京都、宇治、平等院 2016-08-17
*天治2年(1125)
・源義国、下野国細谷冠稲荷神社創建か。
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・平経盛(つねもり)、誕生。平忠盛3男。母、陸奥守源信雅娘。
安芸守、常陸介、伊賀守、若狭守、讃岐権守、備中権守、正三位、参議、修理大夫。保元の乱では御所西南陣で守護。壇ノ浦で没か?
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・ヘンリ1世甥(妹アデラの子)ブロワ伯(フランス)スティーヴン(エティエンヌ)、マティルダ(ヘンリ1世妻エディス・マティルダ妹メアリーの娘)と結婚。
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・フィレンツェ、フィエーゾレを征服。
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・シェーナ、コンスル制成立。
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・頃、イルネリウス(65)、没(1060頃~1125頃)。法律を修辞学か独立させ、「ローマ法全」に依拠した独立の科目としての地位を与えた。
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・頃、カラーブリア・シチリア伯ロゲリウス2世とアプーリア公グリエルモ(ウィレルムス)、メッシーナで会見。
アプーリア公に嫡子が生まれなかった場合、ロゲリウス2世が「アプーリア公位継承者」と取り決め。
アプーリア公ウィレルムス:
ロベール・ギスカール孫、ロゲリウス・ボルサ息子、位1111~1127。名目上、ロゲリウス2世の主君、実質的、ロゲリウス2世の庇護下にある弱小の君主(ロゲリウス2世、しばしば軍事的援助と引き替えに領地の割譲受ける)。
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・神聖ローマ帝国のフランケン朝断絶。
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・第2代トレード大司教ライムンド、就任(任1125~1152)。
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・エルサレム王ボードワン2世、アンティオキアを守り娘イヴェット(5)取戻す。
捕虜となったボードワン2世釈放の人質(末娘イヴェット他子供10人)。
ボードワン2世、トルコに敵対するエミールと協定締結、アジャス(アンティオキア北方)で敵を 撃破。戦利品で身代金を払い人質を解放、エルサレムに凱旋。
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・アンジュー伯フルク5世妻エランビュルジュ(エランブール・デ・メーヌ)、没(結婚期間1109~1125)。1129年フルク5世、エルサレムのメリザンドと再婚。
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・宋、新興の金と同盟、宿敵遼を挟撃し宿願の燕雲16州の回復を図るが、かえって金の華北侵入を招き、この年、金軍は首都開封に迫る。
徽宗は、「己を罪する詔」を出し、全国に勤王軍を募るとともに、子の欽宗(位1125~27)に譲位。
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・遼、滅亡。
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1月
・アレッポのカーディー、イブン・アル・ハシャーブ、モースル新総督アル・ボルソキにアレッポ救援依頼。
この月、モースル軍がアレッポに到着するや、フランク軍はアレッポ包囲を解いて逃亡。
アレッポとモースルの統合は、以降の対フランク反撃の核となる。
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1月28日
・従五位下藤原家成(19)を若狭守に任じる。父家保(白河院の側近)が後見役。
正四位下右大弁源雅兼に越前権守を兼任させる。
この時点で若狭は鳥羽院の院分国(実際は、家保の知行国保持を覆う隠れ蓑としての院分国)。
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4月23日
・藤原頼長(6)、兄忠通の猶子となる。摂関家存続の安全牌として。
『中右記目録』天治2年(1125)4月23日の条に、「大殿(忠実)の若君、摂政殿(忠通)の御子と成りたまう」とある。この「大殿の若君」が頼長。
しかし、この関係は形式的なもので、実際には頼長は生涯にわたり、父忠実の寵愛と庇護のもとに成長してゆく。
そして、兄忠通との宿命的関係は、このような「父子の約」む結ぶという形で始まる。
頼長は、摂関家の庶子に生れ、父忠実の失脚に遭遇するが、幼少期には世人の注目も惹かずに平穏に過している。
