2014年8月4日月曜日

堀田善衛『ゴヤ』(38)「内閣総理大臣フロリダプランカ伯爵」(1終) 「ゴヤはもうしばらく待たなければならない」

北の丸公園 2014-07-31
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総理大臣あて嘆願書を提出してようやく画料が支払われる
「サン・フランシスコ・エル・グランデ教会での作品・・・
・・・それが出来上って公開の儀式もがすんでから難儀が出来して来た。誰も画料を払ってくれないのである。・・・
・・・、ゴヤを含めての三人の画家が一七八五年の四月二五日に総理大臣に嘆願書を、アカデミイの事務総長の添書をそえて提出した。・・・。
・・・
・・・返事が来るまで、またまた三カ月も月日がかかった。悪名高い、 hasta manana (明日、明日)の国である。やっとのことで六〇〇〇レアールが各人に支払われ、しばらくの後に、「もう四〇〇〇レアールずつを支払ってやれ、絵は大した値打ちのあるものではないが、この三人はそう悪い方じゃない(直訳をするとすれば、最悪ではない、ということになる)」という首相のメモによって、追加の四〇〇〇レアールが支払われる。」

「実働二年間の仕事に合計一万レアールの報酬は決して高いものではなかった。この当時の物価は、牛肉一ポンドが二レアール半、上等の小麦のパンも同じくらいであるから、法外な金と見えるかもしれなかったが、衣服、靴などからはじめての工業製品のほとんどすべてが外国からの輸入品であったから、それらのものの値段がおそろしく高かった。」

フロリダプランカ伯は、もともと伯爵ではなく、アンダルシーア出身の、辣腕の財政家であった
「フロリダプランカ伯は・・・。本名はホセ・デ・モニーノと言い、アンダルシーアはムルシア出身の、辣腕の財政家であった。一七七三年、ゴヤがローマにいたときの駐ローマ教皇庁スペイン大使であり、一七七七年に外国人のお雇い総理大臣にかわって彼がその地位についたものであった。彼は「石の病気にかかった」と言われるほど道路や橋梁の建設に力を入れたカルロス三世を助けて、スペイン出身の宰相としてはほとんどはじめての有能な、いわゆる能吏であった。
それだけに、大貴族たちや軍人、特にフエンテス伯、ミランダ伯などを中心とするアラゴン一党などからは嫌われていた。華美な社交なども好まなかったし、自ら蓄財につとめることもしなかった。服飾の時代であった一八世紀の華願な服装をまとってはいても、その中身は、いわば近世の政治家、財政家の先駆的なものをもった人である。しかもまたそれだけに、低能で視野の狭い、いや狭いというよりも視野などというものを持ち合わせぬ責族たちの嫉妬を招かねばならなかった。」

「フロリダプランカ伯爵という貴族の称号は、一七八三年にイギリスのアメリカ独立承認の直前にヴェルサイユ条約がむすばれて、イギリスがフランス、スペインと講和をし、スペインがアメリカのフロリダを領有することに決定した、その時の宰相(本名)ホセ・デ・モニーノの功績を賞して授与されたものであった。」

ぼくが伯爵の肖像を描くことになったんだ
「フロリダプランカ伯は他言するなと言われたが、家内も知っていることだし、ぼくは君にも知ってもらいたいんだ。ぼくが伯爵の肖像を描くことになったんだ。これはぼくにはとても役に立つことなのだ。

伯爵がじきじきに「他言するな」と言ったというのは、おそらく人間の嫉妬心がいかなることをしでかしてくれるものであるかを熟知している、この、低い身分から立身出世をした政治家の、ゴヤに対する親切な忠告であったかもしれない。
なぜなら、ゴヤはアラゴン党の一員であり、かつ将来ともその一員でありつづけなければならないのである。それを裏切ってはならない。しかも伯爵自身はアンダルシーア出身であってアラゴン党は二六時中、ホセ・デ・モニーノの地位を切り崩すべく待ち構えていたからである。」

ゴヤは、異常な熱意をもって、たいへんな道具立ての肖像画にとりかかる
「かくてゴヤは、異常なほどの熱意をもって、たいへんな道具立ての肖像画にとりかかる。努力の出し惜しみなどしていてはならないのである。
けれども、総理大臣は頭部のデッサンをするだけの時間をしか割いてくれなかったようである。同じ手紙のなかで、

今日は一日中、モニーノ氏の肖像の頭部を描いてすごした。

と書いている。・・・」

この肖像画・・・人物の”性格”が画面に出て来るという、彼の肖像画の最大の特徴が、萌芽のかたちで出て来ている
「さてこの肖像画であるが、注目すべき点は、すでに、まだまだ無意識裡にということではあろうが、”性格”を見抜いて描いて行く、あるいは描いているうちにおのずから当の人物の”性格”が画面に出て来るという、彼の肖像画の最大の特徴が、萌芽のかたちで出て来ている点である。
・・・・・
鋭い、抜け目のない眼、白い髪のカツラで頭部を内側からしめつけている、その意志の強そうな額、腰部はがっしりと広いが、痩身と言うべきほっそりとした上半身、それらのものがすでに絵画の言葉で人間を語りはじめているのである。」

歴史の上のこととしても、この絵は多くのことを語っている
「緋色に金モールで縁どりをした上着、右肩からはすかいにかけた綬などの、このように豪華な服装をした総理大臣などというものも、もうそろそろ見られなくなる時代が、すでにもう玄関先まで来ているのである。」

