2025年11月3日月曜日

米中、軍事対話チャンネル再開で合意 ヘグセス米国防長官(AFP);「ヘグセス氏は「ドナルド・トランプ大統領と話し、米中関係はこれまでになく良好だという点で一致した」とX(旧ツイッター)に投稿。また、対面会談後に再び董氏と話したことを明らかにしながら「董氏と私も、平和と安定、良好な関係こそが両国にとって最善の道だという点で合意した」と述べた。」 / トランプ氏、米中関係を「G2」と異例の表現…「G2会談は非常に有意義だった」投稿(読売)   

 

大杉栄とその時代年表(667) 1906(明治39)年6月1日~4日 崔益鉉が起兵を呼びかけると、その傘下に集まる者千余名に達した。そして淳昌において最初の戦闘が行われた。しかし、このとき攻撃の全面に現れたのは日本軍ではなく朝鮮軍の鎮衛隊であった。崔益鉉は朝鮮人同士で戦ってはいけないと説得しようとしたが、先制攻撃を受けると全員に退去を命じ、自ら縛についた。日本憲兵隊に送られた崔益鉉は対馬の警備隊に監禁されたが、3年間の監禁中の彼は冠巾を脱ぐこと、警備隊長の前で起立すること、日本側の飲食提供を断固拒否した。「敵国の粟喰うべからず」と絶食した崔益鉉は74歳の生涯を対馬で終えた。(姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』)

 

崔益鉉

大杉栄とその時代年表(666) 1906(明治39)年6月 明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。(日本文壇史) より続く

1906(明治39)年

6月

東京製紙株式会社創立(大阪府)。資本金35万円。

6月

大阪紡績、金巾製織を合併。

6月

藝防抄紙株式会社創立(山口県)。資本金50万円。

6月

岩野泡鳴「神秘的半獣主義」(「左久良書房」)

6月

イラン、大衆運動高揚。

6月

第1回仏・グランプリ自動車レース開催(ル・マン近郊)。ルノー搭乗のハンガリー人セイス・フェレンツ優勝。

6月

ポーランド、ビヤウィストクで計画的反ユダヤ人暴動。ユダヤ人数百人が虐殺。

6月

カナネア鉱山(メキシコ北部、米国人ウィリアム・グリーンの経営)、賃金差別に抗議し1万人スト。マゴンの影響を受けたカナネア人道自由同盟が指導。州知事指令により23名虐殺、敗北。アリゾナ州警備隊も越境して参加。

6月1日

奉天の日本軍撤退。日本、奉天に領事館設置。

6月1日

日露講和条約により、北緯50度以南の樺太がロシアから割譲。

6月1日

(資)池貝鉄工所設立。

6月1日

耕地整理及土地改良奨励費規則公布。

6月1日

幸徳秋水・岡繁樹・岩佐作太郎・竹内鉄五郎・小成田恒郎・倉持善三郎ら、オークランド白人社会党本部にて在米日本人の「社会革命党」発会式。在米日本人社会主義者50名参加。秋水執筆の宣言・綱領・党則採択。

竹内鉄五郎:

日雇い労働者。岩手県出身。啄木と同期で盛岡中学在学、仙台の東北学院で院長押川方義に愛国主義を叩き込まれ、島貫兵太夫の激励をうけ渡米。週刊「平民新聞」により社会主義に共鳴。「竹内の無鉄砲」とあだ名される。

6月2

この日付け漱石の森巻吉宛手紙。

「(前略)此夏は又講義をかゝなければならない苦しくて面白くなくてきく人もつまらなくて、然もやらねばならぬとは馬鹿気て居る」。大学の講義に熱意がない。

6月3

山路愛山、『社会主義管見』刊行。発禁

6月3

(漱石)

「六月三日(日)、高浜虚子宛手紙に、「少々眼がわろくて弱はり候。」と洩らす。

六月四日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)

6月4

韓国、老儒・前賛政崔益鉉(チェ・イッキョン)、全羅北道泰仁で蜂起「棄信背義十六罪」を日本政府に送る。全羅南北道境界地帯制圧。

10日、崔益鉉・林炳瓉ら義兵軍、全州・南原の鎮衛隊に包囲。崔(自ら縛につく)ら13人逮捕。

8月18日、対馬厳島獄舎に護送。

翌明治40年1月1日、死亡(74)。

崔益鉉:

