2013年11月8日金曜日

明治37年(1904)3月27日~3月31日 第4回旅順口攻撃(第2回閉塞作戦) 広瀬武夫少佐(36)戦死 幸徳秋水「嗚呼増税!」(『平民新聞』第20号) 発行人堺利彦起訴

江戸城(皇居)平川門前 2013-11-08
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明治37年(1904)
3月27日
・第4回旅順口攻撃(第2回閉塞作戦)。
午前1時5分、閉塞船団「福井丸」・「千代丸」・「弥彦丸」・「米山丸」4隻、老鉄山南方に到達、航進。港口約2浬のところで猛火を受け始める。
午前2時25分、猛火のなか4隻ともほぼ予定位置に達するが、「弥彦丸」・「米山丸」の間隔が開き、湾口の完全閉塞に至らず、失敗。
閉塞船「福井丸」指揮官広瀬武夫少佐(36、戦死の際の功績により中佐に昇進)・杉野孫七上等兵曹、戦死。
2回目の閉塞隊員は、下士卒は全て新たに選ばれたが、将校は1回目と同じ。
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3月27日
・週刊『平民新聞』第20号発行
幸徳秋水「嗚呼増税!」
「戦争のため」の一語で議会・政党も政府の意のままの機械となり6千万円の増税を国民に課した。
翌日、内相は新聞紙条例第33条により発売頒布を禁止、編集兼発行人堺利彦を起訴。
31日、公判。
4月5日、判決。禁固3ヶ月。
4月12日控訴審。弁護士今村力三郎・花井卓蔵・高木金之助・木下尚江ら。
16日、禁固2ヶ月確定(4/21~6/20入獄)。

鳴呼増税!   (幸徳秋水)
鳴呼『戦争の為め』てふ一語は、有力なる麻酔剤なる哉、唯だ此一語を以て臨まる、聡者も其聡を蔽はれ、明者も其明を昧(くら)まし、智者も其智を失ひ、勇者も其勇を喪(うしな)ふに足る、況(いは)んや聡明智勇ならざる今の議会政党の如きをや

彼等議会政党は今や尽(ことごと)く『戦争の為め』てふ一語に麻酔して、其常識を棄て、其理性を抛(なげう)ち、而して全く其議会政党たる所以の精神能力を遺却して、単に一個の器械となり了(をは)れるを見る也、何の器械ぞや、曰く増税の器械是(こ)れ也、而して政府者は、巧みに這箇(しやこ)の便利なる日動器械を使用せり、而して六千余万円の苛税は忽ち吾人の頭上に課せらる
鳴呼六千万円の増税、苛重なる増税よ、是れ実に『戦争の為め』なるぺし、・・・

今の国際的戦争が、単に少数階級を利するも、一般国民の平和を撹乱し、幸福を損傷し、進歩を阻礙(そがい)するの、極めて悲惨の事実たるは吾人の屡(しばし)ば苦言せる所也、而も事遂に此に至れる者一に野心ある政治家之を唱へ、功名に急なる軍人之を喜び、奸滑(かんくわつ)なる投機師之に賛し、而して多くの新聞記者、之に附和雷同し、曲筆舞文、競ふて無邪気なる一般国民を煽動教唆せるの為めにあらずや、而して見よ、将帥頻(しきり)に捷(せふ)を奏するも、国民は為めに一粒の米を増せるに非ざる也、武威四方に輝くも国民は為めに一領の衣を得たるに非ざる也、多数の同胞は鋒鏑(ほうてき)に曝(さら)され、其遺族は飢餓に泣き、商工は萎靡(ゐび)し、物価は騰貴し、労働者は業を失ひ、小吏は俸給を削られ、而して軍債の応募は強られ、貯蓄の献納は促され、其極多額の苛税となつて、一般細民の血を涸(から)し骨を刳(えぐ)らずんば己(や)まざらんとす、若し如此にして三月を経、五月を経、夏より秋に至らば、一般国民の悲境果して如何なるべきぞ、想ふて茲(こゝ)に至れば吾人実に寒心に堪へず、少なくとも此一事に於ては、吾人は遂に国家てふ物、政府てふ物、租税てふ物の必要を疑はざるを得ざる也
・・・

何ぞ夫れ然らん、国民にして真に其不幸と苦痛とを除去せんと欲せば、直ちに起て其不幸と苦痛との来由(らいゆ)を除去すべきのみ、来由とは何ぞや、現時国家の不良なる制度組織是れ也、政治家、投機師、軍人、貴族の政治を変じて、国民の政治となし、『戦争の為め』の政治を変じて、平和の為めの政治となし、圧制、束縛、掠奪の政治を変じて、平和、幸福、進歩の政治となすに在るのみ、而して之を為す如何、政権を国民全体に分配すること其始(はじめ)也、土地資本の私有を禁じて生産の結果を生産者の手中に収むる其終(をはり)也、換言すれば現時の軍国制度、資本制度、階級制度を改更して社会主義的制度を実行するに在り、若(もし)能(よ)く如此くなれば、『井を鑿(ほつ)て飲み田を耕して食ふ、日出(い)でゝ作し日入(いつ)で息(いこ)ふ、帝力何ぞ、我に在らん哉(や)』、雍々(ようよう)として真に楽しからずや、亦足れ極めて簡単明白の道理に非ずや
吾人は我国民が爾(しか)く簡単明白の事実と道理を解するなく、涙を飲で『戦争の為め』に其苦痛不幸を耐忍することを見て、社会主義者の任務の益々重大なるを感ず
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3月27日
・「毎日新聞」、「二六新報」発禁に関して、「軍国時代と雖、飽くまで言論の自由を尚」ぶべきと主張。
「挙国一致して外難に当る現下の大勢に抗し、国民将来の利益幸福を想うて侃諤の弁を樹つる者あらは、吾人は謹慎の態度を以て、之を傾聴せんと欲す」と、「軍国時代と雖、飽くまで言論の自由を尚」ぶべきと主張。
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3月28日
・市立大阪高等商業学校〔のちの大阪市立大学〕
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3月29日
・清国で、戸部の奏請で銀行設立(戸部銀行)。後の中国銀行。
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3月29日
・第20臨時議会、閉会。
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3月29日
・午後、2日前に決行された第2回旅順口閉塞作戦に関する東郷司令長官報告が、新聞号外となって配られ、翌30日朝刊もこれを再録。

