2013年11月4日月曜日

昭和18年(1943)1月21日~31日 ガダルカナル島第1線からの撤収開始 第1次アキャブ作戦 第15軍司令官に牟田口廉也中将就任

江戸城(皇居)平川門前 2013-11-01
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昭和18年(1943)
1月21日
・中等学校令、第2次師範教育令、満俺鉱及クロム配給統制規則、行政官庁職権委譲令公布
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1月21日
・ソ連軍、スターリングラードの補給用飛行場を占領
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1月23日
・ガダルカナル島、第1線からの撤収開始。
第2師団各隊は、23日払暁、敵の砲撃したを撤退開始、午前8時頃迄に水無川河口付近に集結。
しかし、歩兵第4連隊左第1線の内藤大隊には、撤退命令が届かず、大隊長以下歩29の集成大隊約50は守備陣地で全滅。

22日午後5時30分、百武軍司令官以下約20名の第17軍戦闘司令所は、タサファロングを出発してエスベランスに向う。
23日天明前、軍司令官一行はエスベランス到着。
夜明け、米軍約150が第38師団撤退に追尾し勇川左岸に侵入したこと、第2師団が予定より早く夜半から撤退を開始したことを知る。

24日、矢野大隊はコカンボナで敵約2千と交戦し、後方(西方)に逐次集結中の友軍を掩護。
タサファロング残留の小沼参謀は、第2師団主力でポネギ川(タサファロング東約1.5km)両側で米軍前進を阻止する策を採る。

その頃、第38師団はセギロウ(タサファロング西北方約5km)に集結。
この日の第2師団の戦闘員は前線約400(師団戦闘司令所に歩工兵約300と海軍陸戦隊約250)。
第38師団は約400。
第1線の矢野大隊と第2師団司令部との間の通信は不通で、矢野大隊の連絡将校が夜中に司令部に到着、矢野大隊は日没後に現陣地を撤し、ママラ川(コカンボナ西方約2.5km)の線に撤退する、と報告、師団長はこれを承認。

米軍は、日本軍正面で勇川を通過し、追撃に移ろうとするが、矢野大隊の抵抗に遭遇し、行動が慎重になる。
矢野大隊は25、26日、ママラ川左岸を確保し、第2師団司令部はその間、25日早朝、セギロウ左岸まで後退。
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1月23日
・読売新聞・セラム新聞の経営者村上正雄らセレベス海で遭難殉職
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1月23日
・連合軍、リビアのトリポリを奪回。
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1月24日
・第1次アキャブ作戦、第55師団(古閑中将)、南部べグーよりアキャブに進出。
下旬、第112連隊(棚橋大佐)、ビルマ・アキャブ進出

この頃、英印軍の優勢な部隊がメユ半島、メユ河両岸地区を南下し、ラテダウン、ランチャウン、ドンベイ(日本軍呼称はラテドン、ランチャン、ドンベーク)に迫る。
特に、メユ半島南端の、アキャブに近いドンベイでは激戦が続く。

1月11日以降、インド第14師団第47団は、大砲・迫撃砲攻撃後、戦車・軽装甲車による攻撃を繰り返し、守備の宮脇支隊は頑強に防戦。
また、英国艦隊は、インドのナーフ河口からアキャブ付近に活発に出没、アキャブ上陸を企図していると判断される。
アキャブの町は、メユ河とカラダン河の河口にできた大きな洲の上にあり、無数の河川・水流が入り乱れ、島とも陸続きともわからない複雑な地形を作っている。湿地・泥地の多い平らな土地で、マングローブの密林が茂り、川はその下に沼のように広がっている。アキャブの町のある所は、南北約8km、東西約12kmの島である。ベンガル湾の岸に沿ったこの町は、周辺のアキヤウ県の行政の中心。

日本軍は前年のビルマ平定戦時、アキャブ島の飛行場を占領、以来、ここを守備。
この飛行場には、加藤隼戦闘隊で知られる飛行第64戦隊がいた。

英軍はビルマ奪回の最初の目標として、アキャブを攻撃。
アキャブの戦略上の価値は大きい。
平坦な土地が飛行場に適し、当時、9本の滑走路が使われる。英軍がこの飛行場を占領すれば、ビルマの中野南部はその戦闘機の至近の攻撃範囲になり、南部のラングーン、モールメインなど日本軍の主要兵站(補給)基地は英軍戦闘機・爆撃機の空襲に制圧され、ビルマ中央を縦貫するマンダレー鉄道も寸断される。
アキャブはまた、アラカン山系の西側の、ベンガル湾に開けた大きな港であり、これを基地とすれば、ビルマに対する水陸両様作戦ばかりでなく、マレー半島、アンダマン・ニコバル諸島上陸作戦が容易になる。
このような戦略上の必要から、英軍はビルマ奪回作戦の最初にアキャブを目標とした。
日英両軍はアキャブを中心に、アラカン地区で、攻防戦を展開。
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1月26日
・自由フランス軍、チュニジア国境ガダメス陥落
同日、トリポリ入り
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1月26日
・ソ連軍、ヴォロネジ占領
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1月27日
・高級印刷物製造等統制規則
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1月27日
・アメリカ第8空軍、イギリスからドイツ本土のヴィルヘルムスハーフェンを昼間初爆撃
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1月28日
・ガダルカナル島、第38師団、エスペランスとカミンボ地区に集結。
極秘種に乗船準備を進め、30日夜、乗船位置に進入、翌日夜の乗船を待つ。
ところが、29日早朝、海軍索敵機がガダルカナル南方に敵有力部隊を発見し、第8方面軍司令部は、敵情と天候の判断から、ケ号作戦(撤収作戦)を1日繰り下げ、第1次輸送決行を2月1日とする。

