2015年5月10日日曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(127) 「第19章 一掃された海辺-アジアを襲った「第二の津波」-」(その4終) : 「平和の配当」ではなく「平和のペナルティー」がもたらされた / シカゴ学派の改革が勝利を収めた国ではどこでも、人口の25%から60%にも及ぶ固定的な底辺層が生まれ、社会は一種の戦争状態を呈してきた

カキツバタ 2015-05-07 江戸城(皇居)二の丸庭園
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軍事化する高級化事業
海岸での階級闘争
第二の津波はある意味で、とりわけ衝撃の強い経済的ショック療法だった。
津波がじつに効率よく海岸を一掃してくれたおかげで、通常は何年もかかる住民の立ち退きや地域の高級化(ジェントリフィケーション)が、ものの数日あるいは数週間から数カ月で実施できた。

それは浅黒い肌をした何十万もの貧しい人々(世銀が「非生産的」とみなす漁民たち)が、大半は白い肌をした大富豪たち(「多くの利益をもたらす」観光客)に場所を明け渡すために、自分たちの意思に反して転住を強いられるという構図だった。

まさにグローバル経済が生んだ貧富の二極 - 違う国というより違う世紀に生きている、といったほどに隔たりがあるこの両者が突如、海岸線をめぐって直接対峙することになった。

一方は働く権利を求め、もう一方は遊ぶ権利を主張して。銃で武装した地元警官と民間警備員に援護された、軍事化した高級化事業。
それはまさに海岸での階級闘争だった。

もっとも直接的な衝突の舞台となったタイ
津波襲来から二四時間も経たないうちに、開発業者は以前からリゾート地として狙っていた土地に武装した警備員を送り込み、フェンスで囲った。なかには崩壊した自宅に戻ってわが子の遺体を探したいという被災者が追い払われたケースもある。

こうした土地の強奪行為に対処するため、「タイ津波被災者・支援者連合」が緊急に招集された。ほどなく出された声明文は強い調子で次のように述べている。
「企業家や政治家にとって津波はその願望をかなえてくれるものだった。かねてからリゾートやホテル、カジノやエビ養殖場を建設する計画の障害になっていたコミュニティーが、沿岸地帯から文字どおりきれいさっぱり洗い流されたからである。彼らにとって、海岸地帯は今や空き地になったのだ!」

空き地 - 植民地時代に支配を正当化するのに使われたのは、「無主の地(テラ・ヌリウス)」という概念だった。その土地が空いていて「使われていない」とみなされれば領地として奪い、住民を容赦なく排除できるという論理だ。・・・
アルガムベイの海岸で私が会った漁師ニジャムにとっては、スリランカ政府も植民地主義者と大差はないようだった。・・・瓦礫の散乱する海岸は、まさに現代の「無主の地」なのだ。

スリランカ東部海岸一帯での別の戦争
津波の災害支援金は、喪失によって理不尽なまでの苦しみに苛まれているスリランカ国民に、永続的な平和を構築するチャンスを与えるために寄せられたはずだった。
ところがアルガムベイを含む東部海岸一帯では平和どころか、また別の戦争が始まったかのように見える。それは、支援金の恩恵を受けるのはシンハラ人か、タミル人か、あるいはイスラム教徒かをめぐる民族間の争いであり、そして何よりも、真の恩恵が外国人の手に渡り、自国民はすべて食い物にされてしまうかどうかをめぐる争いだった。

スリランカの首都で、飢えたスリランカ人の横で金をがっぽり貯め込んでいる欧米の支援活動家というイラストのポスター
NGOのロゴマークは沿岸地方一帯のありとあらゆる場所で目につくため、復興事業への人々の怒りの矛先はいきおいNGOに向けられる。
一方、・・・世銀やUSAID、それに政府当局者は、ほとんど都会の事務所にこもりきりだ。
・・・援助と名のつくものを提供しているのはNGOだけだということを考えると、なんとも皮肉な話ではある。
だが同時に、その活動はあまりに不十分であり、人々の怒りを買うのは当然とも言える。
問題のひとつは支援組織があまりに巨大化し、地元住民との間に距離ができてしまったことにある。