1876(明治9)年江華条約時(44歳)、3日3晩の伏閣上疏を行う。高宗・閔氏政権は反政府分子と見做し、全羅南道の西方海上の黒山島に3年の流刑。1895(明治28)年断髪令時、再度上疏。この時、高宗はこの反骨の士に刮目、特進官・議政府賛政という官職につける。更に京畿道監察使に任じようとしたところ、林公使に反対され、一切の官職から退かされ、郷里からも追われ忠清南道定山面に引下る(1905年3月)。

崔益鉉は、起兵を前にして、日本政府に対する声明を発表した。

「忠国愛人は性といい、守信明義は道という。人にして此の性がなければかならず死に、国にして此の道がなければ必ず滅ぶ」と前提して、日本が江華島条約、下関条約、ロシアへの宣戦布告のなかで「韓国独立」を云々しながら、それを踏みにじってきた「棄信背義十六罪」(信を棄て、義に背いた16の罪)をあげ、日本が守信明義に帰ることを訴えた。


「かれは欧米列強のアジア侵略のなかで、「東洋三国が鼎足して(日本、朝鮮、中国の三国が協力して)立ち、全力を蓄えて之に備えても、なお支えられぬを恐れる」のに、日本の侵略行為によってアジア三国が「同室相讐」をまぬかれず、結局、欧米列強によって「貴国が強いと雖も、終(つい)には亡び、東洋の禍も、已む時あるなし」。


と述べている。

「東洋併亡之禍」をさけるために日本が信義を守ることを訴えるために起ったのだという大義名分を説いている。このように、日本の背信を責め、その道義心に訴えることを挙兵の大義名分として義兵闘争を指導した儒生は、崔益鉉の他にも多数存在した。しかしアジアにおいて「西欧化」を先取りした伊藤博文は、崔益鉉を頑迷な老儒としてなじった。

 崔益鉉が起兵を呼びかけると、その傘下に集まる者千余名に達した。そして淳昌において最初の戦闘が行われた。しかし、このとき攻撃の全面に現れたのは日本軍ではなく朝鮮軍の鎮衛隊であった。崔益鉉は朝鮮人同士で戦ってはいけないと説得しようとしたが、先制攻撃を受けると全員に退去を命じ、自ら縛についた。日本憲兵隊に送られた崔益鉉は対馬の警備隊に監禁されたが、3年間の監禁中の彼は冠巾を脱ぐこと、警備隊長の前で起立すること、日本側の飲食提供を断固拒否した。「敵国の粟喰うべからず」と絶食した崔益鉉は74歳の生涯を対馬で終えた。(姜在彦『朝鮮の攘夷と開化』)


6月4

徳富蘆花、10日余をエルサレムとその周辺で過ごし、6月4日、北方のガラリヤ(イエスの郷里)へ出発。サマリアの山地を越えて3日間の馬車の旅の後、6月6日、イエスの生地ナザレに到着。

蘆花の日記

「ヨセフの子と呼ばれ、マリアの子と視られ、弟妹に気の知れぬ兄視(あにし)せられて、雪の冬、泉の夏、野花の春、山の月の秋と、ここナザレの山の上に過ぎし三十年の生涯よ。想へばなつかし、知りたし。」

6月9日、ガリラヤから西方の海岸のハイファ港に出て、14日、フランスの汽船オリノク号に2等船客として乗り、黒海入口のコンスタンチノープルに向かう。

20日、コンスタンチノープルに着き、23日、そこからウィーン行きの汽車に乗る。ブルガリア、ルーマニアを経てロシアへ入るためである。


つづく

2025年11月2日日曜日

トランプ、食糧支援打ち切り目前で豪華な「ハロウィンパーティー」を開催。そのテーマが皮肉だった(ハフポスト) / アメリカの政府機関の一部閉鎖で国民が食糧支援打ち切りの危機にさらされる中、トランプ大統領はフロリダの豪邸で豪華なハロウィンパーティーを開催した。 「報道によると、パーティーのテーマは、F・スコット・フィッツジェラルドの小説が原作の2013年の映画『華麗なるギャツビー』の劇中歌「A Little Party Never Killed Nobody(少しのパーティーで誰も死んだりしない)」だった。」  

