2012年8月29日水曜日

正暦5年(994) 道隆一家(中関白家)の絶頂期 道長と伊周の対立の始まり

東京 北の丸公園 2012-08-24
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正暦5年(994)
2月
「関白殿、二月廿一日に」(『枕草子』二五九段)で、この月、道隆が建てた法興院の積善寺で行なった一切供養において(一門の繁栄を示す至福の時であった)、道隆がやってきて定子の前に坐り、居並ぶ女房たちを相手に冗談を言って笑わせている印象的な場面を伝える。

定子に仕えた女房清少納言の記した「枕草子」はこの時期のエピソードが多く伝えられている。
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3月
・藤原妍子(道長二女)、誕生。
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3月
盗賊を捕縛するために、「武勇の人」として、源満正、平維時(維将)、源頼親・頼信が山々に派遣される(『日本紀略』『本朝世紀』)
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6月
・前年秋、疱瘡が多少の流行を見せ、一条天皇も罹病。
この年春から九州に新たに流行し始め、たちまち全国に拡がって猛威をふるった。
特に夏には京都に病者・死者が溢れ、五位以上だけで70人が死亡したといわれる。

検非違使は宣旨を受けて病人を路頭に設けた仮小屋に収容し、あるいは薬王寺に運び、さらに川に投げこまれた死体をかき流して水の流れをよくするなどの作業に従事した。
朝廷では例によって諸社に奉幣し、仁王会を修し、大赦を令し、海若祭・名山祭などの陰陽道の祭もおこなったが、それ以上はなんとも手の打ちようがない。

左京三条油小路の西に小さな井戸があり、その水は泥深く濁っていて使用にたえるようなものでなかったのが、だれいうとなく、この水を飲めば疫病をまぬがれるといううわさが立って、京中の男女貴賤こぞって、桶やたらいをかついで押しよせた。

疫病は、疫神によってもたらされると、当時の人々は信じていた。
6月16日、今日は疫病神が通るぞというデマが飛び、疫神は、人間と同じように平安京の道々を往来するため、「公卿以下庶民に至るまで門戸を閉ざして往還せず」(『日本紀略』正暦5年6月条)というように、忌み寵もる生活を送っていた。

6月27日には北野の船岡山で疫病神のお祭がおこなわれた。
木工寮と修理職が神輿2基を作って安置し、僧が仁王経を講じ、音楽が奏せられ、数千の男女が集まって幣帛をささげた。こうして疫病神を神輿に乗せ、難波の海にかついでいって流そうというのである。
これが紫野の今宮神社の起こりであるが、この祭礼は朝延の計画したものではなく、まったく民間から自然に唱えだされたお祭りで、木工寮や修理職はそれに加勢した。
この年の疫病も秋になってからは少し静まった。
しかし、翌年春から、また流行し始めた。
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8月28日
藤原道兼(道隆弟)が右大臣、伊周(道隆次男、21歳)が内大臣となる。

道隆一家(中関白家)の絶頂期
道隆の次男伊周は、正暦2年に正四位下参議、ついで従三位権中納言に進み、翌年には正三位権大納言に昇り、正暦5年(94)には内大臣となり、前代未聞のわずか21歳の大臣が生まれた。
この時、先任の権大納言道長を抜くことになり、以後の道長と伊周の対立の始まりとなった。
伊周の兄道頼は、兼家の六男とされ、正暦元年に20歳で正四位下参議に任ぜられ、正暦5年には伊周のあとに権大納言となり、弟隆家は同年に三位中将、翌年の父道隆の死去直前にわずか17歳で権中納言となった。
また道隆の義父、中宮定子の外祖父高階成忠は従二位に昇り、真人(まひと)の姓も朝臣(あそん)に改められた。
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