2013年11月7日木曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(85) 「第10章 鎖につながれた民主主義の誕生 -南アフリカの束縛された自由-」(その1) ANC自由憲章「南アフリカ人民の遺産はすべて人民の手に取り戻されなければならない」

サザンカ 江戸城(皇居)東御苑 2013-11-06
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第10章 鎖につながれた民主主義の誕生
- 南アフリカの束縛された自由 -

 和解とは、歴史の裏面にいた人々が抑圧と自由の間の質的な違いを本当に理解したときに成立するものです。
彼らにとって自由とは、清潔な水が十分あり、電気がいつでも使え、まともな家に住み、きちんとした職業に就き、子どもに教育を受けさせ、必要なときに医療を受けられることを意味します。
言い換えれば、これらの人々の生活の質が改善されなければ、政権が移行する意味などどこにもないし、投票する意味もまったくないのです。
- デズモンド・ツツ大主教(南アフリカ真実和解委員会委員長 二〇〇一年)

 国民党は権力を移譲する前に、それを骨抜きにしようとしている。
自分たちが国を治める権利を放棄する代わりに、黒人が彼らのやり方で国を治めるのをやめる権利を手に入れるという、一種の交換条件を成立させようとしているのだ。 
- アリスター・スパーク(南アフリカのジャーナリト)

ネルソン・マンデラ(71歳)が独房で執筆したANCの政策覚書
 1990年1月、71歳のネルソン・マンデラは刑務所の独房で机に向かい、支持者に向けた覚書を書いていた。獄中にいた27年間の殆どを、ケープタウン沖、ロベン島の刑務所で過ごした彼は、その間にアパルトヘイト国家南アフリカの経済改革にかける自らの決意が鈍ったのではないか、という疑念に答えようとしていた。

政策の基礎はあくまでも「黒人経済の強化」
 そこにはこう書かれていた。
「鉱山、銀行および独占企業の国営化はアフリカ民族会議(ANC)の政策であり、この点に関してわれわれの見解が変化したり修正されたりすることはありえない。黒人経済の強化はわれわれが全面的に支持し促進する目標であるが、現在の状況においては、一定の経済部門を国家が統制することは避けられない」

 アフリカ最大の経済国南アフリカでは、自分たちを抑圧した権力者が不正に得た利益の返還を要求し、再分配する権利もまた「自由」のひとつである、と今もなお信じ続ける人々が存在していた。

1955年「自由憲章」起草以来35年間変らない基本政策
 この考え方はANCの基本理念を謳った「自由憲章」に明記されて以来、35年間にわたって政策の基礎となってきた。
自由憲章起草にまつわる話は南アでは伝説のように語り伝えられている。
起草プロセスは1955年、ANCが5万人のボランティアをタウンシップや農村部に派遣したときに始まる。
ボランティアたちの仕事は、各地で人々から「自由への要望」を集めてくることだった。アパルトヘイトが終結し、全ての南アフリカ人が平等な権利を手にしたときの世界を、人々に想像してもらった。

 人々は自分の要望を手書きした。
「土地を持たないすべての人に土地が与えられること」
「生活費が賄える賃金と、労働時間の短縮」
「肌の色や人種、国籍に関係なく無償で義務教育が受けられること」
「居住と自由に移動する権利」などなど。

1955年6月26日のクリップタウン会議、「人民こそが統治すべきである!」
 ANC指導者は、こうした要望を最終的な草案に纏め、これが1955年6月26日、クリップタウン(ヨハネスブルグの白人住民をソウェトの黒人住民から守る「緩衝地帯」として設置された黒人居住区)で開催された人民会議で正式に採択された。
広場には黒人、インド人、「カラード」〔主としてオランダ糸白人と黒人との混血〕、そして少数の白人合わせて3,000人ほどが集まった。
歴史的なクリップタウン会議の様子について、ネルソン・マンデラはこう書く。
「憲草は各節ごとに英語、ソト語、コサ語で読み上げられた。節が終わるごとに、人々は「アフリカ!」「マイブイェ!(自由をふたたび)」と叫んで賛同の意を表した」。
自由憲章の最初の要求は「人民こそが統治すべきである!」だった。

 2日目、会場に警察が乗り込み、国家反逆の謀略だとして力ずくで会議を解散させた。

過酷な弾圧の期間も継承され続けた「自由憲章」
 白人のアフリカーナとイギリス人が支配する南ア政府は30年間、アパルトヘイトに反対するANCやその他の政党の活動を禁止した。
この過酷な抑圧の期間、自由憲章は地下で活動する人々の手から手へと渡されて読み継がれ、希望と抵抗の意志を鼓舞するその力は少しも弱まることはなかった。
1980年代には、黒人居住区に出現した戦闘的な若い世代が自由憲章を引き継いだ。
おとなしく耐えるだけの生活にうんざりした過激な若者たちは、白人支配を覆すためならどんなことでもすると公言し、その大胆さは親世代を仰天させた。
あらゆる幻想を捨てた彼らは「弾丸も催涙弾も俺たちを止められない」と叫びながら街頭に繰り出し、虐殺に次ぐ虐殺に遭い、殺された同志を葬りながらも、なおも歌い、戦い続けた。
何を相手に戦っているのか問われると、彼らは「アパルトヘイト」「人種差別」と答え、何のために戦っているのか問われると、「自由」と答えた。「自由憲章」と答える者も多かった。

