鎌倉 大巧寺 2016-08-25
*天治3/大治元年(1126)
この年
・頃(時期不詳)、フランケン大公コンラート3世、パレスティナ巡礼。
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・ゴスラー帝国会議。ドイツ国王ロタール3世、聖霊降臨祭後、シュヴァーベン大公フリードリヒ打倒の帝国軍を決議。
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・末、ヴェルフェン家バイエルン大公ハインリヒ黒大公、没。息子ハインリヒ尊大公(26)、世襲。
尊大公(傲岸公)ハインリヒ:
1127年、国王ザクセン大公ロタール3世娘ゲルトルートと結婚、ザクセン大公領も受領し岳父ロタール3世を支持。
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・ノルベルト・フォン・クサンテン(46)、マクデブルク大司教に就任(位1126~1134)。
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・チェコ、クルシュナー山のフルメッツの戦闘。
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・アキテーヌ候ギョーム9世(54)、没(1072~1126、位1087~1126)。ギョーム10世(27)、相続(1099~1137、位 1126~1137)。
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・カスティーリャ・レオン女王ウラーカ、没(位1009~1026)。初婚のガリシア伯レーモンとの間の息子アルフォンソ7世、即位(位1126~1157)。
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・ポルトガル、この年即位のカスティーリャ・レオン王アルフォンソ7世、ガリシア統治権をサンティアゴ大司教に委ねる。しかし、フェルナン・ロペスもテレサもサンティアゴ大司教への忠誠を拒否。翌1157年サンティアゴ大司教はポルトカーレを焼き討ち。
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1月7日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世武人王、グラナーダ城壁下に迫る。
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1月22日
・「大治」に改元。
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2月
・「源某若狭国所領処分状案」。
若狭の私宅を中心とする所領(開発所領、遠敷郡中手東郷・中手西郷・大飯郡青郷6ヶ所)が、丹生二郎隆清に譲られていることを示す文書。
翌3月、二郎隆清が領知する若狭国遠敷郡恒枝名田坪付帳が作られる。
「大開墾の時代」と云われる郡郷制改編・荘園公領制成立の一端を示す。
国内支配権を委任された受領達は、収取物の一定額の上納分以外は私腹にまわすが、やがて非法な収取、郡司・百姓らに対する苛酷な支配に繋がる。
そして、それは、郡司・百姓らの激しい憤激と抵抗を呼び起す(永延2年(988)「尾張国郡司百姓等解文」)。
天延2年(974)~永承7年(1052)、国司苛政上訴闘争と名付けられる郡司・百姓らの抵抗運動噴出(坂本賞三)。
この結果、中央政府の政策は緩やかに転換。
①収取体系面の改革:
公田官物率法の成立
公田と認定した土地に対し定率租税を賦課する制度。
「人」から「土地」への賦課原則の大転換。
11世紀中葉~12世紀初頭「段別3斗」定率がほぼ全国的に成立。
調・庸・雑物の系譜の賦課物は臨時雑役という税制体系に統合。
臨時雑役の内、伊勢神宮や内裏の造営、大嘗会挙行など国家的大事は、一国平均役という名の賦課が荘園・公領を問わずに賦課される。
②行政機構・土地所有面の改革:
郡郷制改編
①の税賦課体制を実現する土台としての公田確定を含む土地制度整備。
領主的開発を背景に、領主的土地所有を公認しながらこれを国家的支配(収取体系)の下に再編成する措置。
律令制地方行政機構(郡―郷の支配・管轄関係)を形骸化し、郡・郷・院・別名などを夫々独立所領(所有単位)として公認し収取の単位ともする改革)。
11世紀中葉、荘園整理と大田文(土地台帳)作成を一国別に確定してゆく。
①は、受領の国内支配の恣意性に制約を加え、上へは中央国家の財政的基盤を安定させ、下へは在地社会に芽生えた私的・中世的土地所有に法的保障を与えることとなる。
②は、在庁官人層や田堵・負名上層ら新興の国内支配層に土地開発と所有のための安定的な政治的・経済的枠組みを提供し、これらを中央国家の直接の支配体制下に組み込む結果をもたらす。
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2月2日
・白河法皇、東殿に移る。水火童が左右に列立、水童に越前守平忠盛が付く(「永昌記」)。
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3月10日
・アンスールの戦い。ルセーナ近傍。
アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、ムラービト朝セビーリャ総督アブー・バクルに勝利。
勝利後、マラガの海岸でアンダルシーア遠征を終了、サラゴーサに戻る。
サラゴーサに帰る際に1万人ほどのキリスト教徒をエブロ河流域に連れて帰り定住させる(移住せずアンダルシアに残ったキリスト教徒はムラービト朝より報復される)。
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3月10日
・千葉常兼(良文流平氏7代当主)、大椎城で病没。弟の相馬五郎常晴が家督を継承。常兼の嫡男常重は大番役として留守のため(?)。
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3月24日
・藤原清衡、中尊寺金堂と三重搭の落慶供養を行う。建築期間20年。
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6月
・故千葉常兼の嫡男・常重、帰国。
この年中に上総国大椎から千葉庄へと移住。猪鼻城(池田郷猪鼻山)を本拠とする。
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7月1日
・彗星北方に見ゆ。
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10月
・グラナーダのキリスト教徒指導者、サレとメクネスに追放。
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・エルサレム王ボードワン2世次女アリックス、アンティオキア候ボエモン2世(ボエモン1世息子)と結婚。
ロベール・キスカール長男ボエモン1世、第1回十字軍に参加しアンティオキア候即位。
1111年タラントで没。
アンティオキア公国を甥タンクレード、タラント公国を息子ボエモン2世に。
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11月7日
・待賢門院を呪詛した疑いで、乗実と妙心が配流。
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11月26日
・アレッポとモースルの統治者アル・ボルソキ、暗殺教団により暗殺。
数ヶ月後、後継の息子も暗殺。
アレッポは無政府状態となる。
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12月10日
・北宋、滅亡(靖康の変)[北宋の靖康1年11月25日][金の天会4年11月25日]
金に包囲攻撃されていた開封が陥落。
翌1127年、徽宗・欽宗・后妃・皇族・官僚・技術者など数千人が捕虜として東北地方の奥地(現在の黒竜江省の依蘭付近)に連れ去られ、宋は160年余りで滅亡。
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