スリランカではNGOスタッフの暮らしぶりが国民的な反感を買っているほどだ。実際、私の会ったスリランカ人のほほ全員がNGOスタッフの「自堕落な」(ある牧師の言葉)暮らしぶりを口にした - 高級ホテル、ビーチに面したコテージ、そして最大の非難が集中するのは真っ白い新車のSUVだ。どの支援団体もこうしたSUVを所有しており、スリランカの狭い未舗装道路には不必要な馬力と大きさの車が一日中、避難キャンプの脇を、もうもうと埃を巻き上げながら轟音を立てて走っている。オックスファム、ワールドビジョン、セーブ・ザ・チルドレン、といったロゴマーク入りの旗をなびかせて走る彼らは、まるで異星からやってきた訪問者のようだ。

NGOスタッフの殺害、NGOの撤退
人々の憤りが増大するのを見ていると、スリランカも遠からずイラクやアフガニスタンと同じ道をたどるのではと憂慮せずにはいられなかった。復興とは強奪同然のものだと受けとめられたイラクやアフガニスタンでは、支援活動家が攻撃の対象にされた。

私(ナオミ・クライン)がスリランカを後にして間もなく、その杞憂が現実となった。国際NGOアクション・アゲンスト・ハンガーのスタッフとして救済活動にあたっていた一七人のスリランカ人が、北東部の港湾都市トリンコマリー近郊の事務所で殺害された。これが引き金となって凶悪な襲撃事件が相次ぎ、復興作業もただちにストップした。

これを受けて多くの支援団体がスタッフの安全を守るために撤退し、その他の支援団体も政府が掌握する南部へと拠点を移したため、津波被害のもっとも大きかった東部とタミル人の支配する北部は援助もなく放置されることになった。こうした状況は、復興資金の分配が不平等だという怒りをいっそう燃え上がらせ、二〇〇六年末に行なわれた調査の結果もそれに拍車をかけた。

津波で破壊された家屋の大部分はそのまま放置されているなかで、大統領の選挙区である南部だけは住宅の再建率が一七三%という驚異的な数字を示したのだ。

内戦再開と激化
二〇〇六年七月、タミル・タイガーは停戦合意の終了を宣言。
復興作業は全面ストップし、内戦は再び激化の一途をたどった。
その後一年足らずの間に四〇〇〇人以上の死者が出ている。
東部海岸で津波後に再建された家屋はまだほんの一部だったが、新しく建てられた数百戸の家には銃弾が撃ち込まれ、取り付けたばかりのガラス窓は粉々に割れて屋根は爆撃で崩れ落ちた。

「平和の配当」ではなく「平和のペナルティー」がもたらされた
津波後にスリランカに寄せられた莫大な援助金は、真の意味での「平和の配当」 - より平等な国家を築き、建物や道路と同様に人々の信頼も再建できるよう、分裂した社会を立て直すための資源 - となる貴重な可能性をはらんでいた。
ところが現実にスリランカにもたらされたのは、イラクと同様、「平和のペナルティー」(オタワ大学の国際政治学者ローランド・パリスの言葉)だった。

国民が何よりも和解と緊張緩和を必要としていたまさにそのとき、過酷な課税や戦闘的な経済モデルが導入され、大部分の人々の生活はいっそう逼迫した。

実際、スリランカにもたらされた平和とは、民族紛争の激化にほかならなかった。
土地と統治権と栄光を追い求め、暴力は果てしなく続く。
企業主義による平和は、短期的には土地の強奪を、長期的にはジョン・ヴァーレイの言う「いつか来るかもしれないエレベーター」を人々にもたらした以外に、なんの恩恵ももたらさなかった。

シカゴ学派の改革が勝利を収めた国ではどこでも、人口の二五%から六〇%にも及ぶ固定的な底辺層が生まれ、社会は一種の戦争状態を呈してきた。
だがすでに災害によって国土が荒廃し、民族紛争で傷ついた国に、強制的な移動と文化の破壊を強いる戦闘的な経済モデルを持ち込めば、危険ははるかに増大する。
かつてケインズが論じたように、こうした懲罰的平和には政治的結果が伴う - さらにひどい流血の紛争の勃発も含めて。
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