2014年9月25日木曜日

1783年(天明3年)7月17日~9月12日 大国屋光太夫ら神昌丸漂流民16名がアムチトカ島に漂着 モーツアルトが夫妻でザルツブルクに帰郷 パリ(ベルサイユ)条約調印(アメリカ独立戦争終結) 【モーツアルト27歳】

江戸城(皇居)東御苑 2014-09-25
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1783年(天明3年)
7月17日
・フランス、ブザンソン高等法院、全国三部会召集を要求。
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7月20日
・[露暦8月6日、陽8月17日]大国屋光太夫ら神昌丸漂流民16名、アレウト列島(アリューシャン列島)西部のクルイシー諸島(ラット諸島)のアムチトカ島に漂着。約4年の間、7名相次いで病死。

光太夫ら、上陸。
午後2時、先住民族アレウト(アリュート)10数人が現れる。アレウトの先導で内陸に進みロシア人狩猟団(モスクワの富豪ワシーリイ・ジガレフが派遣、頭目ネヴィージモフ)に会う。ネヴィージモフは主人ジガレフより、日本人漂流民と出合った時は、これを保護するよう指示されている。
ロシアの北方植民地は、西はウルップ島・東は北米大陸西岸に及び、食糧・衣料の補給方策として日本との交易が期待されている。
このため、通訳養成のための日本語学校が設立され、日本人漂流民が教師を勤めていた。
この頃、これら教師も没し、日本語学校の存続が危ぶまれている状況。

『北槎聞略』(段落を施す)
「同十九日暮ころに、三五郎海上にて昆布を見つけ、船は地方近く成たるぞと言ける故、皆々大きに力を得いさみ悦びける。
同廿日の暁に磯吉小便に起出て、嶋の如きものを見つけけれども、年少き者の事なれば仔細に見るにも及ばず、例の雲の凝たるならんと思ひて、其の侭に入て臥たりける。
夜明に小市樓に出、寅卯の方を見たるに、靄にてさだかならね共、嶋のかたち見えける故、船中の者共を呼おこせば、皆々樓にかけ上りて見るうちに、もやも次第に晴渡り、四ツ時頃には山もはきと分り、雪なども見え、いよいよ島と見定めければ、船中の悦いはんかたなし。
されども柁さへなき事なれば、船をよすべき手だてもなく、又もや地方に風立なば、眼前に嶋を見かけながら、もとの洋中に吹戻されもやせんと、様々に心くだき、舳を艫にふり直し、小き帆を拵へ、縄を二条柁にひかせ、漸未の刻ばかりに嶋に近づき、四五丁計はなれて、本船に碇をおろし、三五郎、次郎兵衛は此の程より病気にて枕もあがらざりし故、本船の内にて哨船に乗せ、とやかくして吊おろし、太神宮の宮居を遷し、粮米二俵、薪四五束、鍋、釜、衣服、臥被までも積のせ、光大夫は佩刀をさし、自分荷物の木綿市行李つみいれ、合船一同に乗移り磯辺にのり付たるに、一円に木も生ぜざる小島なり。
兎角する間に此方の船を見かけ、嶋人等十一人、何れも被髪にて髭短面色赤黒く跣足にて、鳥の羽を綴りたる膝のかくるゝばかりなる衣を着、棒のさきに雁四五隻宛結着たるをうちかたげ、山の腰を伝ひ来り磯ぎはで出合たるに、人とも鬼とも更に弁がたし。何やらん言かくれども一向に言語通ぜず」

「又或時学士アンガリタより光大夫に、日本の服をもちて学校に参るべしと云越たり。
其の頃は小袖三つ、袷羽織、綿入羽おり、佩刀一把もち居し故、キリロとともなひ右の品々をとりもたせ行ければ、先、日本の服に改させ、高き台に登らしめ、アンガリタ、キリロもおなじく台に登り、その下に学寮の児童等をはじめ諸生残らず呼集め、日本の人を見るべしとてキリロ訳を伝へ、此方の風俗などを生徒等に語り聞せしとぞ。
此の学校に万国寄語の書あり。部を分ちて、日本語をも載たり。何れも語の末に、の事の事と書す。たとへば鼻を鼻の事、耳を耳の事、といふがととし。これは以前此方より漂流せし者どもに問て記せし由。かの問たる時にそれは何の事、かれはこの事と答へたるを、直に之事までを一語と心得てかく記しおきしなるべし。
この書を光大夫に刪定すべきよし望まれける故、日々に通ひて六日にして卒業す。
書中の語多く南部辺の言葉にて、しかも下賎の語多し。
古来、皇朝より彼地に漂流せし事今度共に四度なり。以前は三度はみな南部の人となりしとぞ」

21日、沖合の神昌丸、風に煽られ岩礁に叩きつけられ砕ける。
22日、光太夫ら16名、ロシア人宿営地に移動。ネヴィージモフは光太夫を富裕な商人と思いこむ。
8月9日、三五郎(66)、没。
20日、次郎兵衛、没。
10月16日、安五郎、没。
23日、作次郎、没。
12月17日、清七、没。
20日、長次郎、壊血病で没。生存漂流民は10名となる。漂流民の所有の暦は天明3年のものまでで、天明4年以降は太陽暦(ユリウス暦)となる。ほぼ陰暦の1ヶ月先マイナス11日。
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7月末
・モーツアルト夫妻、ザルツブルクへ出発(3ヶ月滞在)。友人と旧交を暖め、散策・オペラ観劇等ですごす。
夫妻は嬰児をウィーン市外のノイシュティフト250番地の保母にあずけて、ウィーンを出発。
7月29日以前にザルツブルクに到着。
モーツァルトは1780年11月以来、2年9ヶ月近く故郷を離れていた。

姉ナンネルルの日記
「(七月)二十九日。七時のミサに弟と義妹と一緒に行く。ハーゲナウアー、シーデンホーフェン、それにバリザーニを訪ねる。午後、カテルル〔・ギロフスキー〕を訪ねる。そのあと音楽をする・・・お天気だったが夕方雷雨、夜も雷雨。」
「三十日。義妹と十一時半にミラベル宮のミサに行く。」
「三十一日。義妹とミラベル官に十一時半のミサに行く。ボローニャ〔イタリア人のカストラート〕が私たちのところにお祝いに来る。チェッカレッリ来訪。午後チェッカレッリとブルネッティ来訪。ゼぺルル〔レーオボルトの弟子のヨーゼフ・ヴェルフル〕を教える。フィアーラ、ライター、ボローニャとトマゼッリが訪ねてきて、音楽をする。そのあと散歩に出かける。よいお天気だったがかなり暑い日。午後、弟が私にアイスクリームを、夜はポンスを作ってくれた。」
7月30日はナンネルルの誕生日で、翌日の洗礼日に多くの友人がお祝いに訪れた。
ヴォルフガングも姉のために、この日、「ポンスとともに捧げる祝詞」なる詩を書き、献呈している。
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8月
・モーツアルト、「3つのメヌエット」(K363)、「3つのコルトンダンス」(K462(448b))、「2つのガドリール」(K463(448c))、「コントルダンスト長調」(K610)作曲。
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8月13日
・大霜。大豆・小豆・あわ・ひえなど、全滅。
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8月19日
・モーツアルト夫妻の旅行中、長男ライムント死亡(腸閉塞)。
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8月23日
・ナンネルルの日記
「(八月)二十三日の七時にミサ、弟と義妹は私と一緒にヘルメースのところを訪ねる。午後、私と一緒にギロフスキーのところ。そのあとゼぺルルを教える。ボローニャ、ブリンガー、トネルル〔アントーン・パーリス〕、ゼぺルルが私たちと音楽をする。私たちだけがボローニャと散歩に出る。お天気で暑い日。」
「二十四日。大聖堂に行く。そのあと私たち一家で宮廷執事長のところに伺う・・・。」
父レオボルトに姉ナンネルル、ヴォルフガングと妻コンスタンツェが連れ立って、宮廷執事長フランツ・ラクタンツ・フィルミアーン伯爵を訪れたという事は、訪問前にモーツァルトが恐れていた大司教による逮捕が紀憂にすぎなかったことを物語る。
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8月27日
・モーツアルト、盲目の女流クラヴィーア奏者マリア・テレジア・パラディス(1759~1825)と会う。
ナンネルルの日記
「七時のミサに出る。そのあとフルート奏者グループナーさんとパラディス夫人が目の見えない娘さんを連れて私たちのところを訪ねてくる。」
マリーア・テレージア・フォン・パラディスはすぐれた女流クラヴィーア奏者で、母親の付き添いで当時ヨーロッパ中を演奏旅行の途中であった。モーツァルトは翌1784年彼女のためにクラヴィーア協奏曲を1曲(変ロ長調K456)を書くことになる。
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8月27日
・水素ガス利用の気球、初飛行。
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9月
・福井藩領、この月中頃、「くるひ(クルミ)粒程の大あられ」が降り、「夏の土用之内ニ茂日中少シあつく御座候へ共、夜ハよき風(蒲)団なくて一向ふせり申事難成」い状態。
この年、夏土用前から雨天が続き、浅間山噴火の頃から空が曇り始め、秋の稲刈りの時期を過ぎても天気はよくならず。土用中も袷を着用するほどの冷夏であり凶作となる。
「当年ノ不作ニ付米穀ノ高直町在甚困窮、依是所々盗賊・誑偽者多、在々道路ニテ剥取往来者事多シ、近比ニ無之大凶年也」(「橘宗賢伝来年中日録」、福井城下の医師の日記)。
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9月3日
・パリ(ベルサイユ)条約調印、アメリカ独立戦争終結
アメリカ13州、イギリスより独立。スペインはフロリダを奪取。英領ホンデュラスやバハマ諸島を占拠。

フランスは、北は五大湖から西はミシシッピ・ミズーリまでの合衆国の独立を承認。カナダに亡命した忠誠派は帰国の希望がなくなり、その地に留まり、彼らの合衆国における財産は没収され売却される。
合衆国はヨーロッパに広大な連邦民主共和国の模範を提供。
講和条約は、オランダ・イギリス間でも締結されるが、オランダは利益を得ず、商業ブルジョワジーは失望。彼らは総督ヴィレム5世に改革を要望するが、拒否される。
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9月12日
・ナンネルルの日記
「クラヴィーアを弾く青年で、クーネさんのところにいた人が私たちを訪ねてくる。ハイドンさんとフィアーラさんとで四重奏をする」(9月12日)。
「夜食のあとビンツガーさんとヴィートマンさんがヴィオラ二挺で弟のために演奏してくれた」(同17日)。
ミヒャエル・ハイドンは病気にかかり、大司教から命じられていた6曲のヴァイオリンとヴィオラの二重奏曲を仕上げることができないでいた。これを知ったモーツァルトは、そのうちの2曲を急遽代作して、窮地に立った先輩を助けた。ミヒャエルは友情の記念として、モーツァルトの手書きの楽譜を長く手許に置いていたという。
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