鏡子、一時実家に帰る。


「七月十日(金)頃、神経衰弱一層ひどくなる。九月十日(木)前後まで鏡と別居する。鏡、父親中根重一と相談して筆・恒子を連れて妊娠中の身で実家に帰る。」(荒正人、前掲書)


「梅雨期頃からぐん/\頭が悪くなつて、七月に入つては益々悪くなる一方です。夜中に何が癪に障るのか、無暗と癇癪をおこして、枕と言わず何といはず、手当り次第のものを放り出します。子供が泣いたといつては怒り出しますし、時には何が何やらさつぱりわけがわからないのに、自分一人怒り出しては当り散らして居ります。どうにも手がつけられません。」(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)

「漱石の精神状態は六月の梅雨を迎えて悪化した。夜中になると病癖を起し、枕やら何やら手当たり次第に投げ、子供が泣いたと言っては怒った。鏡子はまた妊娠し、悪阻で苦しみ、肋膜炎で少し熱もあった。彼は女中も気に入らずに追い出し、鏡子一人を集中攻撃した。実家へ帰れとしきりに言うので、鏡子はひとまず子供を連れて中根家へ帰ることにした。ロンドンでは他人目を憚り部屋に籠ったが、自宅では一番親しい者に当たり散らすのが彼の病気の特徴である。講義の受けの悪さや、年度末試験の採点、面接の立ち会いなど彼にとっては愚にもつかない仕事の連続で、癇癪のこぶがどんどん大きくなっていたのだろう。」(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

「・・・以前はあんなに無茶苦茶に怒る人ぢやなかつたのだが、あんまり勉強でもし過ぎて、どつか身体なり頭なりに異状のあるのではあるまいか。以前とはまるでころりと違つてゐますので、不審でもあり心配でもあるので、その頃始終私を診に来てくださった尼子四郎さんにお話をしまして、とてもまともに診てあげませうなどといつたつて、近頃の空模様では素直におとなしく診せる気遣ひもなし、いつか折をみて、私を診に来てゐると、どうも夏目の顔色が悪いがとか何とか言ひがかりをつけて、そこのところをうまく持ちかけて診察してやってくれませんかとお願ひしました。尼子さんも仔細承知で引きうけてくださいました。」.

「四五日たつと、尼子さんがみえてのお話に、余程話が旨く運んだとみえて診察をされたといふのです。どんなでしたとお伺ひしますと、どうもただの神経衰弱ぢやないやうだと首を傾げられます。それではと重ねて御伺ひしますれば、精神病の一種ぢやあるまいか。しかし自分では何ともそこのところは申し上げ兼ねるから、呉(くれ)博士に診て戴いてはといふお話です。さうなれば是非もありませんが、また益々心配なので、ではさう願はうといぶことにお話をきめて、万事の謀(はかるごと)は尼子さんに御願ひいたしました。」

「さう言はれて改めてみるせゐか、どうもやることなすことが只事でありません。何が癪に障るのか女中を迫ひ出してしまひます。私にはいよいよつらく当ります。女中は居ず、その上私は病気でふらふらしてゐるのですが、こちらもさうさう面当てがましく振る舞はれるのではたまりませんし、またそのいらいらしてゐるのを見るのが実にたまりません。しきりに里へ帰れといふことを面と向かって申しますので、私も考へました。こんなことが続いて、一層頭をいらいらさせてしまつても悪いし、万一子供にどんな危害がふりかからないものでもない。或は私が一時子供たちを連れて身を引いてゐたら、その間それだけ眼の前から邪魔者がなくなるわけで、かへつて気が鎮まるかも知れない。一先づ身を引いて様子をみよう。さう考へまして父に相談しまして、ともかく病気に逆らはないやうにして、一時子供を連れてどいてみることにいたしました。さうして七月に一旦里の父母の許へかへりました。」(『漱石の思ひ出』一九「別居」)


つづく


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