2014年9月24日水曜日

堀田善衛『ゴヤ』(44)「”私は幸福だ”(soy feliz)」(5) 「エウヘーニオ・ドールス氏は、こういう傾きを、一八世紀末の、”革命前社会のマゾヒズム”と適切に呼んだものであった。」

北の丸公園 2014-09-24
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3年も公開が遅れたサン・フランシスコ・エル・グランデ大聖堂の装飾画
「・・・彼(*ゴヤ)がひどく興奮をして描いたサン・フランシスコ・エル・グランデ大聖堂の、ゴヤをも含む七人の画家の競作になる絵の公開が遅れていたのも、実はある子供たちの生死のことと関係があった。
・・・皇太子の、後のカルロス四世に世継ぎの子供・・・。子供は、皇太子妃のマリア・ルイーサに、実に次から次へと、毎年のようにと言いたくなるほどに生れてはいたのである。けれども、これもゴヤの場合と同じく育たなかった。」

「一七八三年にカルロス・エウセビオと名付けられた王子が生れたかと思うと、たちまち死んでしまった。すると、その翌年七月、これまたたちまちマリア・ルイーサが、今度は男の子の双生児を生んだ。
これはめでたい・・・。一人が死んでも、もう一人は残るだろう・・・。
という次第で、マドリードばかりではなく、スペイン全土が喜びに沸いた。首都では三日間ぶっつづけで祝いの行事がつづいた。・・・
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ところが、この男の双生児は、日ならずして、次から、次へと、まるで灯が消えるように、頼りなく死んでしまった。」

「そうして・・・最後の世継ぎが死ぬと、たちまちまたマリア・ルイーサはお産である。
かくてこの時に生れた子が、スペインの将来にとって、また父であるカルロス四世にとっても、まことに禍の多い世継ぎとなるのである。この子は、スペインの誰にとっても待ちに待たれた男の子であったから、成人しての後にフェルナンド・デセアードと仇名された。・・・
・・・
サン・フランシスコ・エル・グランデ大聖堂での、七人の画家たちの手になる装飾画の公開がおくれたのは、宮廷でこういう吉事と凶事が相次いで起ったためであった。公開は一七八四年一二月八日であった。」

「彼(*ゴヤ)がその足踏みをしているあいだに、われわれとしてはオスーナ公爵家に例をもとめて当時の貴族社会なるものに、もう一度目を向けてみる必要があろう。」

オスーナ公爵家のアラメーダの宮殿
「・・・この公爵家がもっていた・・・
このアラメーダの宮殿は、マドリードの西郊、アラゴン街道に沿ったところにあった。現在ではほとんど市内と言ってよいところで、マドリード空港の手前にあたるところにある。・・・
当時、水の不自由だったマドリードにあって、この宮殿の庭園では、水は、それこそ湯水のように使用されていた。水の足りない自然、砂漠の国々やスペインのような国では、水をふんだんに使うことが最大の贅沢であった。噴水は道と道とが出会うところのすべてに様々な工夫をこらしてつくられ、ところどころには人工の滝までがあった。
庭園はフランス様式とアラビア様式との入り混った、曲りくねった細道と緑の迷路であり、思わぬところに小型の城塞がしつらえてあって跳ね橋や大砲までがついている。自然までがロココであり、人工であった。
そうして宮殿は昼用と夜用の二つに分れていて柱廊で結ばれ、大理石の彫刻が立ち並ぶ。ゆるやかな花崗岩の階段が、フランス式の、ドアー兼用の観音開きのガラス戸に導く。スペイン様式の、真黒に塗られた重くて厳しい禁制を表示する玄関扉などではない。
この宮殿の別名を、気まぐれ(El Capricho)といった。巨大にして無用、かつ空虚な”気まぐれ”ではあった。
ここに、オスーナ公爵夫人は縁戚の貴族やマドリードの実業家、名士、芸術家などを招待する。宮殿の中には小さな舞台があって彼女自身が主役となって芝居を上演する。彼女自身の他は、芝居の台本作者や俳優たちその他は全部マドリードから呼びつけなければならぬ。」

