2014年9月23日火曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(3) 「2 順境のなかの逆境」 (その1) 「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。」

三ノ輪 浄閑寺の永井荷風詩碑
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 前章を書きあげてから間もなく、私は小石川伝通院の附近をあるいた。そして、それからまたちょっと日をおいて三ノ輪の浄閑寺へ足をはこんだあと、亀戸行の都バスで隅田川を越えて白鬚(しらひげ)神社をおとずれてから、明治通りづたいに百花園の脇を通って玉の井へまわった帰途、東武鉄道で浅草へ出て伝法院をカメラにおさめてきた。

 ・・・、玉の井についてはいずれ触れねばならぬこと勿論ながら、浄閑寺についてはふたたび記すことがあるまいと思われるので、ここに書き留めておいた。

 《余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はゞ、この浄閑寺の塋域(エイイキ)娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ。》

 吉原遊女の遺骨の投げ込み寺として知られる栄法山清光院浄閑寺(荒川区南千住二丁目一番二号)は、永井荷風の日記『断腸亭日乗』昭和十二年六月二十二日の条に右のように記載されているのにもとづいて、荷風没後の昭和三十八年五月十八日、その境内に詩碑(『偏奇館吟草』中の『震災』を刻字)と筆塚(設計者=谷口書郎)が建碑された浄土宗の寺院で、彼の墳墓そのものは豊島区雑司ケ谷墓地にある。

 《私は祖母様や父上母上なぞと、向島のお花見に出掛けられる年頃になった時、白髯(ママ)神社の土手際に立ってゐる大きな石碑をば、あれは下谷の祖父様の門人達が先生の徳を頌へるために建てたものだと教へられた。(略)石碑は今日も同じ処に立つてゐる。歴史の尊重には全く無頓着な東京市の市政が、此の辺鄙までも市区改正の兇手を拡げさへしなければ、かの石碑は白髯神社境内の装飾品として此の以後も長く同じ処に立ってゐる事であらう。》(『下谷の家』(「三田文学」明治44年2月))

 碑そのものが建てられたのは鷲津毅堂の一周忌にあたる明治十六年十月だが、毅堂の二女であった恒がその父の死に五年先立つ明治十年七月十日に十七歳で嫁した相手が、毅堂の愛弟子で禾原(かげん)または来青と号して漠詩人としても一家をなした荷風の父=永井久一郎で、中村光夫によれば《毅堂は久一郎の経学の師でしたから、今でいへば大学の校長先生のお嬢さんを貰った格で、荷風氏の父は抜群の秀才であり、また謹厳なオ子でもあったのでせう。」ということになる。

 荷風の手になる大正十三年初出の『下谷叢話』(原題『下谷のはなし』)は、外祖父=鷲津毅堂とその周辺の人物の閲歴や事蹟を考証した周密な史伝だが、久一郎関係の要点だを摘記すると"
"彼は嘉永五年(一八五二)尾州愛知郡鳴尾村の素封家にうまれた。永井家は大江広元の二男=長井左衛門尉時広入道から出て永井氏となったというし、久一郎は通称で名は匡温、祖父は匡威であったと・・・

 久一郎の曾祖父=襲吉は星渚と号した漠詩人で、久一郎も十二、三歳から詩を賦して知多郡大高村長寿寺住職の青木可笑や尾張一ノ宮の医家から出た森春濤にまなび、毅堂が名古屋へ来たとき、その塾生となった。そして、明治元年九月徴士となり、毅堂にしたがって京都三条河原の旅宿に滞留したのち、翌二年師とともに上京した。また、そのころ彼は大沼枕山にも漢詩の指導を乞うているが、毅堂の曾祖父=鷲津幽林の長子で竹渓と号した漠詩人が大沼家に入って、枕山はその子息であったから、久一郎と鷲津家との縁故には浅からぬものがあったといわねばならない。

 写真でみる久一郎は恰幅のよい、角張った顔に口髭をたくわえた偉丈夫という感じのする紳士だが、時勢に対してよほどの炯眼をそなえていたのだろう。早くから福沢諭吉のもとで洋学もおさめて、明治四年には尾張侯の命を受けてアメリカに留学し、プリンストン大学にまなんで帰国後明治新政府の官僚となり、のちに荷風となった長男の壮吉が誕生したころには内務省御用掛で、十九年には帝国大学書記官となっている。

 ・・・久一郎は尾張藩の出身ながら、薩長専横時代の官界にあって文部省会計局長にまで栄達したのち、晩年には実業界へ転じて日本郵船の上海ならびに横浜支店長になったが、漢学者=鷲津毅堂に将来を嘱望されて娘をあたえられ、教育行政の道をあるいた人物だけに、家族に対しては多分に儒学者肌の謹厳で専制的な家父長としてのぞんだところがあった様子である。

 《余年々の正月雄司ケ谷墓参の途すがら音羽の町を過るとき、必思出す事あり。そは八九歳のころ、たしか小石川竹早町なる尋常師範学校附属小学校にて交りし友の家なり。音羽の四丁目か五丁目辺の東側に在りき。》

 《玄関も格子戸口もなかりき。縁先に噴井戸ありて井戸側より竹の樋をつたひて池に落入る水の普常にさゝやかなる響を立てたり。此井戸の水は神田上水の流なりといへり。夏には西瓜麦湯心天(ママ)などを井の中に浮べたるを其の家の母なる人余が遊びに行く折取り出して馳走しくれたり。余が金冨(ママ)町の家にはかくの如き噴井戸なく、また西瓜心天の如きものは害ありとて余はロにすることを禁じられ居たれば、殊に珍らしき心地して、此の家を訪ふごとに世間の親達は何故にかくはやさしきぞと、余は幼心に深く我家の厳格なるに引きかへて、人の家の気儘なるを羨しく思ひたりき。或日いつもの如く学校のかへり遊びに行きたるに、噴井戸の側に全身刺青したる男手拭にて其身をぬぐひゐたるを見たり。これは後に聞けば此家の主人にて、即余が学友の父なりしなり。思ふに顔役ならずば火消の頭か何かなるべし。》
(『断腸亭日乗』昭和九年正月元日の条)

 明治四十二年一月の短篇『狐』には、そうした強者としての父と、弱者としての母ならびに自己自身というやや図式的な対置関係の上に立って、幼時の一断面がくりひろげられている。

 明治十二年(一八七九)十二月三日、東京市小石川区金富町四十五番地に生誕した荷風=永井壮吉は、父が帝国大学書記官から山県有朋内閣の文部大臣=芳川顕正の秘書官となって、麹町区永田町一丁目二一番地の官舎に転宅した同二十三年まで生家に居住した。

 荷風の生家は、羽振りのよい官員さんであった父久一郎が、没落階級であった旧幕時代の御家人や旗本の空屋敷が売物になっていたのを三軒ほどひとまとめに買い取って、古びた庭園や木立はそのままに、広い邸宅を新築したものであったという。そのため邸内には古井戸が二つもあって、一つは埋められたが、残る一つとその傍にあった柳の老木が幼い日の荷風には恐怖の対象となった。
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東京 三ノ輪 浄閑寺(投込寺)  永井荷風の詩碑 花又花酔の川柳の碑 新吉原総霊塔 遊女「若紫」の墓

東京 伝通院(でんずういん) 永井荷風育成地 富坂 東京都戦没者霊苑 礫川公園 春日局の像



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