2025年10月31日金曜日

大杉栄とその時代年表(664) 1906(明治39)年5月1日~5日 「仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」(田山花袋「不如帰物語」)

 

田山花袋

大杉栄とその時代年表(663) 1906(明治39)年4月18日~30日 桜井忠温;松山中学校、陸軍士官学校(13期)、日露戦争出征。歩兵第22連隊小隊長として第1回旅順総攻撃で負傷(死体と間違われ火葬場寸前で息を吹きかえす)。病院で「肉弾」執筆(題字乃木希典)。一大ベストセラーになり英米仏独伊等15ヶ国で翻訳・出版。天皇の特別拝謁栄誉をうける。独皇帝ウィルヘルム2世は、これを将兵必読の書として奨励。米ルーズベルト大統領は桜井宛に賞賛の書簡を寄せる。 より続く

1906(明治39)年

5月

北原白秋、新詩社に加わる。

5月

島村抱月他「「破戒」を評す」(「早稲田文学」)

5月

(漱石)

「五月頃(日不詳)から、中川芳太郎に依頼し、『文翠論』の草稿繋理をする。(明治四十年三月下旬(日不詳)までに半分以上書き直す。)

五月、食後に胃が痛み、服薬始める。慢性胃カタルとのことで、服薬しながら卒業論文を読む。但し、五月末にも二稲類を服薬する。眼も悪くなる。」(荒正人、前掲書)


5月

田山花袋(36歳)「不如帰物語」(「文章世界」)。蘆花論。花袋は「文章世界」の編集長。

「凡そ明治の著作物中矢野文雄の『経国美談』、柴史朗の『佳人之奇遇』は古い事。近事は最も洛陽の紙価を高かちしめたのは徳富蘆花子の小説『不如帰』を措て他には無いだらう。此書一度現れて、蘆花子の名は九鼎大呂よりも重きを加へられた。仏蘭西の大抵の家庭には、ユーゴーの傑作ル・ミゼラブルが飾られてあると云ふが、日本でも多少文学趣味のある家庭で、彼の仮綴の粗末な、黄味かかつた表紙の『不如帰』を見ない所はあるまい。耳(のみ)ならず、寄宿舎の女学生の机辺にも置かれゝば、避暑の青年の伴侶ともなり、而して読まれる度に、川島武男と浪子との薄命は、感情的な男女の断腸の涙を留途も無く誘出すので…果は劇に仕組まれ、新体詩に歌はれ、俗謡に囃され、数ケ国の外国語に迄訳された有様で、其勢力たるや素晴らしいものだ。」

続いて、そのモデルである大山大将の家庭や、三島通庸の息子の弥太郎などのことを述べ、この作品の発行部数が何十万にものぼり、その英訳は学生用として日本だけでも1万部売れたこと、詩人溝口白羊が「家庭新体詩不如帰の歌」というものを出版したこと等を述べた。

またこの作品を主題にしたラッパ節まであるとして、

「病ひにやつれし浪子嬢。夫武男に生き別れ、ふたたび逢はれぬ汽車の窓、一声血に啼くほととぎす、トコトットツト

片手に花持ち腰に剣、ポツケットに浪子の書置を、川島武男の墓詣り、墓前に開いて眼に涙、トコトットツト。」

というのを紹介した。

またその劇化としては明治36年5月本郷座で川上音二郎が上演したもの、昨38年に高田実、河合武雄等が上演したもの等を挙げた。また逗子の浪子不動堂と伊香保温泉がそのために有名になったことを論じ、最後に蘆花の外遊をゴシップめいた筆致で報じた。

蘆花の嫉妬深い性質、その熱狂癖等はしばしば文壇人の噂にのぼっていた。また時々突拍子もないことを始める男で、兄と喧嘩したり、山に籠ったかと思うと、トルストイに逢うために外遊するなどというのも噂のまとになった。

しかし文壇人は、彼のことを笑い話にしながらも、彼が一種の天才的な存在であり、その生活が真剣なものであることには敬意と畏れとを抱いていた。

5月

鈴木三重吉『千鳥』(『ホトトギス』)。漱石が推薦。

5月

大石誠之助「大言小説」(「はまゆふ」掲載);

箇人の人格を高めて、汚れたる現世を清めんとするは、恰も大風の日に市中の塵を静めんとて、戸毎に水を撒けよと言ふが如し。これ余がトルストイズムに全然一致し能はざる理由なり。

5月

米議会、シャーマン法可決。ロックフェラー石油トラストの拡大禁止。

5月

独、戦艦のトン数増大及び大型戦艦通過のためのキール運河拡張を趣旨とする海軍法案可決。英独の海軍増強競争に拍車。

5月1日

日本、安東に領事館設置。

5月1日

韓国統監府の保安規則(4月17日制定)、施行。

5月1日

阪神電鉄の乗務員ら120人、賞与金支給の公平・労働時間の短縮を要求し、ストライキ。

5月1日

新宿御苑開苑式

5月1日

仏、メーデー・ゼネスト。戒厳令下、労働者大デモ行進。3,000人逮捕。

5月1日

イギリスの南ナイジェリア植民地保護領設立。

5月2日

医師法・歯科医師法公布。10月1日、施行。

5月2日

幸徳秋水等の本拠たる桑港の平民社支部は、一応難を免れたものの、全市が焼けたのち、知人たちは他の地へ去り、生活の不自由は終らないので、彼は桑港湾の対岸にあるオークランド市の同志に誘われるまま、5月2日そこへ移った。

しかし、オークランドには難民が溢れ、物価は騰貴し、住宅は払底し、生活が難かしくなった。

同志の竹内鉄五郎が自分の室を幸徳に与え、竹内自身は屋根裏に寝ているような生活であったので、幸徳も居心地がよくなかった。幸徳はそこで雑誌「革命」を出しはじめ、在米の同志に働きかけた。彼はそこから更にバークレイ市に移った。

「革命」の発行を続けていたものの、資金が枯渇して休刊のやむなきに至った。彼はバークレイ市の日本人下宿の地下室に住んでいたが、そこには苦学生を主とする若い同志が集まって、革命党の本拠のような形になった。赤ペンキで塗られたその下宿は「レッド・ハウス」と呼ばれて、一般市民から目の敵にされた。それに日本領事館の圧迫が加わった。

日本からの通信で、国内運動も強い弾圧を受け、堺利彦、西川光二郎等がこの6月に投獄されたことが分った。幸徳は急いで帰国した。

5月3日

英、1517年以来シナイ半島を支配してきたトルコに対し撤退を求める最終勧告。トルコは要求を受入れシナイ半島はエジプト領に。

5月5日

漱石のこの日付け森田草平宛書簡、

「猫の御批評難有頂戴。もう一回でやめる積で居ますが。忙がしくて書けないから閉口だ。所謂写実の極致といふ奴をのべつに御覧に入れてアツと驚ろかせる積丈は成算が出来て居る。然し実際驚ろかすのはいつの事か分〔ら〕ない。」                       (『漱石全集』22巻)

『猫』が写実小説であることに自信をもっている。

5月5日

ロシア皇帝ニコライ2世、セルゲイ・ウィッテ首相を罷免する。後任にイワン・ゴレムイキン伯

5月5日

ブラジルとオランダ領ギアナの国境成立。


つづく

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