戦死者中福井丸の廣瀬中佐及杉野兵曹長の最後は頗る壮烈にして、同船の投錨せんとするや、杉野兵曹長は爆発薬に点火する為め船艙に下りし時、敵の魚形水雷命中したるを以て遂に戦死せるものゝ如く、廣瀬中佐は乗員を端舟(たんしゆう)に乗移らしめ、杉野兵曹長の見当らざる為め自ら三度び船内を捜索したるも、船体漸次に沈没海水上甲板に達せるを以て止むを得ず端舟に下り、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり、中佐は平時に於ても常に軍人の亀鑑(きかん)たるのみならず、其最後に於ても万世不滅の好鑑を残せるものと謂ふべし。

東郷司令長官の報告は、29日、帝国議会でも読み上げられたが、衆議院では「殊に朗読中、廣瀬中佐の死が、一時議場をして哀惜の念に打たしめたるは、此に特筆するを禁ずる能はず」(『萬』3月30日)と報じられる。
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3月29日
・広瀬中佐と海軍兵学校同期生の連合艦隊副官永田泰次郎少佐、同期の軍令部参謀財部彪・森越太郎少佐に手紙。
財部少佐は義捐金を募り顕彰の銅像・記念碑建立の意向表明。
「東京日日新聞」がこれに協力。3242円50銭となる。神田須田町に祈念銅像建立。「軍神広瀬中佐」。

この日付け『東京朝日新聞』は、砲弾を浴びる船を手前に置き、水平線上に桜の花に囲まれた肖像が浮かぶ挿し絵とともに、「軍神廣瀬中佐」という見出しの記事を掲載
そこに、永田聯合艦隊副官から大本営幕僚財部・森両参謀に宛てた電報が紹介されている。

「廣瀬中佐の平素なみ並に開戦以来の行為は、実に軍人の亀鑑とすべき事実を以て充たされ、一兵一卒に至る迄歎賞措かず(中略)或人叫んで軍神と唱ふ、是れ敢て過言にあらざるべきことゝ信ず(中略)模範軍人として後世に貽(のこ)さるゝの手段を予め講じ置かれんことを希望す」
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3月30日
・「旅順港口第一回の閉塞隊を指揮し勇名を現はしてより廣瀬中佐の名は偏ねく知れ渡り、日本海軍にこの人ありと記臆されしはまだ十数日の前なるが、又もや二回の閉塞に大勲功を立て名誉なる最後を遂げられしは痛惜何ぞ堪へん」(『報知』3月30日)

「殊に其戦死は、其部下の一人を救はんとするがために起りたり。部下の一人の死を見るよりも、自ら進んで之に死せり。(中略)中佐が日本武士の魂はこれぞと示したる其行為其死、是既に日本に対する大功なり」(『東朝』3月30日)

財部彪大本営参謀は、「軍人の亀鑑として永く帝国臣民の記臆に存すべきなること勿論なり」と述べ、そのために義損金を集め、「其高に応じて或は銅像を作り又は紀念稗を建設するかして、此無比の勇者が君国に捧げたる赤誠の紀念を永遠に胎したい」という(『東日』3月30日)。

財部は、廣瀬の死を聞いて、直ちに募金を集めてできれば銅像を、さもなくば紀念碑を建てたいと思った。
これに応じて、『東京日日新聞』では4月1日に義損金の募集の社告を出し、『時事新報』も5月2日の紙面で銅像建設寄付金の窓口となることを報ずるなどのキャンペーンが始まっている。
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3月30日
・陸海軍に属する臨時事件費特別会計法、交付。戦争終結までを1会計年度とするなど。
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3月30日
・臨時事件費支弁に関する法律、公布。2億8千万円以内の借り入れ・国庫債券発行など。
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3月31日
・英印軍、チベット奇襲。チベット軍壊滅(派遣英軍阻止のチベット人300人、殺害。)
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3月31日
・「我が海軍は(廣瀬)中佐の一死に依りて更に数層の光輝を増したりと云ふペし」(『萬』3月31日)
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3月31日
・堺利彦平民新聞発禁事件公判。東京地裁。
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3月31日
・東京京橋区のレンガ工160人、賃上げを要求してストライキ。
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3月31日
・石川節子、岩手郡滝沢村篠木小学校代用教員(裁縫)となる。月給5円。篠木の山崎家に寄寓。
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