 

大杉栄とその時代年表(666) 1906(明治39)年6月 明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。(日本文壇史)

 

(左から)射水こと北原白秋、中林蘇水、若山牧水

大杉栄とその時代年表(665) 1906(明治39)年5月6日~30日 韓国総監伊藤博文主唱(山縣、西園寺などの元老閣僚会議)「満州問題に関する協議会」、開催。首相官邸。児玉参謀総長ら武断派抑え、軍政廃止決定。 同日、閣議決定(関東総督機関を平時組織に改める、軍政署を順次廃止)。 9月1日、関東総督府廃止。関東都督制となる(都督は大島総督が引続き任命) より続く

1906(明治39)年

6月

梅謙次郎、韓国政府法律顧問(法典編纂)。

-6月

米人スチーブンス、韓国政府外交顧問就任。日本推薦。

6月

山田嘉吉(41)、21年ぶり帰国。

6月

国木田独歩「岡本の手帳」(「中央公論」) 、「あの時分」(「早稲田文学」)

6月

(漱石)

「春から夏にかけて(推定)、松山時代から交渉のあった知友久保(宮本)より江、屡々訪れ、鏡とも親しくなる。(久保より江の夫久保猪之吉は留学中である。久保より江は文学好きで、袴をはき、自転車を乗り廻す新しい女で参る。(鏡))」(荒正人、前掲書)

「六月 (日不詳)、片上伸、桑木巌翼の紹介状を持参して、『早稲田文学』 への原稿依頼に来る。試験答案を見ていたけれども、二時間余り話す。(片上伸)」(荒正人、前掲書)

6月

陸羯南、新聞『日本』を売却。明治36年6月~37年1月、欧州視察中に結核を発病していた。

6月

若山牧水(21)、英文科の同級生らと回覧雑誌「北斗」発行。6月末に帰省。父が財産をなくし母は病床。牧水自身もしばらく病床に臥せったが、9月中旬に上京。


■北原白秋と若山牧水

●北原白秋

この年、明治39年(1906)、早稲田大学には詩や歌に熱心な学生が多く集まっていた。

その中で特に目立っていたのは、前年1月に大学の機関誌「早稲田学報」の原稿募集に応じて1位当選した長篇詩「全都覚醒の賦」を書いた北原隆吉(号は射水)であった。

「全都覚醒の賦」は上篇109行、下篇118行計227行からなる長い詩であった。詩の方法は、明治35年1月「公孫樹下にたちて」を書いて以後、華麗なイメージを駆使し、詩壇の中心にありながら大阪に住んでいた薄田泣菫の影響を受けたものであった。しかし句読点もスタンザの区分もない詩句を227行も書き続ける表現力の豊かさは、読む人を驚かし、大都会の夜から朝にかけての変化を捉えようとするその野心的な構想が読む人を圧倒した。

彼は、この年(明治39年)から与謝野寛の新詩社に加わり北原白秋という号で、毎月のように「明星」に詩を発表し、社でも有力な新詩人と認められていた。

彼は、福岡県の柳川(山門郡沖端村)の生れで、このとき数え年22歳。生家は代々柳川藩の御用達として、海運の税金の取り立てを請負い、また海産物問屋として九州一円に知られた旧家であった。父長太郎は本業として酒造業を営み、家号を油屋または古問屋(ふつどいや)と言った。

彼は柳川の中学伝習館3年生になった16歳の頃から、雑誌「文庫」を読み、また新雑誌「明星」を知った。翌明治34年沖端村の大火で生家が類焼し家計が傾き始めたが、その頃から文学に心を注ぎ、白秋の号で「福岡日々新聞」に歌を投書したり、友人と廻覧雑誌を作ったりした。

明治35年(18歳)、「文庫」に短歌を投書して選者、服部躬治(もとはる)に認められた。また、翌年、中学5年の時から「文庫」の詩欄に詩を投じて、選者、河井酔茗(すいめい)に知られた。

卒業直前、「硯香」という新聞を学内で刊行し、学校当局に睨まれ、明治37年春、卒業直前に中学校を退学して上京、早稲田大学英文科予科に入学した。この頃、家は衰運に向っていたが、家に古い小判があり、母親がその小判を毎月1枚ずつ送ってくれるのを金に替えて学資にしていると言われた。

