2015年5月8日金曜日

「沖縄近現代史の中の現在」 (その2終) (比屋根照夫 『世界』2015.4臨時増刊) : 「近現代史沖縄としての現在」とは、近代以降今日に至るまでの国家に抗う精神のことだ。

沖縄近現代史の中の現在 (その2)
比屋根照夫(『世界』2015.4臨時増刊 - 沖縄 何が起きているのか)

5.米国憲法の理念から沖縄の正当性を主張

さて、戦後七〇年に及ぶ軍事基地の重圧、そこから派生する事件・事故。人間の尊厳と命を脅かす軍事植民地体制。沖縄は月城が指摘するように、本当に「奴隷的存在」、沖縄虐待、沖縄差別から解放されたであろうか。否である。そのために、戦後沖縄は人権回復、自主自立の道を苦悩の内に模索してきた。ようやくたどり着いた結論が、日本政府への抗議を込めた二〇〇四年建白書の提起の運動であった。この建白書運動こそ戦後沖縄の苦難の道程を物語るものであって、建白書が次々と出された背景には何があったのか。まず沖縄戦の二〇万余に及ぶ膨大な犠牲である。

沖縄は地上戦が展開された唯一の場所であった。

以下はこの悲惨な体験を告白した仲宗根政善教師の文章である。仲宗根はひめゆり学徒を引率し、女学生と最後まで行動を共にした良心的な教師である。

「広島・長崎では原爆が一瞬にして二〇万余の人命を奪った。人類始まって以来のもっとも衝撃的な事件であり、世界の人々も永久に忘れず、平和への原点とするであろう。
沖縄戦では二〇余万人の人間が死んだ。しかし、一瞬にして死んだのではなく、三ケ月余にわたり、一人一人が次々に死んでいった。はじめての国内戦であり、敵によって殺されたばかりか、日本兵からも虐殺されるし、集団自決に追い込まれて、親が子を、子が親を凶器で殺し合う惨状を呈して、この世の地獄と化した。広島とは違った戦争の残虐非道をむき出しにした。忘れ去られるべきではない」

軍、官、民、共生共死の一体化が沖縄戦の方針であったから、軍人も民間人も混在した中で沖縄戦が戦われたため、これだけの膨大な犠牲を出した。さらに注目すべきことは、日本軍が出した命令書である。「爾今軍人軍属ヲ問ハズ、標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シタル者ハ間諜(スパイ)トシテ処分スル」。こういう悲惨な体験を経て沖縄は戦後を迎えた。しかも、沖縄はまさに日本の「国体護持」、本土持久戦のため「捨石」にされ、その上、膨大な犠牲を出し、日本から分離されてアメリカの統治下におかれた。

サンフランシスコ日米講和条約、それとともに締結された日米安全保障条約。それらは沖縄の民意・合意の上に成立したものではなく、一方的に押し付けられたものであった。

こうして開始された戦後沖縄の歴史は、人権獲得、民主主義獲得への苦闘の歴史であった。戦後日本は戦後改革によって上から平和憲法を与えられ、軍国主義、封建主義が一掃され、民主化の過程を辿った。しかし、日本の独立と対極的に、米軍統治下、占領軍支配下の沖縄では基本的人権さえ踏みにじられ、住民は生きていくためのぎりぎりの主張として自由、正義、平和、基本的人権を下からの人権闘争によって自らの力で勝ち取ってきた。兆民流に言えば、まさに「恢復的民権」そのものであった。

このような戦後沖縄の住民体験を背景に、ぎりぎりの抵抗として、建白書・建議書、決議、請願、陳情がそれぞれの政治的局面で繰り返し提起されたのは、まさに沖縄戦後史の輝ける抵抗運動の遺産である。その最初の局面が一九五〇年代の強硬な米軍政策に対する「島ぐるみ土地闘争」である。『プライス勧告とその反論』は、当時の四原則貫徹実践本部が出したものである。プライス勧告とは、簡単にいえば沖縄の軍用地を安価の値段で永久に使用してもよいという勧告である。『プライス勧告とその反論』の「まえがき」をみてほしい。

