コバギボウシ 江戸城(皇居)東御苑 2014-08-27
*1783年(天明3年)
1月
この月
・奥州路の豪雪地帯、一片の雪もない暖冬。天明の大飢饉の前兆
*
・仙台藩医工藤平助『赤蝦夷風説考』(上下)。
蝦夷地の交易品により、幕府自らが直接ロシアと交易することを進言。
この年中に幕府に献上。この書物は、老中田沼意次の寵臣三浦庄二の目にとまり、田沼に報告され、田沼は蝦夷地開拓とロシア貿易の開発を考えるに至る。
工藤平助:
紀州藩の医者の家に生まれる。幼年のころ仙台藩の医者工藤丈庵の養子となり、養父の跡を継ぎ仙台藩医となる。
若い頃、服部南郭について学び、青木昆陽の門にも出入りした。
医学は中川淳庵や野呂元丈について学び、長崎にも医学修業としてしばらく滞在。長崎では、オランダ人から当時の世界事情について多くのことを吸収した。
ふつうの医者のように頭を剃らず、常に大刀を腰にしていたといい、心は経世の士人にあったと思われる。
平助は、工藤家に医学修業にきていた松前藩の関係者を通じて、もと蝦夷地の役人であった松前浪人湊源左衛門を知る。
平助は、湊から、東蝦夷の地にロシア人がしばしばやってきていること、ロシア人たちと内地からきた商人たちの間で密貿易が行なわれていることなどを知り、オランダ人の話とを結び合わせて考えると、捨ててはおけない事と思った。
平助は、大通詞吉雄耕牛の協力でロシアの歴史・地誌を調査し、一方、弟子の松前藩士と蝦夷地の本格的調査を始める。
その結果、松前藩の海産物生産量が増え、内高3万石超(表高8千石)であること、1778年ロシア船ナタリア号の根室半島ノッカマップ来航などの事実を知る。
『赤蝦夷風説考』で平助は、ロシアがしだいに領土を拡張して、ずっと東の方にまできていること、漂流日本人を助けて、これらを手なずけ、日本語の研究までして、しばしば北辺に出没し、わが国の諸地方を探検していることなどに注意を促した。
そして、要害を固めることの必要性や、抜荷禁止などに及んだ。
抜荷(密貿易)に関しては、絶対禁止ではなく、公然と認めて長崎におけるような官営貿易にせよと主張した。そうすれば、ロシアの人情もよくわかり、またその土地の状態も明らかになってくる。
ロシアとの貿易には、蝦夷地にある金山を開発してこれにあててもよい、その貿易利潤で、かの地を開拓すれば、さらに大きな利益も生まれてくる、と説いた。
「紅毛書にて考るに、『ヲロシア』の日本交易を好むは、数十年以前よりの趣向と見ゆる故、いか様なる事をしても、交易すべきの心有りと思はるるなり。此の如きの次第故、かたがた以て奉行を置て支配これ無くては、禁制しがたき事故、此の幸便を以て日本の富栄へん事を求るに、兎角蝦夷の出産物も吟味するにしくはなし。蝦夷地の金・銀・銅を以て、我国の薬種共の他国用に相成るべき程にこれ有り、これ依り年々異国渡りの銅をはぶき、抜荷禁制の御法令行者ならば、数十年の内国家の豊なる事掌を指す如くならんかし。惣て国を治るの第一は、是我国の力を厚くするにあり。国の力を厚くするには、とかく外国の宝を我国に入るを第一といふべし。・・・扨日本の力を増には蝦夷の金山をひらき、並びに其の出産物の多くするにしくはなし。蝦夷の金山を開く事、昔より山師共の云ふらす所成が、入用と出高と相当せず、これ依りすたれ有る所なり。然に先に云ふ所の『ヲロシア』と交易の事おこらば、この力を以て開銀・銅に限らず一切の産物、皆我国の力を助くべし」(「赤蝦夷風説考」)。
*
・三国湊、米価高騰。米不足により毎夜物乞いに出る者が増え、町役人は「白米売場」を設け、1匁に白米1升5合で払米を行う。
越前では天明2年が不作で、福井藩は同2年12月、三国湊の津留を行う。
その後も米価は高騰、9月には米商人など3軒が打ち毀され、打毀しを免れた商人は飯・酒を提供したり、米の安売りを強要される。
勝山町でもこの月「米之口留」がなされ、2月には当番の米屋に「御用白米小売所」の提札がかけられ、米相場より「一合安」で売られる。
*
・小浜藩領の村方騒動。三方郡気山村の本村と枝村の騒動。
この月の惣寄合で、村内の市中村の者が、前年暮の勘定がおかしいので帳面をみせるよう要求。
*
・イギリス議会、放棄法通過。アイルランド義勇軍指導者の1人フラッドはアイルランドに対する権限を放棄するようイギリス議会に要求。
*