●若山牧水

牧水(本名、若山繁)は明治18年生れで、白秋と同年。出身は宮崎県東臼杵郡東郷村坪谷。祖父健海は蘭医と漢法医を兼ねた医師で、父立蔵もまた医師であった。

牧水も16、7歳の頃から国語漢文等に興味が傾き、「中学文壇」「秀才文壇」「中学世界」「新声」「文庫」などの投書雑誌に短歌、俳句を投書し、中学4年から卒業するまで友人と短歌専門の廻覧雑誌「野虹」を発行していた。

明治37年4月、延岡中学校を卒業して上京、早稲田大学に入学した。

牧水の関心は、その時期から短歌に集中していて、雑誌「新声」の短歌欄には毎号何首ずつかが選ばれていた。

しかし、この当時、雑誌「新声」は危機に瀕していた。「新声」は、佐藤儀助が明治29年7月に第1号を出し、明治32年1月からは大判に改め、その年4月創刊の「明星」と争いながら若い読者投書家を集め発展した。しかし「明星」には、与謝野寛とその妻になった晶子という、経営者にして詩人という柱があったが、「新声」にはそれがなかった。詩人では蒲原有明が比較的この雑誌に縁が深く詩欄の選者をし、歌人では、柴舟屋上八郎が選者をしていた。この二人はともに明治9年生れで、与謝野寛と同様落合直文門下であったが、与謝野のような強い性格や指導力はなかった

牧水が上京して早稲田大学に入った明治37年春、佐藤は雑誌「新声」を譲り渡し、新声社を解散した。そして彼は改めて規模を縮小した新潮社を起し、雑誌「新潮」をその年5月から創刊した。

佐藤から「新声」を買い取ったのは、北星草村松雄という小説家である。草村北星は「文芸界」を出していた金港堂書店に勤務しなから「明星」などに小説を書き、明治35年12月に金港堂から「浜子」という長篇小説を出版した。これは一種の家庭小説で、家庭小説は、明治33年出版の幽芳菊池清の「己が罪」が当時には類のないベストセラーとなって以来、流行の通俗小説の形式であった。「浜子」もまたその類の作品として、好評を得、版を重ねた。草村は作品を書くかたわら、明治37年に隆文館という出版社を創立して出版を始めた。そして、買い取った「新声」を、翌38年2月から刊行しはじめた。

▲柴舟尾上八郎

明治37年4月、牧水は上京して麹町3番町の下宿に落ちつき、早稲田大学に通い、5月22日、尾上柴舟を本郷西片町の家に訪ねた。

その頃、新しく出版された「新潮」の歌欄の選者は金子薫園(くんえん)であった。

尾上八郎はこの時、数え年29歳。岡山県津山町の出身で、父北郷直衛は旧津山藩の武士。尾上は少年時代から歌作に興味を持っていた。15歳で上京、東京英語学校に学んだが転じて府立尋常中学に入り、17歳の時、同藩の尾上勁の養子になった。彼は、第一高等学校に入ったが、その間に大口鯛二、佐佐木信綱、落合直文などの歌風の影響を受け、一高に入ると、落合直文が教授をしていたので、その門に出入することになった。

尾上八郎は落合直文の浅香社で、与謝野寛、服部躬治、金子薫園等と知り合いになったが、金子が彼と尋常中学の同級生であったことを知り、その後は親しく交わるようになった。

尾上八郎は一高から東京帝国大学国文科に入り、同学の久保猪之吉、服部躬治、菊池駒次等と短歌会「いかづち会」を作った。明治34年、大学卒業後は大学院に入り、在学中から訳していたハイネの詩を集めて訳詩集「ハイネの詩」を出した。この訳詩集は平明な七五調にハイネの抒情詩を生かしたもので、長い期間にわたり多くの愛読者を得た。その結果、ハイネとは尾上柴舟の訳したような甘美な詩ばかり書くセンチメンタルな詩人であるという通念が、長く日本の詩壇に残ることになった。尾上柴舟は教師として生活し、はじめ井上円了の経営する哲学館に、明治35年から女子高等師範学校、早稲田大学などの講師になった。

