2013年6月11日火曜日

明治36年(1903)12月1日~17日 「日本国民が非常に興奮しており、対露交渉の遅々たる有様に不満であることは、疑う余地のない事実だ。」(ベルツの日記)

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-11
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明治36年(1903)
12月
・大杉栄(18)、平民社を訪問。
「しかしこの旗上げ(注・平民社創設)には、どうしても一兵卒として参加したいと思った。幸徳の『社会主義神髄』はもう十分に僕の頭を熟しさせていた。雪のふる或る寒い晩、僕は始めて数寄屋橋の平民社を訪ねた。毎週、社で開かれていた社会主義研究会の例会の日だった。

・・・(平民社例会の部庭に入ると、まだ開会前で、年とった者と若い者が宗教問題で議論)・・・年とった方はあぐらかいて、片肱を膝に立てて頭をなでながら、しきりに相手の青年をひやかしながら、無神論らしい口吻をもらしていた。青年の方はきちんと坐って、両手を膝において肩を怒らしながら、其赤になって途方もないようなオーソドックスの議論に、文字通り泡を飛ばしていた。-僕はその青年のロについて出る雄弁には驚いたが、しかしまた、その議論のあまりオーソドックスさにも驚いた。僕も彼とは同じクリスチャンだった。が、僕は全然奇蹟を信じないのに反して、彼は殆どそれをバイブルの文句通りに信じていた。僕は神は自分の中にあるものと信じていたのに反して、彼は万物の上にあってそれを支配するものと信じていた。僕はこんな男がどうして社会主義に来たんだろうとさえ思った。そして無神論者らしい年とった男の冷笑の方にむしろ同感した。この年とった男というのは久津見蕨村で、青年というのは山口孤剣だった。」(「自叙伝-母の追憶」)。
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・南アフリカ・トランスヴァール政府、鉱山業界の圧力により中国人苦力の鉱山での使用認める。中国人苦力5万人が送り込まれる。苦力の統制がとれないため苦力強制送還の主張高まる。1907年に本国送還。
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12月1日
・啄木(17)、「愁調」5編(『明星』)。石川啄木の筆名で掲載(筆名「啄木」の使用開始)。注目を集める。
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12月3日
・政友会松田正久・原敬、憲政本党犬養毅・大石正巳と会合、行財政整理・外交問題について両党提携を約束。
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12月3日
・「基督教世界」、11月28日開催の「(遊郭移転論)婦人矯風会大演説会」の記事。司会菅野須賀子。
12月10日の「基督教世界」第1059号には「大阪婦人矯風会」年次総会の記事。会長林歌子、文書課菅野須賀子。
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12月4日
・ロシア、仁川に軍艦を集結。
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12月4日
・清朝、練兵処を設置、袁世凱を会弁練兵大臣に充てる
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12月4日
・外務次官に珍田捨己任命。
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12月5日
・山口県の福岡・広島両県への統廃合に反対して、県民有志が山口県反廃県同盟結成。
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12月5日
・アルバート・アインシュタイン、「電磁波理論」の論文をベルンの自然科学教会で発表。
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12月8日
・川上音二郎(39)・貞奴(31)、横浜・喜楽座で公演。お伽芝居「桃太郎」「瘤取り」を上演。
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12月8日
・嵐寛寿郎、誕生。
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12月8日
・ラングレー博士、ポトマック川飛行実験失敗。
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12月10日
・第19議会開会、翌日解散。
「勅語奉答文問題」。
尾崎行雄・秋山定輔・小川平吉・大竹貫一らが衆議院議長河野広中と謀り、儀礼的な開院式勅語奉答文に桂内閣の対露軟弱外交弾劾字句を密かに入れる。
河野が読上げ、小川の拍手につられて議場に大拍手が起こる(奉答文可決)。
これは、内閣不信任に等しく、桂首相は緊急閣議を開催、参内して議会解散の允可を受ける。
実は、戦争に備える政治工作。

衆議院議長河野広中の勅語奉答文
「今ヤ国運ノ興隆洵(まこと)ニ千載ノ一遇ナルニ方(あたり)テ、閣臣ノ施設之ニ伴ハズ、内政ハ弥縫(びほう)ヲ事トシ、外交ハ機宜(きぎ)ヲ失シ、臣等ヲシテ憂慮措(お)ク能ハザラシム・・・」

