2012年8月22日水曜日

永延2年(988) 関白藤原兼家六十賀 大盗藤原保輔の最期

京都 下鴨神社糺の森 2012-08-15
*
永延2年(988)
1月19日
・藤原道長、権中納言に転任。
*
3月26日
関白藤原兼家六十賀
歌人大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の歌集『能宣集』に、兼家六〇の賀に新調した屏風に書き入れた和歌が残されている。
屏風は2ヶ月毎に分けられた6帖からなり、吉野山など名所の絵が書き込まれ、旅の様子も含まれている。絵は現存しないが、歌から画題やルートを推測できる。一部に地名の前後は見られるが、当時の常識を詠んだと考えられ、一般的な旅のルートを示すものと見なすことができる。

打出浜(うちではま、滋賀県大津市)--鏡山(同竜王町)(以上、近江国)--志賀須賀渡(しかすがのわたり、愛知県宝阪郡)(参河国)--小余綾磯(こゆるぎのいそ、神奈川県大磯町)(相模国)--武蔵野(武蔵国)--二荒山(ふたらさん、栃木県日光市)(下野国)--真籬島(まかきじま、宮城県塩竃市)--安積沼(あさかのぬま、福島県郡山市)--末の松山(宮城県多賀城市)(以上、陸奥国)
ルートは、いわゆる東海道や東山道ではない。美濃国から尾張国、武蔵国から下野国というコースはその両方を用いたことを示している。
当時、一般に伊勢国と信濃国は避ける傾向にあった。規定どおりの東海道では、伊勢国から尾張国へ行くことになるが、ここには伊勢湾に流れ込む木曽川・揖斐川・長良川の河口があり、渡河に危険がともなったからである。
永延2年に作成された『尾張国郡司百姓等解文』第19条には、伊勢国榎撫駅と接する尾張国馬津駅について、「馬津の渡、これ海道第一の難処にして、官便上下の留連する処なり」と記され、難所中の難所であったことが窺える。

一方、規定どおりの東山道では、美濃国から信濃国を通り上野国へ達することになっていたが、信濃国には、信濃守藤原陳忠(のぶただ)が谷底に落ちたことでも有名な神坂峠があり(『今昔物語集』)、天下の険として知られていた。
したがって、難所を避けるためには遠回りにはなるが、都から近江国を経て美濃国に達し、そこから南下して尾張国、そして海沿い(東海道沿い)を行き、再び相模国から武蔵国を北上して東山道の上野・下野国を経て、陸奥・出羽国に達するというルートが好まれた。
平安時代の文学に、しばしば武蔵野が登場する理由はここにあった。
*
閏5月8日
・この日、前越前守藤原景斉(かげなり)・織部令史(おりべのさかん)茜是茂(あかねのこれしげ)らの家が強盗に襲われた。
これが藤原保輔の仕業であることが直ちに保輔郎党の言によって発覚し、証拠品の盗品も発見されたと伝えられた。
更に、検非違使源忠良を射たのも彼だし、近日中に忠良の姻戚の右兵衛尉平維時を殺そうと計画中だったという。忠良は3年前に兄斉明の追捕に向かった検非違使であるが、保輔はその一家を襲って報復しようとしたと思われる。
保輔の居所は分らぬままに1月余を経過し、6月半ば近くになって、保輔は従二位中納言藤原顕光邸に潜伏しているとの情報が入った。
そこで、検非違使や滝口の武者たちが邸を包囲して厳重に捜索したが発見できず、内裏でも警戒を厳にし、保輔追捕の者には恩賞を与えると発表された。
一方、かれの父右馬権頭致忠は目をつけられ、三条の家から検非違使に連行されて左衛門射場(いば)に監禁された。射場は弓道場で、当時よく監禁に利用された。

保輔は一旦は逃れたものの、事態の切迫を感じ、6月14日の暁、北花園寺で剃髪出家した。
検非違使は報を得て急行したが、保輔の姿はなく、彼の残した頭髪・衣裳と、剃髪を行なった僧侶を手に入れたのみであった。
その後暫くして保輔は、彼の旧僕で左近衛の足羽忠信という者に密かに連絡しに来たところを、忠信の計略にかかって捕えられたるという。
忠信はその功により、やがて左馬寮医師に昇任した。

保輔は獄に下されたが、6月17日、獄中に没した。
『続古事談』では、彼は逮捕に際し、いまは最期と覚悟して腹を切り、腸を引き出し、その疵によって翌日獄中に没したという。これが強盗の首(かしら)といわれ、系図にも、
「強盗の張本、本朝第一の武略、追討の宣旨を蒙ること十五度」
と記された大盗の最期であった。
*
6月
・この月、源信が「横川首楞厳院(よかわしゆりようごんいん)二十五三昧起請」という規約を記す。
おそらくこの年、源信は、博多に到った宋商らに託して、『往生要集』を宋に送り、天台山国清寺に納められた。
源信はその後も中国仏教界と学問交流を続け、自著を送り、批判を求めている。また杭州の天台僧源清の書物に対して批判を加えて返書したこともある。
*
9月
・この月、兼家が二条邸を新造した際、春宮大進源頼光は賓客のために30頭もの馬を献上。武力よりも財力で奉仕するという彼の姿勢が現れている。
*
10月
道長の長女彰子、正室倫子との間に誕生。
*
*

0 件のコメント: