北の丸公園 2014-09-29
*應徳2年(1085)
この年
・ヴラチスラフ2世、初めてボヘミア王位を承認される(1代限り)。
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・カスティーリャ王アルフォンソ6世(57)、1082年の暗殺計画の復讐でサラゴーサ包囲。
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・この頃、ギルバート・クリスピン、ウェストミンスタ修道院長就任(任1085頃~1117)。ベック修道院出身。著書「キリスト教徒とユダヤ人の論争」。
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・北宋、神宗、没。哲宗、即位。
哲宗(位1085~1100)の時代は「党争」(旧法党と新法党の権力争い)に明け暮れ、宋の国力は弱体化。
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1月19日
・若狭の西津荘(後白河院領)では勝載料を徴収し、その得分が院庁主典代安倍資良に与えられている。勝載料徴収には院権力が反映(この日付「僧文覚起請文」)。
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2月21日
・筑後国高良宮、焼失。
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5月
・この頃、マインツ宮廷会議。「帝国平和令」宣布。
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5月6日
・カスティーリャ王国アルフォンソ6世(57)、4年間(1081~1085)の包囲後、トレド(かつての西ゴート王国首都)を占領・奪還。
降伏条件:
イスラム教徒、要塞・国王庭園のアルフォンソ6世に引き渡し。以前、トレード王に納めていたのと同額の税をアルフォンソ6世に納める。大モスク(大マスジド)・生命・財産の維持。
希望するイスラム教徒は財産を没収されずに自由に市を離れ・戻ることが出来る。
トレド王廃位させられたカーディルはカスティーリャ軍の支援のもとバレンシア王位につく。
(711年10月、西ゴート王国首都トレド、イスラム教徒により陥落。)
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5月24日
・興福寺僧徒、大和国十市郡の民舎を焼く。
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5月25日
・教皇グレゴリウス7世、サレルノにて没(誕生:1020)。カノッサの屈辱を与えた教皇。
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5月25日
・カスティーリャ王アルフォンソ6世、トレド奪還・入城。「トレド皇帝」称号を使用。トレド総督にシスナンド・ダビーディスを任命。
1086年、初代トレド大司教にクリュニー派サアグン修道院長ベルナール・ド・セディラックを任命(イスラムの大モスクを取上げ、カトリック大聖堂にする)。
翌年の種まき用にトレド地方農民にディナール金貨10万枚を分配。
11世紀中葉、カスティーリャ、ドゥエロ河地区まで進出(1085年アリフォンソ6世のトレド攻略でタホ河の線まで達する)。
507年西ゴート王国首都となる。
711年10月イスラム教徒軍が西ゴート王国ロドリゴ王を破り、首都トレドを陥落。
713年西ゴート王国滅亡。
1082年カスティリア王アルフォンソ6世がトレドを包囲。トレドの支配者アル・カーディルは、アルフォンソ6世と交渉し、トレドを放棄。
その後も抵抗を続けたトレド市民は、寛大な条件を提示したアルフォンソ6世に降伏。
トレド攻略後のアルフォンソ6世のカスティーリャ軍の動向
①サラゴーサ包囲継続。
②家臣アルバル・ファーニェス、バレンシア攻略(バレンシア王ウスマーン廃位、トレード王カーディルをバレンシア王に据える)。
③家臣ガルシーア・ヒメネス、アンダルシーアの奥深くスペイン南東部でイスラム軍を破る。
④セビーリャ王ムータミドに次の事項を要求、拒否される(アルバル・ファーニェスを顧問に迎える。トレードとセビーリャの間の城の引き渡し)。
⑤キリスト教徒とイスラム教徒の中間地帯であるエストレマドゥーラ地方ドゥエロ川とグアダラーマ山脈の間の地域(マディーナ・デル・カンポ、アレバロ、セプルダ、オルメード)の再植民。各都市は市民会議で運営(自ら民兵で守り、独自の法を作り、近隣の田園地帯を治める)。都市民兵は自衛のための軍事組織(国王に助けてもらえないときでも自分たちで守れるとの自信を持つ)。
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7月17日
・ロベール・ギスカール(70)、ギリシャ遠征の途中、ケファレーニア島(イオニア海沿岸の島)の北端アテール岬で没(誕生:1015?、ノルマン貴族、南イタリア全域の支配権を掌握)。
墓標:「ここに世界の恐怖ギスカール眠る。彼によりて、ドイツ人、リグリア人、ローマ自身が王と呼びし人物がローマから追われリ。彼の怒りからは、ペルシア人もアラブ人もマケドニアの軍も、アレクシオスを救うことあたわず。アレクシオスが望みは、ただ逃げることのみ。ヴェネツィアもまた、軍を退くことも海を守ることもあたわず」。
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9月
・ロベール・ギスカール息子ロジェール・ボルサ(位1085~1111、(ロゲリウス、ルッジェーロ、ロベールの2番目の妻サレルノ候女シケルガイタとの子))、アプリア公即位。首都サレルノ(首都から離れた地域はロゲリウス・ボルサの支配から離脱)。
ロゲリウス・ボルサの治世は、公国が分解し公の権威が失墜していく過程。
事実上の独立の君主・叔父シチリア伯ロゲリウス1世(ロベール・ギスカールの末弟)の支持を得て、家臣団の承認を得る。
即位の際、カラーブリアの半分の城をロゲリウス1世に割譲(ロゲリウス1世、カラーブリア全部の城を取得。既に1062年、「1058年の約束」の実行としてロベール・ギスカールよりカラーブリアの半分の城を取得)。異母兄ボヘムンドゥスの反乱の際に、軍事援助を得る代償として領土割譲。1089年カタンザーロ近郊土地。1091年パレルモの半分の領主権と町の行政権。
ロベール・ギスカールの先妻オーブレの子ボヘムンドゥス(ボエモンド)は、カプア候ジョルダーノ1世の後ろ盾によりロジェール=ボルサと対立。ロベール末弟のシチリア伯ロゲリウス1世は、甥のアプーリア公ロジェール・ボルサに形式上臣従する代わりにカラブリア支配権譲渡を要求。また、ロゲリウス1世の仲介により、ロジェール=ボルサとボヘムンドゥスは和解、ボヘムンドゥスはターラントを本拠地とすることになる。カラブリアを掌握したロゲリウス1世は1091年2月、シチリアからイスラム勢力を完全に駆逐、余勢をかってマルタ島も無傷で入手、南イタリアの実力者となる。
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9月21日
・東大寺、若狭封戸からの米100石の代物の仮納返抄を出す。
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10月29日
・孫忠の来航について議される(「朝野群載」)。少なくとも4回目の来航。
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11月
・実仁(さねひと)親王(白河天皇の異母弟、15)、病没。
翌年、白河天皇は自身の皇子善仁親王に譲位。
これは、実仁親王のあとはその弟・輔仁親王を天皇にとの父後三条の遺言に反する。このため、輔仁や彼と結ぶ村上源氏の左大臣俊房以下らとの対立を惹起することになる。
こうした皇位をめぐる軋轢の申、在位中から白河の警護に起用されたのか義家・義綱兄弟(『愚管抄』)。京にあって王権を守護する役割は、本来頼光をはじめとする摂津源氏などが担当してきた。ここに、河内源氏は辺境の夷狄鎮圧はもちろん、王権の守護においても第一人者の地位を確立した。
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