赤十字病院雇医師E・ベルツの日記。
「日本国民が非常に興奮しており、対露交渉の遅々たる有様に不満であることは、疑う余地のない事実だ。閣僚もこれを弁(わきま)えている。この国民の要求を考慮しない時は、自己の生命すら毎日、毎時最大の危険にさらされるのを百も承知なのだ」
(「日露戦争」をしなければ、日本は暗殺と内乱の渦にまきこまれる)、と医師ベルツは観測する。
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12月10日
・仏物理学者マリー・キュリー、ピエール・キュリー夫妻、第3回ノーベル物理学賞授与される。
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12月11日
・衆議院、解散を命じられる。
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12月11日
・駐日ロシア公使ローゼン、日本の10月30日提出の日露交渉「確定修正案」に対して修正案提示。
曾禰蔵相は、結局は戦争不可能、屈辱的和平に向かうだろうと漏らす(『高橋是清自伝』)。
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12月12日
・海相山本権兵衛大将、各艦隊修理を急がせるよう下命。
軍令部長伊集院五郎中将、常備艦隊司令長官東郷平八郎中将に艦内の和炭貯蔵量を2昼夜分にしておくよう指示(臨戦準備の示達)。
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12月12日
・小津安二郎、誕生。
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12月13日
・イギリス軍、チベット侵入。
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12月15日
・対俄(露)同志会の蔡元培ら、『俄事警聞』発刊。
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12月15日
・東京市街鉄道、品川~上野間営業開始
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12月15日
・池辺三山「非協商論」(「東京朝日」)、19日付「続非協商論」(「同」)。
「吾人は最初よりして眼前の事件に対して、即ち露清に於ける満州還付条約の条件に対して、即ち露国の侵略行為の其端を発したるに対して、我日本が有力なる強制的干渉手段を執行するを適当と思惟したり」、「当局者よ。請ふ協商手段を捨てよ」。
三山の憤りは、遼東半島を還付しなければならなかった弱小国日本国民の憤りに焦点を合わせている。

「(露国は)支那帝国に対し、正当の権利を行ひたるものと為せり。而して満州還付を以て支那帝国に対する恩恵と為せり、而して此恩恵を増減するを以て露国の自由と為せり。此自由が満州還付条約決裂の理由となるならば、去明治二十八年の日本の遼東半島還付条約も亦自由に決裂するを得べし。日本が正当の権利を以て、更に条約上の権利を以て、支那政府の任意の承諾を以て、我版図に編入したる遼東の土地を、其儘支那帝国に還付したるは、日本の恩恵なるを以てなり。而して露国人の論法を以てすれば、此恩恵を事後に増減するも亦日本の自由なればなり。両も日本は国際上の理由として之を主張せざると同時に、亦之を実行するを敢てせず。之を敢てせざると同時に、他の之を主張し之を敢てするものを承認せず。此の如きのみ。豈他あらんや」。
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12月15日
・松尾臣善日銀総裁、私用にかこつけて大阪に向かい、財界の主要人物たちと面談して、安心感を与えるように努めた。
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12月16日
・首相官邸で緊急会議。午前11時から夕食後迄続く。陸海軍首脳、元老など。
「日露戦争」不可避で一致。
参謀次長児玉中将は、戦備不充分のため開戦時期の引延ばしを要望。

「児玉希望の如く、外交断絶前に多少の時間を必要とすれば、却(かへつ)て優柔不断之態度を表示し・・・力(つと)めて沈静を装(よそほ)ふの必要あり」
そのためには、御前会議のような「耳目を聳動(しようどう)」させるようなことは避け、同時に、列国にたいする「公宣」活動を強化して、「徐々我の決心を内外に明白」にするがよい。
つまり、「兵ハ声ヲ先ニセズ、実ヲ秘スルニ在り」だ、と、伊藤元老は強調し、一座は賛意を表明した。
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12月16日
・落合直文(43)、没。
前夜、「与謝野に年を越す銭があろうか」と気遣う。
鉄幹(31)、門生総代として弔辞。葬式に連なった人の数は300人に達し、教育者として34年の福沢諭吉の葬式以来の盛儀と言われた。

