ヤエドクダミ 2015-05-23 わが家の庭
*「『断腸亭日乗』によれば、《濹東綺譚脱稿》とあるのは昭和十一年十月二十五日だが、「朝日新聞」に連載が開始されたのは翌十二年四月十五日発行の十六日付夕刊からである。したがって、《明治十二年己(つちのと)の卯の年。》うまれの大江匡の年齢は、執筆時の荷風と同じかぞえ年五十八歳になっている。相手のお雪は二十四歳・・・。・・・戦前の五十八歳は、大変な老人と考えられても仕方のない年齢であった・・・。それを荷風は、あえて自己自身と同年にしたのである。大江匡を永井荷風と思わせるために、そこまで徹底しなくてはならなかったということは、『濹東綺譚』が実体験そのものではなくて、題名のしめすとおり綺譚 - すなわち面白く仕組まれたつくりものがたりであったからにほかならない。」
「荷風が《初て玉の井の路地を歩みたりしは、昭和七年の正月堀切四木の放水路堤防を歩みし帰り道》であったのにもかかわらず、そのときにはかくべつの興味もひかれなかったのか、『断腸亭日乗』に《夜京橋明治屋にて牛酪を購ひ浅草公園を歩み乗合自働車にて玉の井に至り陋巷を巡見す。》という記載があるのは四年後の十一年三月三十一日である。そして、四月に入ると十四日と二十一日にもまた出向いて、二十二日には『玉の井』(のち『寺じまの記』)を書きあげているばかりではない。明らかなものだけでも五月中に七回、六月二回、七月一回、九月には十三回、『濹東綺譚』が書きあげられた十月には十二回という玉の井がよいがおこなわれている。
そんな中で、お雪のモデルとおぼしい女の記述が最初に確認できるのは十月二十五日の脱稿に四十八日先立つ九月七日のことだが、《余はこの道の女には心安くなる方法をよく知りたれば、訪ふ時には必雷門あたりにて手軽き土産物を買ひて携へ行くなり。》というような記述があるところからも明らかなように、知り合ったのは当然それよりも以前である。にもかかわらず、このときにはまだ作品の構想はまとまっていなかったらしい。腹案を得るまでの経過を追ってみよう。
《晴れて風やゝ涼しくなりぬ。読書半日。晩飯すまして後隅田公園に往く。震災後変り果てたる浅草の町を材料となし一篇の小説をつくりたしと思ふなり。言問橋をわたり秋葉裏の色町を歩み玉の井に至り、いつも憩む家に立寄るに、女は扁桃線(ママ)を病みて下坐敷の暗き中に古蚊帳つりて伏しゐたり。十一時頃まで語りてかへる。蚊の声きくもむかしめきて亦おもむきありき》(九月十三日)
《夜玉の井に徃く。途中牛の御前祭礼のかざり物を見る。いつもの家にて女供と白玉を食す。一碗三十銭とは高価驚くべし。この夜女は根下りの丸髷に赤き手柄をかけ、洒(ママ)木綿の肌襦袢に短き腰巻の赤きをしめたり。この風俗余をして明治四十年代のむかしを思起さしめたり。但しその頃には暑中赤きで(ママ)がらや真赤な湯もじを用るものは素人にもなかりき。根下りの丸髷、総髪の銀杏返しは仇ツぼく見えてよきものなり。秋の蚊の群れ来るを破団扇にてばたばたと叩く響も亦むかしを思返すよすがなり。》(九月十五日)
《電車にて向嶋秋葉神社前終点に至りそれより雨中徒歩玉の井に行きいつもの家を訪ふ。横浜ちやぶ屋にゐたりしと云ふ女一人新に加りたり。雨降りてやまず。路地の中人の跫書絶え、家の中にて蚊の鳴く声耳立つのみ。長火鉢囲みて女二人の身の上ばなし聞きて十時過に帰る。》(九月十九日)
《晡下家を出で尾張町不二あいす店に飯す。日曜日にて街上雑遝(ざつとう)甚しければ電車にて今宵もまた玉の井の女を訪ふ。この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。》(九月二十日)
この日の欄外に荷風は《濹東綺譚起稿》と朱書しているが、文中の《腹案》には、恐らく『失踪』という劇中劇ないし作中作の挿入という着想がふくまれていたに相違ない。
この劇中劇『失踪』の採用をアンドレ・ジイドの『バリュード』と『贋金つくり』の影響とみることは、今やほとんど定説と化している・・・。・・・、荷風はなぜ『失踪』の挿入を必要としたのだろうか。・・・」
