2013年6月12日水曜日

「日本人は民主主義も捨てたがっているのか?」想田和弘 (『世界』6月号) (その1) 日本国憲法に点る黄信号 「新しい日本」の中身

日本国憲法に点る黄信号
 日本国憲法を「みっともない憲法」だと呼び、改憲を悲願とする安倍総裁の自民党が、昨年12月の衆議院選挙で大勝した。「少なくとも今の日本人が憲法を変えたら絶対にマズい」と考える僕にとっては、黄信号が点ったような出来事だ。

 また、石原慎太郎・橋下徹の「日本維新の会」が、今年3月30日に発表した「綱領」の「基本的な考え方」の第一番目は、次のような文章になっている。

 「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」

 まず、この文章は主語や目的語が不明瞭で、誰が誰に「占領憲法」を押し付けたのかが分からなく、正確には読解不能だ。
 また、維新の会の人たちが、どういう状況を指して日本が「孤立と軽蔑の対象」に貶められていると認識しているのかも不明だ。
 いずれにせよ、維新の会は日本国憲法を「占領憲法」と位置づけ、憲法こそが、日本が孤立し軽蔑されていることの元凶だと考え、「大幅に改正」することを綱領の最初に掲げた。
 のみならず、維新の会共同代表の橋下徹は、参院選後に憲法改定では自民党などと手を組むことを示唆している。

 これは改憲を進めたい安倍自民党にとっては、願ってもない援軍だ。
「既得権打破」をスローガンに急進的な改革を訴えているはずの維新の会が、いつの間にか、自民党の補完勢力として機能している矛盾と欺瞞には失笑を禁じえないが、とにかく自民党は維新の会という強い味方を得た。

「新しい日本」の中身
 4月7日、菅官房長官は、福岡市内の講演で、夏の参院選のテーマについて、
「新しい日本をつくるため、自分たちの手で憲法を改正する。まずは九六条から変えていきたい。参院選で争点になるだろう」(共同通信配信、4月7日付)
と発言した。

 では、自民党はどのような「新しい日本」を作ろうとしているのか。
 昨年4月、自民党は独自の憲法改定案を発表したが、自民党が目指す「新しい日本」はその改憲案から知ることができる。
 それは、次のように要約できる。

 「国民の基本的人権が制限され、個人の自由のない、国家権力がやりたい放題できる、民主主義を捨てた国」

 何故そう要約できるのか、自民党改憲案を見てみる。

現行憲法】第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(傍点(アンダライン)は筆者)

【自民党改憲案】第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。(傍点(アンダライン)は筆者)

 現行憲法で人権を制限する概念として使われている「公共の福祉」を、自民党は「公益及び公の秩序」という言葉に置き換えている。
 ”公共の福祉”も”公益及び公の秩序”も似たようなものに見えるが、憲法学の通説では、これらは全く異なる概念として理解されている。

 日本国憲法で「公共の福祉に反しない限り」というのは、一般に「他人の人権を侵さない限り」という意味であると解釈されている。「個人の人権を制限できるのは、別の個人の人権と衝突する場合のみ」という考え方で、これを「一元的内在制約説」と呼ぶ。個人の人権を最上位のものとして規定する日本国憲法の重要な特色だ。

 しかし、自民党改憲案の「公益及び公の秩序」という表現は、それとは似て非なる概念で、「公益や秩序」、言い換えれば「国や社会の利益や秩序」が個人の人権よりも大切だということになっている。
 そして、何が公益で、どういう行為が公の秩序に反するのかは、国によって恣意的に拡大解釈される恐れがある。こういう発想は「一元的外在制約説」と呼ばれ、大日本帝国憲法の下における「法律の留保付きの人権保障」と変わらないとされている。

 自民党がこのように言葉を置き換えたのは、そうした学説上の議論を踏まえてのことで、確信犯である。
 自民党が改憲案とともに公表した「日本国憲法改正草案 Q&A」には、次のような説明がある。

 「従来の『公共の福祉』という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくいものです。そのため学説上は『公共の福祉は、人権相互の衝突の場合に限って、その権利行使を制約するものであって、個々の人権を超えた公益による直接的な権利制約を正当化するものではない』などという解釈が主張されています。今回の改正では、このように意味が曖昧である『公共の福祉』という文言を『公益及び公の秩序』と改正することにより、憲法によって保障される基本的人権の制約は、人権相互の衝突の場合に限られるものではないことを明らかにしたものです」(14頁)