「軍用地問題は、沖縄におけるもっとも基本的な而も住民の日常生活に直結する問題であって、これが根本的な解決なくしては住民の生活を維持し権利を全うすることは到底できない。従ってわれわれは、再三に亘り地料の適正補償及び毎年払等所謂『土地問題に関する四原則』を堅持し且つ要望しつづけてきたのであるが、今回突如としてプライス勧告を見るに至ったことは、まことに遺憾千万である。プライス勧告によると米国憲法の基本的要素である『文官優位』と反対に『沖縄の場合、軍事的必要性が断固として優先する』と公言している以上、これはまさしくプライス勧告の結論であると思われる」

日本国憲法の適用がなかった沖縄において、沖縄の住民運動が根拠にしたのは米国憲法であった。米国憲法を貫く正義や普遍的な価値、あるいは「文官優位」の原則を沖縄にも適用し、沖縄住民の生活権を保障せよと米国に反論した。これは日本の住民運動史上に例がなく、米国憲法の理念を逆手にとって沖縄の正当性を主張したのである。

「米国議会は地料の一括払い並びに新規接収を決定することは明らかである。これは全く住民の意思を無視した非民主的行為であってわれわれの絶対に容認できないところである。よってわれわれは、あくまで『四原則』貫徹のために断固たる決意を新たにし更に一糸乱れぬ住民組織を強化し、その態勢の上にたって無抵抗の抵抗を続けなければならない」

この「まえがき」が明らかにしているのは、島ぐるみ土地闘争における非暴力主義、「無抵抗の抵抗」の思想である。この思想の淵源こそ、英国との苛烈な独立闘争の中で、いかなる軍事的な暴力にも非暴力主義で立ち向かい、インドの独立を達成したガンジーの非暴力思想であった。「反論」は以下のように高らかに言う。

「そしてこの際、この抵抗は何か強力な思想的支えが絶対必要であると思われる。かつてガンジーが英国の印度植民地化政策に対して常に命を賭して反対し、英国の人間的覚醒による印度解放を望みつつ秩序を保ち、権威を発揮したためにその実現を見るに至ったことは実に彼の強力な思想をその支えとしていたからである。この時に臨み、この土地問題はどうしても勝たねばならない。われはこれにならい、鉄の団結をもってこれに対処しあくまでもわが国土を死守すべきである。しかも、事態は今その困難を堅く身につけたまま白日の下にさらされているが、この土地問題はどうしても勝たなければならない」

ここで注目されなければならないのは、ガンジーが印度植民地化政策に対して生命を賭け、英国人の人間的覚醒によるインド解放を期して、非暴力運動を展開し、独立を達成したとの捉え方だ。これを現在に引き寄せて言えば、米国人の人間的覚醒を期しての沖縄解放の反基地・非暴力運動の展開であった言えよう。この間、沖縄の抵抗運動は一度たりとも、武力を行使することなく、無抵抗の抵抗という徹底した非暴力主義を貫き、この間のオスプレイ配備反対運動でも、普天間基地のゲート前に座り込むことによって基地封鎖を実現した。

7.屋良建議書の描いた沖縄像

島ぐるみ土地闘争で米国が一括払い方針を撒回した後も、米国が引き起こす事件・事故はなくならず、幼女誘拐暴行事件に続いて、一九五九年には米軍のジェット機が石川市の宮森小学校に墜落し、一七人死亡、二一〇人負傷という大惨事を起こした。六〇年代に入ると祖国復帰協議会が結成され、自治権の回復を求める住民の運動、とりわけ教職員会を中心とする教公二法阻止闘争、主席公選の要求など、沖縄の運動は大きな昂場に向かっていった。米軍による人権蹂躙、自治の否定という状況のなかで、沖縄側は民主主義の理念を武器にして、主席公選やさまざまな運動を展開していった。

復帰運動が昂揚するなかで、米軍基地に対する真正面からの批判や抗議が噴出した。嘉手納基地のジェット燃料が地下水に流れ込んで井戸が燃えあがり、生活権の観点からも抗議の声が高まった。ベトナム戦争の激化と共に、B52の駐留が北爆を目的とすることも明確になり、復帰運動は米軍基地撤去、反戦平和の運動へと質的に大きな転換を遂げる。そのうえ嘉手納基地では、B52が墜落して大爆発する事故が起こり、基地沖縄の存在は住民の生命を脅かすものとして、基地撤去運動はまさに空前の昂場を迎える。