「作品と事実の順序は逆だろうと私はいったが、すでにみてきたように、荷風は例の好奇心から玉の井へ足を踏み入れた。そして、これは書けるぞという手応えを感じた。するうち、お雪のモデルに遭遇した。それはいつのことか、『断腸亭日乗』からは正確な月日を把握しかぬるが、『寺じまの記』に書かれている女がお雪のモデルと別人であることは明白だから、作品のような出会いではなかったこと - すくなくとも玉の井探索の最初の日からお雪のモデルにゆきあったのではなかったことは確実である。
そして、モデルを得たことによって創作の意慾はようやく高まっていくが、自身の五十八歳という年齢は、前にのべたような理由で老齢に過ぎる。読者に対する説得力が稀薄だが、五十一歳ならばすこしは納得が得られるだろう。そこで種田順平なる人物が創作され、お雪と同年のすみ子との交情をえがけば、大江匡とお雪との仲も承認ないし納得を得ることになる。つまり、挿話としての『失踪』の設定は、大江匡とお雪との仲があり得べき現実だということの裏づけ作業であったというのが、私の見方にほかならない。
こういう私の考え方には、恐らく同意をしめす人などほとんどあるまい。が、しかし、と私は思う。作中での経過にすぎないが、さんざん書きなやんでいたはずの『失踪』も、最後にはわずか三日ほどの短時日のうちにばたばたと書きあげられてしまったらしく、その結末についてはいつの間にかひとことも触れぬほど冷たく脇へ突き放されてしまって尻切れ蜻蛉に終っているのも、それが、『濹東綺譚』の物語的進行に必要とされる役割をすでに果してしまっていたからに相違あるまい。用事がすんだから、お払い箱になってしまったのである。『失踪』を、私が実用性から創作された挿話だと考えざるを得ないゆえんである。
それとおなじ眼でお雪をみては誤まりとなるが、《わたくし》が意識して作者自身になぞらえられている以上、二人が結ばれるはずのないことは最初からわかっている。したがって、時おり遠くの空に稲妻がきらめく蒸暑い夜、お雪が《わたくし》の手をとって《あなた、おかみさんにしてくれない。》と言う瞬間から、二人はどのようにしてわかれるか、読者の興味はそこのところにつながれる。が、その期待は、大きく裏切られる。
私はすでに『濹東綺譚』を三十年前の明治四十年代に回帰した復古的な作品だとみて、荷風は自身のありとあらゆる過去の文学的蓄積をこの一作に動員しているといったが、彼はお雪とのわかれにまで同様の筆法をもちいてしまっている。われわれは聞きなれた彼の独身論を、またしても聞かされねばならないのである。
《わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉はれて、彼女達の望むがまゝ家に納れて箕帚(キソウ)を把らせたこともあつたが、然しそれは皆失敗に終った。彼女達は一たび其境遇を替へ、其身を卑しいものではないと思ふやうになれば一変して教ふ可からざる懶婦(ランプ)となるか、然らざれば制御しがたい悍婦になつてしまふからであった。
お雪はいつとはなく、わたくしの力に依つて、境遇を一変させやうと云ふ心を起してゐる。懶婦か悍婦かにならうとしてゐる。お雪の後半生をして懶婦たらしめず、悍婦たらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、失敗の経験にのみ富んでゐるわたくしではなくして、前途に猶多くの歳月を持つてゐる人でなければならない。然し今、これを説いてもお雪には決して分らう筈がない。お雪はわたくしの二重人格の一面だけしか見てゐない。わたくしはお雪の窺ひ知らぬ他の一面を曝露して、其非を知らしめるのは容易である。それを承知しながら、わたくしが猶躊躇してゐるのは心に忍びないところがあつたからだ。これはわたくしを庇ふのではない。お雪が自らその誤解を覚つた時、甚しく失望し、甚しく悲しみはしまいかと云ふことをわたくしは恐れて居たからである。》