・この月初旬、モーツアルト(27)、ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749~1838)とヴェッツラル・フォン・プランケンシュテルン男爵の邸で知り合う。
フォン・ヴァルトシュテッテン男爵夫人の招きでウィーン近傍クロスターノイブルクの邸宅に招かれていたが、正月早々にウィーンに戻る。
4日、宮廷顧問官シュピールマン男爵の音楽会に招待される。
この日、新しい弟子としてヨゼーファ・ガーブリエーラ・パールフィ伯爵令嬢を得る。
8日、レチタティーヴォとロンド「わが憧れの希望よ/ああ汝は知らず、いかなる苦しみの」(K416)作曲。アローイジア・ランゲ夫人の演奏会の為。
11日、メールグルーべで「大音楽会」開催。
中旬、自宅で舞踏会を開催(午後6時~翌朝7時)。
15日、「ヴィーナー・ツァイトゥング」に3曲のクラヴィーア協奏曲(K.414(385p),413(387a),415(387b))の予約広告を出すが、失敗に終わる。
*
1月18日
・天明の小浜の打毀し。
天明2年暮の小浜の米価は、同年7月の大風による凶作の影響で高値となり、更に大津米価の高値にも刺激され、一層高騰の様相を示す。
百姓達が年貢米確保の為に小浜の米商人に米の有無を尋ねたところ、米はないとの偽りの答えがあり、百姓達は、時の相場で年貢米銀納を藩に願い出る。
藩は年貢収納に関与する商人達に米の有無を尋ねると、5千俵あると答えたため百姓の銀納願は却下。
しかし、銀納願をした五十谷村助之丞という者が、小浜の町人滝八治郎から米40俵を相場より高値で買い取り、年貢米を確保。
これに対し百姓達は、助之丞と滝八治郎を責め、八治郎から合銀を出させなんとか収まる。
滝八治郎の他に、小物屋次兵衛、白木屋七兵衛、西津の糸屋喜兵衛は、「手通」と結んで国中の米相場を狂わせていると百姓から目されている。
翌天明3年正月頃、百姓らの小物屋次兵衛等の米商人打毀しの風聞しきり。
こうした中、16日昼、遠敷郡根来谷・松永谷・遠敷谷諸方より百姓数百が繰り出し、平野村太左衛門に人足を出すよう要求、太左衛門は「一揆は天下一統の御制禁」と百姓達をたしなめるが、勢いに恐れをなして人足を出し、自らも同道を余儀なくされる。
次に一揆は、遠敷村の孫次郎方へ押し寄せ、同様要求をつきつけるが、孫次郎は要求を拒否し打毀される。
一揆が撞いた遠敷上下宮・国分寺・神宮寺の鐘を聞いて、更に多くの百姓が集まり、一揆は小浜町へ向かう。
藩側役人も一揆発生の注進を受け出張、両者は木崎の鼻で出会う。下中郡奉行江口治部介は一揆側と交渉し、願い事を取り次ぐと約束をし、一揆はその場を引き下がり、その夜は遠敷山・野木山または愛宕山に大篝火を焼き結集。
18日夜、小浜町に打毀しが起こる。
名田庄の一揆50~60が清水町の小物屋次兵衛宅を打毀す。
町年寄木崎藤兵衛・吹田伝右衛門は、町中の提灯点灯と見物禁止を命じる。
町奉行池田仁太夫は、小物屋次兵衛宅に残っている百姓5人を捕縛、大津町の牢に投獄。
一揆勢は、和泉町の滝八治郎宅は戸を閉めていたので打毀せず、片原町の白木屋七兵衛宅は小家ゆえ見出せず、鵜羽小路の吹田伝右衛門・吹田孫右衛門、永三小路の樽屋孫兵衛宅へ踏み込み、酒飯を出させる。
藩役人は、小浜四方を固めた上で、下中郡の郡奉行・代官が一揆の百姓を招き、引き取るように命じた。
一揆側は、郡奉行に対し、年貢米を取り仕切る「手通」廃止、無利息の拝借米の貸付け、牢舎の5人の引渡しを求め、要求が入れられた後引き取る。
21日、小物屋次兵衛・滝八治郎・白木屋七兵衛が会所へ呼び出され、白木屋は戸〆、小物屋と滝は菱垣の処罰を受けた。また、西津の糸屋喜兵衛も戸〆を命じられる。
一方、名田庄の村々は蔵米2千俵拝借を願い許可され、4郡の村々も4千俵、敦賀郡・新御領(越前今立・南条郡の小浜藩領)の村々も1千俵の拝借米を勝ち取る。
その後の4月16日、一揆の張本人詮議がなされ、忠野村の孫左衛門・助十郎が捕縛、湯岡村芝原で獄門。また、同日小物屋次兵衛・滝八治郎に国払いが命じられる。
*
1月20日
・ベルサイユ条約締結(イギリス、フランス・スペインと仮和平条約)。
イギリスはアメリカの独立を認めたほか,スペインに東西フロリダを返還。
*
1月23日
・フランス、作家スタンダール、誕生。
*
*
0 件のコメント:
コメントを投稿