こうした状況を背景に当時の琉球政府が作成したのが「復帰措置に関する建議書」である。当時の屋良朝苗主席の名称を取り、「屋良建議書」と呼称されるこの建白書は、復帰半年前の一九七一年一一月に日本政府に提出されるはずだった。

この建議書は復帰直前の沖縄の諸問題を詳細に論じており、現在でも通用する要求が盛り込まれている。目次を見れば分るように、生活に密接に関わる社会保障、年金制度、社会福祉、医療保障、労働問題から、安保・自衛隊の沖縄問題にいたるまで多岐に亘っている。これを読むと、当時の琉球政府の高い政策提言能力とともに、核も基地もない沖縄を作り上げたいという思いがひしひしと伝わってくる。

「はじめに」の一部をここに引用してみよう。

「沖縄の祖国復帰はいよいよ目前に迫りました。その復帰への過程も、具体的には佐藤・ニクソン共同声明に始まり、返還協定調印を経て、今やその承認と関係法案の制定のため開かれている第六七臨時国会、いわゆる沖縄国会の山場を迎えております。・・・あの悲惨な戦争の結果、自らの意志に反し、本土から行政的に分離されながらも、一途に本土への復帰を求め続けてきた沖縄百万県民は、この国会の成り行きを重大な関心をもって見守っております。
顧みますと沖縄はその長い歴史の上でさまざまな運命を辿ってきました。戦前の平和の島沖縄は、その地理的へき地性とそれに加うるに沖縄に対する国民的な正しい理解の欠如等が重なり、終始政治的にも経済的にも恵まれない不利不運な下での生活を余儀なくされてきました。その上に戦争による苛酷な犠牲、十数万の尊い人命の損失、貴重なる文化遺産の壊滅、続く二六年の苦渋に充ちた試練、思えば長い苦しい茨の道程でありました。これはまさに国民的十字架を一身にになって、国の敗戦の悲劇を象徴する姿ともいえましょう」

建議書は、このように国民的十字架を一身に担い、基地による痛ましい悲劇や事故に見舞われ、多くの禍根を残したまま「復帰の歴史的転換期」に入ったと述べ、「この重要な時機にあたり、私は復帰の主人公たる沖縄百万県民を代表し、県民の心底から志向する復帰の実現を期しての県民の訴えをいたします」と、屋良自身が建議書の目的を鮮明にしている。

戦後二六年について「基地の中に沖縄がある」「基地や核兵器や毒ガス兵器に囲まれて生活をしてきた」「異民族による軍事優先政策の下で、政治的諸権利が著しく制限され、基本的人権すら侵害されてきた」と述べ、県民が復帰を願ったのは「国の平和憲法の下で基本的人権の保障を願望していたから」「復帰に当っては、やはり従来通りの基地の島としてではなく、基地のない平和の島としての復帰を強く望んでおります」と、復帰にあたっての住民の顕いを示している。

更に、基地についての反対の世論は「八〇%以上」「自衛隊の沖縄配備については、絶対多数が反対を表明している」と述べている。「核抜き本土並み返還」についても「県民の大半が納得せず、疑惑と不安をもっている」とし、「安保と沖縄基地」について「安保が沖縄の安全にとって役立つと言うより、危険だとする評価が圧倒的に高い」「安保には必然的に反対せざるを得ない」と論じている。

今本土では日米同盟強化を主張し、安保条約は抑止力として日本のためになるという議論が盛んだが、当時も今も安保に対する危険性の認識は変わりない。

建議書はさらに沖縄県民は過去の苦渋に充ちた歴史と貴重な体験から、復帰にあたっては、まず何よりも県民の福祉を最優先に考える基本原則に立って、1、地方自治県の確立、2、反戦平和の理念をつらぬく、3、基本的人権の確立、4、県民本位の経済開発等を骨組とする新生沖縄の像を日本政府に提示している。