自作を、伯爵に提示して承引を乞うている自分自身を描き込んでいる
「・・・前面左の除の部分に、彼は”肖像の頭部”を描いた自作を、伯爵に提示して承引を乞うている自分自身を描き込んでいる。凸凹の額に、突っ張った大きな鼻、哀れげな眼差し、まったく卑屈そのものである。伯爵にお見せしている下絵を、ゴヤはまるで防戦用の盾のようにして捧げもっている。かすかにロまでをあけていて、どうにも醜いのである。引き立て役、というつもりででもあったか。しかも床の上にはパロミーノの著作『絵画論』までを持ち出して、自分が自分の慈恵にもとづいて首相の肖像を描いているのではない旨を、表象している。」

肖像をとりまく附属品がまたたいへんである
「・・・まず大きな置時計。時刻は十時半をさしている。これは如何にこの首相が忙しい人であって、分単位で日程が組まれてあることを示すかのようである。事実フロリダプランカ伯爵に会うことは非常にむずかしかった。・・・
時計の前のデスクには、どこかの地図が置いてある。伯爵の名にちなむアメリカはフロリダ半島の地図でもあろうか。背後には秘書官がいてコンパスをもっている。
机にはアラゴン地方に建設中の帝国運河の設計図がたてかけてある。床には手紙がちらかっている。・・・床に犬までがいてくれなくてさいわい、というほどの小道具だらけである。大サービスという次第である。
背景にはカルロス三世の楕円形の肖像画までが描き込まれている。」

しかし伯爵自身は無関心
「しかし肝腎のフロリダプランカ伯爵自身は、自身の面前に来て、自身の顔を描いた下絵を彼に見せているゴヤと、その下絵そのものに完全に無関心である。・・・」

なぜこれほどの重要人物の肖像画に、画家自身を描き込んだものであろうか
「その理由は、・・・私は、背景にぼんやりと描き込まれた楕円形のカルロス三世像があるところから、これが例のベラスケスの『宮廷官女図』の悪しき模倣ではなかったか、と推量をしている。まだまだ彼は生活の上でも仕事の上でも、いわゆる手からロへの時期を脱していないのである。
ベラスケスのこの最大の傑作の一つにも、画家自身と、背景に鏡に写っている王と女王が描き込まれているのである。」

「ベラスケスのそれは、画中及び画外との重層的な、純粋に知的かつ方法的な視線交換のドラマであるが、ゴヤのそれは社会的ですらある。」

絵は完成したが、画料を払ってくれるのか、何かの推薦状をくれるのか、なんの音沙汰もない
「さて、絵は出来た。
内閣総理大臣ホセ・デ・モニーノ・フロリダプランカ伯爵閣下は、

予は満足である。ゴヤ、じゃまたゆっくり会おう。

と仰せ下された。
・・・ところが、それっきりで、あとは梨のつぶてであった。
ゴヤは何度も面会を求めた。
・・・
画料を払ってくれるともくれないとも、また何かの、つまりは宮廷への推薦状をくれるともくれないとも、なんの音沙汰もなかった。」

フロリダプランカ伯爵は、実はそれどころではなかった
「・・・宮廷内において、一つの政治的な危機が訪れていた。
大貴族出身ではないホセ・デ・モニーノ・フロリダプランカ伯爵は、能吏としてカルロス三世の、特別の寵によってその地位にあったものであった。しかし、時は一八世紀であって、有能な国政の管理者であればそれでいいといった時代ではなかった。
ここで読者諸氏に、マヌエル・ゴドイという近衛騎兵出身の、これも低い身分の出の男の名前を、後日のために覚えておいて頂きたいものである。フロリダブランカ伯爵の星は、すでに光りを失いかけていたのである。異端審問所までが追い討ちをかけて出頭を命じていた。
それに、この能吏は、この地位を利用して熱心に蓄財をするといった、当然なことをしない能吏、つまりはいささか異常な政治家であった。サン・カルロス銀行の設立者の一人であり、取締役を兼ねていて王室財政の確立とその維持にはきわめて情熱的であったが、自身は借金こそ山のようにあっても金をもっていなかった。画家に門像画を描かせて莫大な画料を払ったなどということになれば、高利貸たちはいっせいに怒り出すであろう。」

伯爵は、別の筋(ドン・ルイース親王一家)への紹介の労をとってくれた
「・・・伯爵は直接宮廷への階段にゴヤをのせてやるのではなくて、別の筋への紹介の労をやがてとってくれたものであった。
別の筋というのは、カルロス三世の弟のドン・ルイース親王一家であった。
・・・・・
このドン・ルイース親王は、わずか八歳のときにすでに枢機卿に任命されてあの紫衣をまとった人であった。が、王座のすぐ横で生れ育ったこの人は霊界の権力にも現世の権力にもあまり執着がなく、むしろ自由を愛して暮夜ひそかに紫衣を脱ぎすてて仮面をつけ、巷の劇場や酒場へ出掛けて行った。やがて還俗をしてアラゴンの名家バリァプリーガ家のマリア・テレーサと結婚をした。
となれば、謹厳一方で、狩猟と土建業だけが好きなカルロス三世などよりも、ゴヤにはこの弟君の方がいわばうってつけというものであろう。
それに宮廷用の行儀見習いも、まずこの親王の住むアビラのアレーナス・デ・サン・ペドロ邸で学んだ方がよろしい……。
フロリダプランカ伯帰の眼に間違いはなかったのである。
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ゴヤはもうしばらく待たなければならない。」

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