「南アフリカ人民の遺産はすべて人民の手に取り戻されなければならない。」
 自由憲章には仕事に就き、まともな家に住み、思想の自由を持つ権利が謳われ、さらにもっともラディカルな権利 - すなわち、世界最大の金鉱をはじめ、多くの資源を持つアフリカ最大の経済国の資産を分かち合う権利が謳われている。
「われわれの国の財産、すなわち南アフリカ人民の遺産はすべて人民の手に取り戻されなければならない。地下に地蔵された鉱物資源、銀行および独占企業はすべての人民の所有に移行され、その他の産業や通商も人民の幸福を助長するために管理されなければならない」と自由憲章は述べている。

 自由憲章起草の時点で、運動内部にはこれを良い意味で中道的だとする見方と、許しがたいほどに軟弱だとする見方があった。
汎アフリカ主義者たちは、ANCが白人入植者に譲歩しすぎていると激しく非難した。
なぜ南アフリカは「黒人、白人を問わず、すべての人」 のものだというのか?ジャマイカの黒人民族主義者マーカス・ガーヴェイのように「アフリカはアフリカンのためのもの」だと主張すべきではないか、と。
強硬なマルクス主義者たちは「プチブル的」だとして問題にしなかった。土地の所有権を全ての人々に分割するのは革命的ではない、レーニンはあらゆる私的財産を廃止すべきだと言ったではないか、と。

アパルトヘイトは、人種差別を利用した極めて大きな利害の絡む経済システムである
 解放運動のすべてのグループが自明の理としていたのは、アパルトヘイトが単に投票と移動の自由を統制する政治システムであるだけでなく、同時に、人種差別を利用した極めて大きな利害の絡む経済システムでもあったということだ。
少数の白人エリートだけが南アの鉱山や農場、工場で上がった膨大な収益を蓄えることができ、大多数を占める黒人は土地所有を認められず、本来の価値よりずっと低い価格で労働を提供することを強いられた。
恐れずに反抗すれば、暴行を受けたり投獄されたりした。
鉱山では白人は黒人の10倍の賃金を得、ラテンアメリカと同様、大企業は軍部と緊密に協力して手に負えない労働者を誘拐し、「行方不明」にしていた。

不当に没収された資産が社会全体に再分配されたときにこそ自由が実現する
 自由憲章に謳われているのは、単に黒人が国を治めるだけでなく、不当に没収されたこの国の資産が社会全体に再分配されたときにこそ自由が実現するという、解放運動のなかで合意された某本的な考え方である。
南アはもはや、アパルトヘイト時代に言われたような「カリフォルニアのような生活水準で暮らす白人と、コンゴのような生活水準で暮らす黒人の国」であり続けることはできない。
自由とは、その中間にあるものを見出すことを意味するのだ。

彼は富の再分配なしには自由はないという基本原則をまだ信じていた
 マンデラが獄中で、二つの文章から成る覚書を書いたときに言おうとしたのも、まさにこのことだった。
彼は富の再分配なしには自由はないという基本原則をまだ信じていた。

マンデラの政策が成功すれば、それはシカゴ学派の政策の反証となる
 今や世界の多くの国が「移行期」にあるなか、マンデラの覚書にはきわめて大きな意味があった。
もしマンデラがANCを率いて政権に就き、銀行や鉱山を国営化することができれば、他の国々のシカゴ学派の経済学者たちを不利にする前例となる。すなわち、こうした提言を過去の遺物と片づけ、深刻な不平等を是正するには歯車めのない自由市場と自由貿易を実現するしか道はないとシカゴ学派の連中が言い張ることは、ずっと困難になるはずだった。

1990年2月11日マンデラの解放
 この覚書を書いてから2週間後の1990年2月11日、マンデラは晴れて自由の身となり、世界にかつて存在したことのない”生きた聖人”とも呼べる人物となった。
南アのタウンシップは祝福に沸き返り、人々は自由への苦闘を止めるものはもはや何もないという確信を新たにした。東欧での運動が叩きのめされたのとは異なり、南アのそれは順調に行っていると。
マンデラ自身は、あまりに刑務所生活が長かったためにカルチャーショックに見舞われ、マイク付きカメラを「獄中にいる間に開発された最新式の武器」と間違えるほどだった。
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