2013年11月9日土曜日

堀田善衛『ゴヤ』(12)「マドリード」(1) 「よきスペイン人であれ、しかし汝が生来のフランス人であることを忘れるな。」(1700年、仏ルイ14世がスペイン王となる孫フェリペ5世に諭した言葉)

フェリペ5世
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マドリード

ヨーロッパの、この王家なるものについて
「芸術だけではない。ブルボン王家の到来以後、マドリードの、貴族だけではない市民生活の、ほとんど全領域がフランス趣味でおおわれてしまうのである。そうして、・・・、頑固一徹のスペイン保守主義もが、・・・抵抗をはじめる。
しかし、そういうマドリードの政治、あるいは社会生活、風俗といったところへ入って行くことの以前に、ヨーロッパの、この王家なるものについて少しのことをしるしておかなければならないであろう。」

それは、王様や王妃の斡旋業者、王様や王妃の手配師一家
「一言で言って、ハブスプルグ家にしても、ブルボン家にしても、彼ら自身その生国の支配者であると同時に、実はヨーロッパ各地、あるいは各国への、いわば王様や王妃の斡旋業者のようなものである。王様や王妃の手配師一家のようなものであった。王様業を経営する一家であった、・・・。ヨーロッパの現王室は、そのほとんどが歴史のどの時点かで、相互に血のつながりがある筈である。」

「・・・この王様稼業は、しかし、わりにあわぬことももちろんある。政治情勢が怪しくなって、御本家や親類同士のあいだで、戦争をしなければならぬ羽目におちいることも珍しくはない。・・・
ルイ一四世は、孫をスペイン王フェリーペ五世にするについて、イギリス、ドイツ、オランダ、オーストリア、ボルトカル、ナポリ、ミラノなどを巻き込んでのスペイン王位継承戦争がおきたとき、
「私は、私の子どもたちに対してよりも、敵に対して戦争をする方が好きだ。」
とフランス人民に対して宣言をしている。」

「・・・彼らのうちのある者は、いわばやとわれマダム的であったり、またある者は、この王室経営業という、今日のことばで言えば、いわゆる多国籍企業の、ある地域の代表者のようなものであった。
だから、いま触れた王位継承戦争なるものも、複数の多国籍企業間の争いと、その利害調整のようなものである。しかしこの利害調整戦争は、断続的に一三年間もつづき、この間にイギリスの海上制覇は決定的となり、スペインはジブラルタルを失うという、世界史的な意味をもった。」

民衆との関係は・・・関係はなかった
「・・・、では当該国の民衆との関係はどうなのか、・・・それは簡単に言えば、関係はなかった、と言うより仕方がないであろう、・・・。
・・・
キリスト教(カトリック)共同体であるヨーロッパにおいて、王様稼業の多国籍企業の代表者がウィーンの本社から来ようが、別の企業のパリ本社から来ようが、逆に言って民衆の側にとっては大した違いではなかったのである。」

「よきスペイン人であれ、しかし汝が生来のフランス人であることを忘れるな。」
(スペイン王フェリーペ5世であれ、同時にブルボン家に属するフィリップ5世でもあることを忘れるな)
「一七〇〇年一一月一日、ちょうど一八世紀のとばくちのところでカルロス二世が死に、ここでハブスプルグ王家出身の王が絶えることになる。一七〇一年、パリのブルボン家から、スペインにとってのフェリーペ五世がマドリードへ赴くについて、彼の祖父であるルイ一四世は、孫のスペイン王に、
「よきスペイン人であれ、しかし汝が生来のフランス人であることを忘れるな。」
とさとしている。
・・・
ということは、スペイン王としてはフェリーペ五世(Felipe Ⅴ)であれ、しかし同時に汝はブルボン家に属するフィリップ五世(Philippe Ⅴ)でもあることを忘れるな、という意味であろう。

このルイ一四世の忠言は、全一八世紀を通して、スペインにとってはまことに意味深い予言となる。それはまた、フランス革命を経て一九世紀に入ってからも、さらに重大な意味をもつであろう。」

ブルボン家フェリーぺ5世がスペイン統治を始めた頃のマドリード:
「まったく想像もつかないような、いわばファンタスティックなことになっていた」
「・・・フェリーペ五世が、ハブスプルグ家系の王位をついでうけついだスペインは、過日の、黄金時代のスペインではなかった。それはスペイン帝国でさえなかった。国家としての、ありとあらゆる病状がむき出しになっていた。
・・・帝国の誇りは実のところ空洞化した、虚栄となってあらゆるスペイン人の心を蝕ばんでいた。労働に対する軽蔑、無精さ加減、怠惰などが骨がらみとなってこびりついていた。
・・・
この王家がスペイン統治をはじめた頃の、マドリードなどは、今日から考えると、まったく想像もつかないような、いわばファンタスティックなことになっていたもののようである。」

たとえば道路・・・。舗石の凸凹について
「たとえば、道路。
この都は、カスティーリアの高原に、全スペインの中央部にあたるということで無理矢理に建設されたものであったから、丘の高低がはげしく、坂道は急で、尖った石だらけであった。しかも道路を石畳で舗装をするについて、不思議なことに、その舗石の尖った方を上にして、平べったい部分を下にして地中に置いたものであった。」

「そういう尖石で舗装をした理由というのが、尖った部分を地中に打ち込むと、舗石が動いてがたがたになるからである、というのである。平べったい、従って歩きやすい部分を地中に置いておけば、鋪石の一つ一つが安定していてがたつかないからである、というのである。
・・・
ブルボン家の諸王が、これを平ったくして歩きいいように、舗石の一つ一つをひっくりかえせ、と布令を出すと、これに対して、ほかならぬ足から血を流して歩いている人民の側から猛烈な反対が出る。
いままでそうあったもの、つまりはスペイン的なものを、なぜさかさまにするか・…‥。つまりは、なぜフランス化するか……、という次第である。」

「しかもこの凸凹の舗石の道路は、中央が凹んでいて、そこをあらゆる種類の汚水が流れるという仕掛けになっていた。糞尿もまた、各家庭は朝毎に、この中央下水路とでも呼ぶべきものへ、戸口からでも窓からでもジャーツとばかり投げとばすのが、この町の習慣であった。・・・
糞尿ばかりではない、塵芥の処理もがまったく不充分であった。裾を長く引きずった服装の女が道を通ると、ホコリが舞い上って後塵を拝した人は、先が見えなくなったという記録までがある。」
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