28日、矢野大隊は、依然ママラ川西方約1kmの陣地を確保しているが、400超の有力部隊が砲兵支援下に、矢野大隊の右側背に進出。
29日午前3時、大隊は、陣地を撤し、ポネギ川右岸の第2歩兵団(第2師団)陣地の左翼に後退。
30日、正面の米軍の砲兵射撃は旺盛となり、大発による糧株弾薬前送、迫撃砲推進、海岸道への装甲車進出が見られる。
米軍はタサファロング攻略を意図と判断される。
31日朝から、第2師団正面に歩砲戦協同の本格的攻撃が始り、日本軍第1線にかなりの損害を生じ、31日夕、第2歩兵団長はポネギ川右岸陣地撤退を師団長に報告、師団長はこれを承認するも、ポネギ左岸陣地は最後の1兵に至るまで死守すべきを命じる。
米軍主力は、何故か、ポネギ右岸で停止し、日本軍を追撃せず。
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1月28日
・東条英機首相、帝国議会でビルマ独立を確約
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1月28日
・ドイツ、13歳~65歳の全国民・占領地住民に強制労働義務賦課
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1月28日
・日系人戦闘部隊編成を認める大統領声明
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1月28日
・第8軍、トリポリ占領
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1月28日
・ドイツ「ハーベストホーム(第2収穫完了期)」作戦。ミンスク・スルツク街道西方のソ連軍パルチザン掃討作戦。
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1月29日
・レンネル島沖夜戦。
ラバウル航空兵力、米海軍増援部隊を捕捉・雷撃、重巡「シカゴ」大破にとどまる、指揮官戦死。
30日、前日に続き、米海軍艦隊を捕捉・雷撃、重巡「シカゴ」撃沈するも、出撃11機の内帰還は3機のみ。

29日午前7時37分、日本軍哨戒機がサンクリストバル島南方海域で有力な米艦隊を発見報告。
山県正郷中将指揮の第26航空戦隊はラバウル航空隊の一式陸攻15機(705航空隊)と九六陸攻15機(701航空隊)を護衛戦闘機なしで出撃させる。
午後5時40分、701空隊が米艦隊を発見、重巡「シカゴ」に魚雷2本が命中、航行不能とする。
この時、陸攻3機を失う。
翌30日、再び米艦隊を攻撃すべくニューギニアのブナ基地から第751航空隊の陸攻11機を発進させ、「シカゴ」撃沈、「ラ・バレット」にも魚雷1本を命中させ大破させる。
しかし、後方の空母「エンタープライズ」の戦闘機10機の迎撃により陸攻7機を失う。
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1月30日
・第15軍司令官に牟田口廉也中将就任、メイミョウ
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1月30日
・大本営政府連合会議、対仏措置決定。
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1月30日
・フランス、「フランス戦士団保安隊」、警察国家の主役となるヴィシー公認「ミリス」(民兵団)として発展的解消、のちナチ武装親衛隊傘下入り、武装可能となる
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1月30日
・ドイツ、デーニッソ、レーダーに代わって海軍最高司令官就任。
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1月30日
・チャーチル英首相とイノニュ・トルコ大統領、アダナで会議(~31日)。
イギリス、トルコに参戦を要請。
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1月30日
・英空軍のHS爆撃照準レーダーを使用した最初の空襲。
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1月31日
・八連特司令部(大田實少将)、ラバウル発
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1月31日
・この日付け朝日新聞大阪本社版朝刊1面トップ、「大決戦場・ニューギニア従軍第一報」。
ニューギニア・ブナ海岸~オーエン・スタンレー山系(3千m)~ポートモレスビーへの作戦従軍記、ようやく掲載許可(42年9月作戦終了)。
2月26日より岡田誠三従軍記者の連載開始。40回連載し単行本も出版。更に数章を加え、小説「ニューギニア山岳戦」(「新青年」44年3月号)として発表(但し「退却」の章は削除)。
8月、31歳で直木賞受賞。
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1月31日
・ガダルカナル島、第17軍司令官、第2次撤退(軍司令部以下第2師団)の為の命令を出す。
軍司令部撤退後の措置は、歩兵第28達隊松田教寛大佐が総後衛部隊指揮官に任じ、軍参謀山本筑郎少佐が松田部隊に配属される。
松田部隊はセギロウ河畔で各部隊の撤収掩護中であるが、ガ島戦は奇しくも歩28の一木清直大佐に始り、松田教寛大佐を殿軍指揮官として終ろうとしている。
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1月31日
・パウルス将軍、スターリングラードの第6軍に降伏命じる
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下旬
・中国から移駐の第16師団(神田正種中将)、第17軍(百武晴吉中将)指揮下に入る、司令部ブーゲンビル
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