「・・・私は・・・、その後もこのおためごかしというほかはない一節に接する度ごとに、憤りに似た不快さをおぼえる。それゆえ平野謙が『永井荷風』(『芸術と実生活』所収)で、《愛すればこそ大江は「殉教者の如くに」お雪から遠ざかるしかなかったのだ》としている佐藤春夫説を《ヒイキの引きだおし》だときめつけて、次のようにのべている一節に胸のつかえがさがる思いをあじわう。
《売笑は堕落でなく、一家の主婦として懶婦、悍婦となることこそ堕落とする荷風固有の倫理感そのものも、私は普遍性をもたぬ固陋の観念にすぎぬと思うものだが、いましばらくそのことは措くとして、そもそもお雪は「所謂良家に主婦たる」ことを希ったであろうか。荷風も佐藤春夫も、そのみやすい一点にかぎって一種の盲点に陥っている。
作者のくりかえすように、大江匡とお雪とはその本名も生い立ちも知らずにはかなく生別したものである。すなわち、お雪は大江を目して、最後まで「淫猥の書画を商う者」と誤認しており、そのような日蔭ものの中年男なればこそ、「おかみさんにしてくれない」と囁く気にもなったのである。そのお雪は、大江がすでに六十歳に手の届く老人であることさえ、弁えていない。秘密の出版にしたがうような日蔭ものであれば、と思いたったお雪のいじらしい自卑と謙抑の心根をも汲みとらずして、なんのヒューマニズムぞ。ここに佐藤春夫の盲点があり、『濹東綺譚』全篇の盲点がある。「おかみさんにしてくれない」とさえいえば、懶婦か悍婦たらんと希うものと誤認する根性は、小金持の若旦那が人さえ寄ってくれば金をひさだす算段かと邪推するのと一般ではないか。》
名論であり、卓説だと信じるがゆえに引いたが、ありとあらゆる過去の業績を動員した復古的な作品を書くほどなら、荷風はなぜ『深川の唄』のあの末尾、《あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチヱの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……》という一節を思い出してもちいなったのだろう。大江匡にとっては、それが真実で、お雪を懶婦悍婦(らんぷかんぷ)にするに忍びないなどとは大嘘である。自己保身への願いをかくして、相手へのいたわりに転嫁している態度を、わたくしはおためごかしとして憤らずにいられないのである。
が、しかし、そのような大欠点に強い反感をおぼえながらも、なおかつ 『濹東綺譚』が私を惹きつけ、何度も反復して読み返さずにいられなくしているものは、全篇にながれている詩情のためである。私は『濹東綺譚』における荷風を、風俗作家ではなくて詩人だと本章のはじめにのべたが、本書の執筆に際して三回も作品の背景となった土地をおとずれて、往時の不潔で醜悪なさまをかえりみるにつけても、あの汚濁のなかからこのような美しい作品をつむぎ出した荷風の詩人としての力倆を、あらためて痛感せずにはいられなかった。」
「・・・『濹東綺譚』が発表された年ではなく、実際に執筆された年 - 昭和十一年二月二十四日の 『断腸亭日乗』には、《余去年の六七月頃より色慾頓挫したる事を感じ出したり。》《色慾消磨し尽せば人の最後は遠からざるなり。依てこゝに終焉の時の事をしるし置かむとす。》という記述があって、《遺書の草案》なるものが記載されている。そして、『濹東綺譚』には《今の世から見捨てられた一老作家の、他分(ママ)そが最後の作》などという文字までがみられる。」
「・・・還暦をまぢかにひかえて、事実はどうあろうとも、荷風は迫りくる老いの自覚のなかで男性としての自身が終ること - すくなくともそれが遠くないことを意識していた。男性との永別の自意識がリアルな散文精神から遠ざからせて詩的精神におもむかせ、『濹東綺譚』を書かせたのだと、私は思う。見聞記だなどとのんきなことを考える人は、老いの自覚がもたらす寂蓼感を知らないのだろう。
『ひかげの花』で彼なりの散文精神の極北にちかい地点に立った荷風が、一転して詩的精神を展開したのは、恐らくそのことと無関係ではなかったはずである。『濹東綺譚』は荷風にとってひとつの終りではあっても、なにかのはじめではなかった。」
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