牧水は、尾上柴舟の歌が、静かな韻律を持ち、新味があり、その調子の澄んでいるのか好きであった。彼の取った早稲田大学の規則書には講師尾上八郎と出ていたので、その講義を聞くのを楽しみにしていたが、尾上柴舟が教えていたのは高等師範部の国語科であり、牧水は講義を聞く機会がなかった。牧水自身も、もし本科に国文科があったら入学したであろうが、この当時の早稲田大学の学科には、英文科と哲学科しかなく、彼はその英文科を選んだ。牧水が訪ねて行ったとき、柴舟は20歳の牧水を迎え、快く逢い、学問や創作上の話をして力づけた。

▲早稲田大学と白秋・牧水

北原白秋と若山牧水は、投書家時代に互いに名前を知っていたので、6月頃早稲田大学の教室で、互いに相手をそれと知り、親しくなった。牧水は脚気を煩って、葉山一色海岸に転地したが、8月には東京に戻り、白秋と親交を重ね、9月中旬には牛込の穴八幡下の清致館という下宿に同宿するようになった。この時期、白秋は射水という号を使い、外に中林蘇水(しすい)という文学学生もいたので、牧水を含めて早稲田の三水と言われた。

明治38年9月、文学科予科の学生のために、坪内逍遥特別講話というのを毎週2時間ずつ行った。坪内は初めの数回、文学についての一般的概念を説明し、続いて文明の推移と、西欧思想の発展を説き、更に近代文学の趨勢を理解させようとして、イプセンの「ブランド」の解説をした。このとき坪内逍遥は数え年46歳、背が低く、半白の薄い髪の毛を無造作に短かく刈った坪内は、和服を着て、緑なしの眼鏡の下に神経質らしい目を光らせながら話をした。話し始めには、口を不器用に動かしていたが、話に調子が出ると、さまざまな比喩や引例を次々と並べて、一つの話題に2時間では時間が足りないほどの熱の入れ方であった。

坪内は近年の持論である倫理教育と背馳しない強力な文学作品の例として、この「ブランド」を選んだ。当時イプセンの訳は高安月郊(げつこう)のものがあるだけで、一般の文壇人には知られていなかったから、学生たちには新鮮な印象を与えた。「ブランド」の筋は、若い牧師ブランドが、深い雪の危険な山道を越えて、その目的を達するために、多くの友と別れ、知人への愛情を拒み、母親への顧慮を棄てて、ただ絶対の理想を追って進む話。アグネスという愛人を得て子供が生れるが、ブランドはその子のためにも節操を曲げることを拒む。妻はそのために死ぬ。しかもなお彼は自分の執着を棄てず、「一切か無か」を合言葉として神とのみ一致する生活に入る。

この作品についての坪内の解説は、深刻な感銘を牧水に与えた。一切か無か、という言葉は、それ以後牧水が何か事を企てる毎に彼の口から出るようになった

またこの時期に安部磯雄が受け持っていた「実践倫理」は、講義内容がきちんと組織づけられ、実例が豊かで、学生に喜ばれた。彼は少しも興奮することなく静かな声で5、600人も集る大講堂で話し、彼の講義が終ると満堂の学生は一斉に拍手するのか常であった。

明治37年に入学した白秋、牧水、蘇水等の級には土岐善麿らもいた。


▲22歳にして第一線の詩人白秋

彼らは、明治38年9月には本科1年に進学、英文科・哲学科が各100名くらいだった。白秋は中学校を卒業していないので、本科入学資格を得るために神田辺の中学校にも席を置いていたが、それよりも彼の「明星」での活躍が目立ち、新詩社同人として仕事が急がしくなり、学校には顔を出さなくなっていた。

牧水は、白秋と連れ立って千駄ヶ谷村字大通549番地の新詩社を訪ねて与謝野晶子に逢ったり、また「文庫」の詩の選者河井酔茗を訪ねたりし、次第に詩壇・歌壇の仲間に入って行った。