そして最後に、次のように締めくくっている。

「そこで私は、沖縄問題の重大な段階において、将来の歴史に悔を残さないため、また歴史の証言者として、沖縄県民の要求や考え方等をここに集約し、県民を代表し、あえて建議するものであります。政府ならびに国会はこの沖縄県民の最終的な建議に謙虚に耳を傾けて、県民の中にある不満、不安、疑惑、意見、要求を十分にくみ取ってもらいたいと思います。そして、県民の立場に立って慎重に審議をつくし、論議を重ね民意に応えて最大最善の努力を払っていただき、党派的立場をこえて、たがいに重大なる責任をもち合って、真に沖縄県民の心に思いをいたし、県民はじめ大方の国民が納得してもらえる結論を導き出して復帰を実現させてもらうよう、ここに強く要請いたします」

この建議書を通して、不条理に対する沖縄の抵抗、国家に抗う精神、自主・自立を求める精神が生き生きと伝わってくる。そこには、基本的人権や自治権、反戦平和の良念に裏づけられた新しい沖縄像がうたいあげられている。

そして、忘れもしない、七一年一一月一七日。屋良主席がこの建議書を携えて羽田空港に到着したその日の夕刻。衆議院沖縄返還特別委員会は、与野党激突の中で、沖縄返還協定を強行採決した。そのため、屋艮建議書に込められた沖縄の思いは、日本政府に突き付けられることもなく、ついに「幻の建議書」となってしまった。

8.噴出する根源的な問い

復帰後の沖縄の現状は県民が求めたものとは裏腹に、軍事基地が占拠している状況は全く変わってはいない。まさに「裏切られた復帰」でしかない。

日本全土の〇・六%の面積に過ぎない沖縄に七四%の基地が集中的に存在し、一九九六年に日米政府が約束した普天間基地返還は一歩も進んでいない。政府はアメリカに実行を迫る交渉さえできない。逆に、辺野古の海を埋め立て、そこに新しい基地を作る。北部の東村字高江の美しい山の集落の周りにオスプレイのヘリパッドを造る。そして、反対・賛成と住民同士を争わせる構図が作られている。この怒りは四一市町村長が全員一致して提出した建白書に集約されている。

沖縄にとってこの国は一体何なのか。根源的な問いが様々な分野から噴出している。琉球新報や沖縄タイムスの論説しかりである。沖縄はこれまで口にしなかったことも公然と話すようになってきた。独立論の噴出もそうである。今の沖縄の思想潮流に横たわっているのは、今日に至るまで続く権力の不条理に対する怒り、鬱積する不満である。オスプレイ配備に反対する建白書に屋艮建議書ともトーンが違った、強い沖縄の決意が込められているのは、そのことを物語っている。

日本という国家と沖縄の間にできた悲しみの深淵 - 。沖縄に押し寄せてくる様々な問題、たとえば集団的自衛権が行使されたとき、真っ先に狙われるのは沖縄の米軍基地である。尖閣問題もそうだ。なぜ尖閣の問題を日本と中国のナショナリズムの問題として扱うのか。日中友好の出発点に立ったとき、今のような国のやり方がどうして妥当といえるのか。沖縄はあらゆる意味で危機の最前線に立たされつつある。こういうことが沖縄の人々の不安の根源にあり、国に対する怒りとなって拡大し続けている。辺野古基地建設に反対する名護市長を生み出した背景にあるのは、まさにこうした厳粛な事実であり、人間の尊厳を売り渡さなかったということである。

要するに、沖縄の建白書がもっている意味とは何かと言えば、沖縄の民主主義、立憲主義、平和主義に基づく異議申し立て、国家に抗う精神、自主・自立を求める精神、自己決定権の確立である。そういう沖縄人の誇りの結晶としてこの建白書は位置づけることができる。

沖縄の建白書はこれに尽きるものではない。戦後沖縄の歴史の中に、抗議、公論の建白の理念は連綿と息づいている。「近現代史沖縄としての現在」とは、近代以降今日に至るまでの国家に抗う精神のことだ。

(おわり)

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