オスーナ公爵夫人、名はマリア・ホセーファ・ピメンテール・テーリエス・ヒロン・イ・ボルハ、・・・
「オスーナ公爵夫人、名はマリア・ホセーファ・ピメンテール・テーリエス・ヒロン・イ・ボルハ、ベナベンテ伯爵夫人にして同時に公爵夫人、大公爵夫人の称号が二つ、公爵夫人の称号が七つ乃至八つ。夫の公爵は、彼女自身の従弟であるペニァフィエル侯爵にして、第九代オスーナ公爵であるペドロ・デ・アルカンタラ氏である・・・。」

「・・・、一八世紀スペインの化身のようなものである。こういう家がスペインに約百ほどあった。カルロス一世によって公認されたこれらの大貴族たちは、王の前で帽子をぬがなくてもよく、馬車には四匹の騾馬と四人の松明持ちをつけることが出来た・・・」

「この公爵夫人は、好敵手である皇太子妃、またもう一人の著名な公爵夫人に対抗して何にかけても第一人者でなければならぬ。野外にあっては馬術、彼女は特に遠出が好きだったようである。・・・そうして室内にあってはサロンの女王。それにブルジョア経済の勃興期とあってみれば、経済のことにも手を出す。マドリード経済協会の婦人部長。スペイン各地の広大な領地からの上りは彼女自身が管理監督をする。帳簿の穿鑿もする。それはこれまでのスペインの婦人にあっては考えられもしないことであった。また夫の公爵が海軍元帥の称号をもっていたことから、メノルカ島に英国の支持する反乱が起きたとき、水兵服を着て夫とともに従軍をする。ラテン語、仏、伊、英の四語は自在である。」

オスーナ公爵夫人が、それだけはしなかったこと
「オスーナ公爵夫人が、それだけはしなかったことを、皇太子妃やもう一人の公爵夫人は、実に大ビラにやってのけた。・・・
この当時、マドリードの下層社会、職人たちの間にマホ(男、Majo)、マハ(女、Maja)と称される伊達者流、われわれの側でこれを言えば倶梨伽羅紋々の伝法肌とでも言うべきものが、巷の角々にたむろしていた。
・・・、社会の上層部が空虚さと、退屈さに耐えかねて、この下層部の、ピレネー山脈の彼方からの輸入品、あるいは密輸品ではない、純国産の流行に眼を向けはじめたのである。それは誇り高い、働くことを軽蔑するスペイン男や女どもの、男で言えば骨太い、女で言えば彼女らのしたたるばかりの黒髪にふさわしい服飾であり風俗というべきものであった。
昨日までは、社会の上層部を構成する男女は、あたかも自分が「椿姫」であり、アルマン・デュヴァルであるかのように、結核病み風な柔弱振りを優雅として来たのに、今日は急にしたたかな下町風の伝法肌をよしとしはじめたものであった。」

エウヘーニオ・ドールス氏は、こういう傾きを、一八世紀末の、”革命前社会のマゾヒズム”と適切に呼んだものであった
「社会の上層部に文化創造の力がなくなり、空虚さと退屈さ加減ばかりが大袈裟な舞台を占めはじめれば、自然と、営々として自らの力と才覚だけで生きて行かざるをえない、従って生命力にみちていざるをえない下層部に眼が行くことになる。つまりは貴族階級というものの解体期が、すでに現実に来ているということなのであった。エウヘーニオ・ドールス氏は、こういう傾きを、一八世紀末の、”革命前社会のマゾヒズム”と適切に呼んだものであった。
ルネサンスの時代が、たとえばチェーザレ・ポルジアに見られるように、貴族たちは王に、あるいは教皇になろうとし、賎民たちは、たとえそれが僧称だろうが何だろうが貴族の位階を称号しようとしてありとあらゆることをやらかした、上昇志向の社会であったとすれば、一八世紀は一種の還付期、上層部、つまりはのぼり切った連中が山頂の空気の薄さに耐えかねて、濃い、しかし垢だらけの巷の空気のなかに戻りたいという、下降志向の社会となっていたものであった。
流行の中心であり、女王であったマリー・アントアネットでさえが羊飼いの少女に化けようというのである。革命は、社会の上層部によって、まず用意されたものであった。
革命は支配階級の容認によってはじめて成就するというレーニンのテーゼを掌に見るようなものである。」
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