 個人の人権よりも国や社会を上位に置く自民党の姿勢は、改憲案では終始一貫している。

【現行憲法】第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

【自民党改憲案】第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。

 重要なのは、第二項が付け加えられたことで、同項により、日本政府は国民や報道機関の「言論の自由」を堂々と制限することができる。
 つまり、この論考が「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」に当たると判断されるならば、政府はこの論考や雑誌『世界』を「違法」とすることができ、著者を逮捕・投獄し、岩波書店を非合法とすることもできる。少なくとも、それが可能な治安維持法のような法律を制定することは、合憲になる。

 このように言論の自由を「留保」する条文の構造は、大日本帝国憲法にも見られる。

第二十六條 日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルゝコトナシ (傍点(アンダライン)は筆者)

第二十九條 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス (傍点(アンダライン)は筆者)

 自民党の改憲案で国民が保障される「言論の自由」は、戦前・戦中と同じ程度なのだ。
 実際、国民の人権を制限しようという自民党の意図は徹底したもので、現行憲法の次の条文を丸ごと削除している。

第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 これだけでも驚愕に値するが、自民党の改憲案の急進的復古主義とでも呼ぶべき性質は、次のような変更に顕著だ。

【現行憲法】第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

【自民党改憲案】第百二条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
2 国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。

 憲法の縛る対象が、国家権力ではなく国民になっている。

 近代的立憲主義では、憲法とは「個人の権利・自由を確保するために国家権力を制限する」(芦部信喜『象法』岩波書店)ものであると位置づけられているが、その理念を真っ向から否定している。
 自民党改憲案が、しばしば「憲法としての体裁さえなしていない」と批判されている所以だ。

 著者と改憲案・起草委員会メンバーである片山さつき参議院議員とツイッターでやりとりで、彼女が「立憲主義とは何か」を全く理解していないか、理解しているけれども積極的に放棄したいか、いずれかであることが窺える。

片山「国民が権利は天から付(ママ)与される、義務は果たさなくていいと思ってしまうような天賦人権論をとるのは止めよう、というのが私たちの基本的考え方です。国があなたに何をしてくれるか、ではなくて国を維持するには自分に何ができるか、を皆が考えるような前文にしました!」

想田「(片山発言について)こんな考えで憲法が作られたら戦前に逆戻りだってことに、本人も気づいてない」

片山(想田宛)「戦前?! これは一九六一年のケネディ演説。日本国憲法改正議論で第三章、国民の権利及び義務を議論するとき、よく出てくる話ですよ」

想田(片山宛)「国のために国民が何をするべきかを憲法が定めるなら、徴兵制も玉砕も滅私奉公も全部合憲でしょう。違いますか? また、ケネディの就任演説と憲法の前文を同レベルで論じることそのものが、驚愕です。憲法と演説は違います。つーか、そのケネディ演説ですら天賦人権説を採っているんですよw。あなたみたいな不勉強で国家主義的な政治家が出てくることを見越したから、第九七条が日本国憲法には盛り込まれたのでしょう。あなたがた自民党改憲チームが九七条を削除したのも頷けます

片山(想田宛)「国家のありようを掲げ、国家権力がやっていいこと、統治機構などを、規定。私は芦部教授の直弟子ですよ。あなたの憲法論はどなたの受け売り?」

想田(片山宛)「だったら先生の本くらい読めばいいのに」

 そして、極めつけは、自民党案が新設した第九章「緊急事態」。

第九章 緊急事態
(緊急事態の宣言)
第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。(以下略)

(緊急事態の宣言の効果)
第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。(以下略)
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。(以下略)

 この章が意味するのは、戦争や東日本大震災のような「緊急事態」の際には、内閣総理大臣が「憲法を超越して何でもできる」ということだ。

 首相は何でもできるのだ。法律と同じ効力を持つ「政令」は好き勝手に制定できるし、それに沿って政敵を牢獄に放り込んだり、処刑したりすることもできる。政府批判をする新聞社やテレビは閉鎖できるし、外国に宣戦布告だって自由にできる。徴兵を拒否する人も逮捕できる。
 これをナチスの全権委任法と同じだと指摘する専門家もいる。
 いずれにせよ、これが自民党が目指す「新しい日本」だ。

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(段落、改行を施した)

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