翌明治39年、彼は級友の土岐善麿、安成貞雄、仲田勝之助たちが小説の創作を目的として作った北斗会に加わって、小説の研究も始め、回覧雑誌「北斗」を作った

明治39年に新詩社同人になった白秋は、そこで吉井勇、東大医科大学生の太田正雄、工科大学生の平野万里、文科の学生茅野蕭々(しようしよう)等と知り合った。彼の作品は、当時の最も有力な先輩詩人である上田敏、蒲原有明、薄田泣菫等に称讃され、彼は数え年22歳で第一線の詩人であった。しかもなお彼は有明や泣菫の影響下にあり、その点では前年明治38年に上京して、友人に金銭上の迷惑をかけながら詩集「あこがれ」を刊行し、また郷里岩手に帰った啄木と似ていた

この年明治39年春、白秋は、再び牧水と同じ下宿にいたが、牧水は帰省し、白秋は与謝野寛、吉井勇、茅野蕭々等と関西旅行に出かけた。一行は、伊勢、紀伊、奈良、京都を歴遊して東京に帰った。(日本文壇史)


つづく

同世代・同地域人として見た高市早苗 バブル・共通一次・テレビ政治時代の落とし子 パワープロジェクションが大好物 しかし一生を貫くような哲学や価値観はない(烏賀陽弘道) / サッチャー、安倍元首相だけではない…高市早苗氏が「虎の威を借る」ように20代から使った謎の肩書きの正体(プレジデント); 初の著書の表紙は「米国連邦議会立法調査官」、中身は「特別研究員」

 



 

2025年11月1日土曜日

ビリー・アイリッシュ、超富裕層へ「お金を出して!」と直球提言。 先日開催された「WSJ. Innovator Awards」で、Music Innovator Awardを受賞したビリー・アイリッシュのスピーチが世界中で話題になっている。「もしあなたが億万長者なら、なぜ億万長者のままなのか? ヘイトではないけれど、そう、あなたたちのお金を出しなよ、ショーターズ (shorties)。」 この発言に説得力を与えているのが、直前に紹介された彼女の行動で、食の公平性、気候正義、二酸化炭素排出削減など、環境関連プロジェクトに「Hit Me Hard and Soft」ツアーの収益から約18億円(1150万ドル)を寄付している。 会場にはFacebook創業者 マーク・ザッカーバーグらがいた。

大杉栄とその時代年表(665) 1906(明治39)年5月6日~30日 韓国総監伊藤博文主唱(山縣、西園寺などの元老閣僚会議)「満州問題に関する協議会」、開催。首相官邸。児玉参謀総長ら武断派抑え、軍政廃止決定。 同日、閣議決定(関東総督機関を平時組織に改める、軍政署を順次廃止)。 9月1日、関東総督府廃止。関東都督制となる(都督は大島総督が引続き任命)

 

大韓帝国皇太子李垠と伊藤博文

大杉栄とその時代年表(664) 1906(明治39)年5月1日~5日 「仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」(田山花袋「不如帰物語」) より続く

1906(明治39)年

5月6日

日本の関東総督府、遼陽から旅順に移転。

5月6日

(漱石)

「五月六日(日)、晴。正午近く(推定)、中川芳太郎・森巻吉と共に「宝亭」に行き、九段を通っている頃、自宅近くに火災が起き、大騒ぎになる。

五月七日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。


午後一時、本都区根津監染町(現・文京区根津二丁目)の栄座あら出火し、午後二時鎮火する。全焼百十二戸、半焼二十戸。死傷者はない。」(荒正人、前掲書)

5月6日

(露暦4/23)ロシア、モスクワ総督デュパーソフ提督、暗殺未遂。

5月6日

ロシア、ゴレムイキン露首相、10月詔書を修正し、国家基本法(憲法)を発布。皇帝を専制君主として再規定する。

5月7日

薄田泣董、「白羊宮」発表。

5月8日

韓国の老儒学者・崔益鉉、全羅北道で抗日の蜂起。6月に淳昌で捕らわれる。以後、抗日の義兵相次ぐ。

5月8日

保定軍校開設

5月8日

イタリアのトリノでゼネスト(−9月)。

5月9日

北一輝、私家版「国体論及び純正社会主義」刊行(新潟)。6月に発禁処分。

5月9日

英・ベルギー国王レオポルド2世、協定締結(ロンドン)。英はコンゴにおけるレオポルド2世の主権を認め、レオポルド2世はナイル上流の請求権放棄。

5月10日

(露暦4月27日~7月8日)普通選挙による第1回ドゥーマ開会

カデット(立憲民主党)が最大多数153人。皇帝は専制権力を保持。

7月8日、国会(ドゥーマ)は、急進派の諸政党にボイコットされ解散。

7月18日、代議員は多数の逃亡者がフィンランドに向かう前に、市民的不服従を呼びかける宣言を出す。


5月11日

日米著作権保護条約公布。

5月14日

(漱石)