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5月23日
・ザリエル朝最後のドイツ王ハインリッヒ5世(44)、没(1081~1125、位1106~1125)。
後継皇帝にシュヴァーベン大公フリードリヒ指名。
遺言による相続人。
①妻マティルダ(23、1102~1167、ヘンリ1世娘、1128年アンジュー伯ジョフロワと再婚、ヘンリ2世母。1135年ヘンリ1世没後イングランド王を巡りスティーヴンと内戦)。
②甥ホーエンシュタウフェン家シュヴァーベン大公フリードリヒ(35、1090~1147)。
③フランケン大公コンラート(コンラート3世、フリードリヒ弟、32、1093~1152)。
フリードリヒとコンラートはハインリヒ5世姉アグネスの子。
ハインリヒ5世埋葬に参集した聖俗有力諸侯、8月24日マインツで国王選挙の為の集会開催決定。
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6月11日
・アザスの戦い。イェルサレムのボードゥアン2世とブルキス・ダマスクス。
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8月
・アレッポのカーディー、イブン・アル・ハシャーブ、暗殺教団により暗殺。
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8月24日
・マインツ、諸侯、国王選挙の為に参集。出席者数約6万人。マインツ大司教アーダルベルト(ロタール派で反フリードリヒ)が召集。
30日、マインツ国王選挙、ザクセン大公ロタール3世(50、ロタール・フォン・ズップリンブルク)をドイツ国王選出。新興ホーエンシュタウフェン家に対抗し勝利。
9月13日、アーヘンでドイツ国王即位。
ロタール3世(1075~1137、ザクセン大公1106~1127、ドイツ王1125~1137、皇帝1133~1137):
1106年ハインリヒ5世がマグヌス・ビッルング没後ザクセン大公に任命。
1111年以降、反ハインリヒ5世の指導的立場。1111年反乱。1115年反乱。
1123年皇帝ハインリヒ5世授封を無視してマイセン辺境伯・ラウジッツ辺境伯を任命。
選挙経緯:
国王候補
①ホーエンシュタウフェン家フリードリヒ。
②オーストリア辺境伯レオポルド3世(アグネス(フリードリヒ母)が再婚)。
③ザクセン大公ロタール・フォン・ズップリンブルク。
マインツ大司教アーダルベルトの策謀
(ヴェルフェン家バイエルン大公ハインリヒ黒大公がロタール3世を支持、ホーエンシュタウフェン家フリードリヒ敗退)。
アーダルベルト・フォン・ザールブリュッケン:
マインツ大司教、ザールブリュッケン伯。ハインリヒ5世宰相だったが皇帝と帝室の敵となる。
1111年ロタール3世とハインリヒ5世に反乱。
1115年ハインリヒ5世に再度反乱、ヴェルフェスホルツの戦いで勝利。
1119年ハインリヒ5世、マインツを攻囲。
ロタール:
帝国と世継ぎを犠牲にしてドイツ国王を入手。召し上げた封土は国王個人所有にしないで帝国に帰属。
教会即ち教皇特使やアーダルベルトの要求に従う(ヴォルムス条約で得た有利な条件を放棄)。
ホーエンシュタウフェン家フリードリヒとコンラートに多数の帝国領地返還を要求。拒否。
1125年クリスマス、シュトラスブルクでフリードリヒの有罪判決。
次のゴスラー帝国会議で聖霊降臨祭後フリードリヒ打倒の帝国軍を決議。
シュタウフェン家は選挙結果に不満を抱き10年に渡り内乱が続く。
1127年以降コンラートが対立王として起ち、ニュルンベルク、エルザスを巡り争うが、結局ロタール3世に服従。
ロタール3世には息子がいなく、バイエルン公のヴェルフェン家ハインリヒ傲慢公に一人娘ゲルトルートを嫁がせ、後継ぎに指名し、バイエルン公領での影響力を強める。
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9月2日
・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世(騎士4千・歩兵1万5千)、アンダルシーアに進発
(ムラービト朝打倒を決意したグラナーダ地方のキリスト教徒がアルフォンソ1世にグラナーダ征服を要請)。
サラゴーサ →テルエル→バレンシア→ムルシア→グアディク→グラナーダ(攻略失敗)→カブラ→アンスール→マラガ。
キリスト教徒約1万人をエブロ河流域に連れて帰り定住させる。
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11月9日
・法皇ら、熊野に参詣。
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12月5日
・京都で大火。
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12月25日
・ドイツ国王ロタール3世、シュトラースブルクでシュヴァーベン大公フリードリヒに有罪判決。
フリードリヒ岳父ヴェルフェン家バイエルン大公ハインリヒ黒大公はロタール3世側。
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