旧名、鮎貝亀次郎盛光。
文久元年(1861)陸前国松岩(宮城県)に仙台藩伊達家の筆頭家老鮎貝盛房の次男として生れた。
11歳の頃、仙台に出て平田派国学者落合直亮の養子となった。養父が伊勢神官教院の教師であったため彼もその学校に学ぶ。
明治15年、東京大学内に開設された古典講習科国書課に官費生として入学、同期生の中でも第一の秀才と目された。
23歳で養家の次女と結婚(長女は早世)。
3年の兵役後、皇典講究所の教師となる。在営中に井上哲次郎の漢詩を翻案して作った長篇新体詩「孝女白菊の歌」(「東洋学会雑誌」発表)は一世を風靡した。
明治23年、井上義象・萩野由之らと古典の代表的作品の復刻「日本文学全集」を博文館より刊行。

彼は分り易く印象の明確な歌を作る点で明治20年代の新歌壇の先駆者であった。
彼が第一高等中学校で「源氏物語」「枕草子」「万葉集」「古今集」などを講義するときは、その教室はいつも満員で、その講義が好評であったため、彼は方々の学校から依頼され、幾つもの学校で掛け持ちの講義をするようになった。

明治26年、本郷区駒込浅嘉町に住みはじめた頃から、第一高等中学校などの講義に惹き付けられた青年たちが出入りするようになり、この年、浅香社を設立すると多くの門人が集まった。
尾上柴舟、大町桂月、武島羽衣、新村出、与謝野寛、鮎貝槐園(実弟)ら。

明治26年には鉄幹を創刊したばかりの「二六新聞」に入社させ、その紙上に浅香社の歌論や詠草を発表させた。
29年、落合家の親戚に当る三樹一平とその友鈴木友三郎が出版書肆明治書院を創業すると、彼は援助の手を伸ばし、自分の主宰する雑誌「国文学」をそこから刊行した。
また与謝野寛の詩歌集「東西南北」に序文を書いて明治書院から出版させた。

明治33年、与謝野寛が雑誌「明星」を創刊すると、彼は陰に陽にそれに力を添えた。

「明星」創刊の頃から、彼(40歳)は自分の立場を、学者・指導者というものに限定し、色々な弟子たちのオ能をできる限り伸ばしてやることに情熱を集中するようになっていた。

彼は生来頑健であったが、幾つもの学校で講義を持ち、旅行をし、国語辞典「言泉」の編纂をし、結社の指導をするという、極めて多忙な生活をしているうちに、漸くその頃から健康を害しはじめた。

「言泉」を出版した明治31年、糖尿病になったが、食餌制限をしながら働いたので、翌明治32年には胸を患うようになった。
その後2~3年は小田原や千葉県北条海岸、静岡県興津海岸、茅ヶ崎などで療養生活をした。
しかし病が多少治ると、また国学院や国語伝習所に出た外に、依頼されるまま外国語学校、明治大学、中央大学等に講義に出ていたから、病気は一進一退ではかばかしく治らなかった。

明治36年春、彼は神田駿河台の高田病院に入院していた。
3月、実母の鮎貝俊が危篤になり、彼は医師の止めるのも聴かず、宮城県本吉郡松岩村の実家に行くが、母の死に目に逢うことができなかった。
東京に帰ると、今度は岐阜にいる末弟の壱岐寅之進が病気とのことで、そこへ出かけた。
そのため彼の病はまた悪化したが、5月頃にはいくらか快復した。
すると彼はまた国語伝習所などの講義に出るようになった。

7月~9月半ば、千葉県長者町に療養したが、東京に戻った後の10月半ば、風邪気味で床につくと急に病状が悪化した。
12月になると容態はいよいよ悪化し、12月7日には夫人の操に筆をとらせ、
「木がらしよなれがゆくへの静けさのおもかげ夢見いざこのよねむ」
という歌を書きとらせた。
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12月17日
・米、ライト兄弟、飛行機(エンジン付き複葉機)発明。史上初の動力飛行をノースカロライナ州キティ・ホークで行う。飛行時間は59秒。
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