「五月十四日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)


5月15日

堺利彦「社会主義研究」第3号発行。

サン・シモン、フーリエ、ルイ・プラン、ブルードン、ロバート・オーエン、ラサール、マルクスを、カーカップの『社会主義史』によりつつ訳出している。

5月16日

麹町六丁目猟奇事件犯人野口男三郎、小西薬店主殺害により死刑判決。臀肉事件・義兄殺害については証拠不十分で無罪。

5月17日

日米追加犯罪人引渡条約調印。9月26日 公布。

5月17日

徳富蘆花、紅海を北上してこの日、船は45日の航海を終えてポートサイドに到着。

備後丸は西ヨーロッパに行くので、パレスチナからロシアに入ろうとする蘆花はそこで下船。そしてナイル川沿いに汽車でカイロに行き、ピラミッドや博物館を見た。

蘆花は日本から英文の手紙をトルストイに出しておいたが、ここからもう一度手紙を出した。

5月22日、ポートサイドから、オーストリアの汽船でパレスチナに向かい、翌朝パレスチナ西海岸のジャツファに到着。そこから汽車で4時間かかってエルサレムに着いた。

そして、エルサレムの城壁の下を過ぎ、その城の西北郊外のロシア人居留地に近いホテル・ローレルに泊った。

そこから、他の客と同行して馬車でエリコに行き、死海を訪れ、ヨルダン川へ行って見た。

また別な日には、ペツレヘム、ゲッセマネの園、橄欖山、ゴルゴタの丘などを見に行った。

5月17日

漱石『漾虚集(ようきょしゅう)』(短篇集)刊行。大倉書店・服部書店刊

倫敦搭・カーライル博物館・幻影の盾・琴のそら音・一夜・薤露行などを収録。

橋口五葉装幀・中村不折挿画(中扉は橋口五葉)(序3ページ。本文302ページ)

印税は、初版1千部1割2分、1,500部以上1割5分(森田草平)

5月19日

韓国、前参判閔宗植、公州鎮衛隊を破り、洪州城占領。31日、陥落。11月、逮捕。

5月19日

林董、外務大臣就任。

5月19日

(漱石)

「五月十九日 (土)、胃の鈍痛治る。

五月二十日(日)頃、森田草平に『漾虚集』を贈呈する。見返しに署名する。(森田草平は、著書を貰うのはこの時が初めてである。署名も西洋の週刊としては聞いていたが、この時初めて知る。)

五月二十一日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)

5月19日

独帝国議会、艦隊法修正案可決。

5月19日

スイス~イタリア間のシンプロン鉄道トンネル開通。長さ20キロメートル。世界最長。

5月19日

ポルトガルで、国王カルロス1世がジョアン・フランコ首相を任命し、独裁権を与える。

5月20日

鉄道5,000マイル祝賀会開催(名古屋市)。

5月20日

仏下院国民議会選挙。ジョルジュ・クレマンソー率いる急進社会党など与党連合が勝利。

5月21日

韓国、~27日、日本憲兵・警察隊、公州鎮衛を攻撃。洪州城おちず。

5月21日

ウラジオストクに貿易事務館開館。

5月22日

韓国総監伊藤博文主唱(山縣、西園寺などの元老閣僚会議)「満州問題に関する協議会」、開催。首相官邸。児玉参謀総長ら武断派抑え、軍政廃止決定。

同日、閣議決定(関東総督機関を平時組織に改める、軍政署を順次廃止)。

9月1日、関東総督府廃止。関東都督制となる(都督は大島総督が引続き任命)。

出席者。伊藤、西園寺、元老山県有朋・松方正義・井上馨、大山巌元帥、閣僚の寺内正毅陸相・斎藤実海相・阪谷芳郎蔵相・林董外相、前首相桂太郎大将、児玉源太郎参謀総長、海軍長老山本権兵衛(前海相)ら13名。桂は、伊藤と共に、西園寺内閣後見人を自負しているからでもある。山本前海相は西園寺首相の意向で決まる(斎藤実宛西園寺公望書状、5月20日)。原敬内務大臣は招かれていない。

3月、満州の軍政存続に反対して外相加藤高明が辞任(西園寺が兼任、満州を視察)。

伊藤博文はマクドナルド駐日英大使・袁世凱らの苦情もあり、軍政撤廃を勧告するため凱旋大観兵式参列を口実に上京。協議会席上で伊藤は、満州政策に対する英米側の不信、清国側の不満、排日運動激化を警告。「満州は決してわが国の属地ではない。純然たる清国領土の一部なのである。

その後、関東総督を廃してできた関東都督と、満州経営の中心として新たに作られた半官半民の南満州鉄道株式会社と、新たに開設された奉天の日本総領事館(外務省)との間で、常に三者の権限争いが続く。

5月22日

大阪市、電燈事業の市営を決定。7月1日、大阪電燈(株)との報奨金契約成立。

5月23日

ノルウェー、劇作家イプセン(78)、没。

5月23日

徳富蘆花(健次郎)、エルサレム着。

5月26日

万国郵便条約調印。1907.9.19 公布。1907.10.1 実施。

5月26日

(漱石)

「五月二十六日(土)、東京帝国大学文科大学英文学科の学生の論文十九編を読了する。中川芳太郎のものに最も感心する。

五月二十八日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「十八世紀英文学」を講義する。」(荒正人、前掲書)


5月27日

張之洞、香港政府と粤漢鉄道回収借款締結。

5月27日

マーラー「交響曲第6番」、作曲者自身の指揮で初演。

5月28日

北海道夕張炭坑爆発。

5月29日

菅野須賀子姉妹、田辺を去り京都に向かう。

5月29日

イタリアで第3次ジョリッティ内閣成立。

5月30日

韓国、洪州城攻防戦。漢城より急派の田中新助少佐指揮日本軍により洪州城陥落。

5月30日

独・スウェーデン通商条約締結。

5月下旬

「光」、社会党ラッパ節募り掲載。のち、添田唖蝉坊が堺利彦より許可を貰い、歌って世間に広める。


つづく


ニューヨーク、パリ、ロンドンのハロウィーン / NYCビレッジ・パレードの「スリラー」ダンス

2027年までの5年間で、なぜ43兆円が必要なのか。防衛費増額の内訳資料を情報公開請求したところ、防衛省は全文を「不開示」に。8月26日の朝刊1面トップで報じましたが、高市首相は増額を2年前倒しして今年度に達成すると明言。積算根拠や財源は誰が負担するのかが不明な「43兆円ありき」の疑念は増すばかり。情報公開が不可欠です / 防衛財源「できることは何でも」 赤字国債、否定せず◆片山財務相(時事) / 高市政権が原潜保有の道に踏み込んできた 連立相手がブレーキからイケイケに変わって「一気にやりやすく」(東京) / 寺島実郎さん ⇒国を守るということは、防衛費を引き上げれば良いんだというものではない。「アメリカとの同盟をさらなる高みに」とするが、アメリカの戦争に自動的に巻き込まれる日本にしてはまずい。 / 高橋純子さん⇒「憲法九条改正」と軽々しく言うが、憲法九条は単に戦力不保持とか戦争放棄をうたっているだけではなくて軍事セクターを抑止することによって主権者国民の自由を担保する意味がある。それを変えるということがどれだけの意味をもたらすのか勉強していただきたい。 / 元村有希子さん ⇒防衛費をかさ増しして武装することが強い国なのか、それとも守るに値する世界で唯一の国になることなのかをはき違えていないか。戦争ができる国は、90年前の日本が歩んできた道。日本の民主主義とか平和をオモチャにしないで欲しい。   



 

末期がんのバイデンについてトランプ、10月30日深夜にTruthに投稿 「あいつは犯罪者だから刑務所に入るべき。最低の人間で、失敗作だ。内面も外見も醜い! 私はあいつに選挙で圧勝した。今、あいつが苦しんでいるのを見るのは最高だ」