2015年5月11日月曜日

少年工の犠牲口外できず (『朝日新聞』) : 「ドーリットル空襲」と呼ばれる初空襲 川崎市内では・・・死者34人・負傷者50人 軍は「敵機九機を撃墜」と発表し、新聞は焼夷弾を消し止めた隣組の奮闘などを伝えるばかり   

『朝日新聞』2015-05-08


 日本軍の進撃は、米国民の報復感情を募らせていた。戦意高揚のため、一矢報いようと計画したのが、指揮官の名前を取って「ドーリットル空襲」と呼ばれる初空襲。日本の東方海上に空母で近づき、軍需工場などを奇襲する作戦だった。18日(*1942年4月18日)朝、東京から約1200キロ離れた太平洋上から爆撃機B25が16機飛び立ち、昼過ぎから東京や川崎、名古屋や神戸などを襲
った。

 「北工場に爆弾が落ちたぞ!」。同僚の声で現場に走ると、自分たちが技術などを学んだ養成工用の教室が血の海になっていた。顔見知りの少年工たちが、隣の倉庫に落ちた爆弾の爆風で犠牲になった。

 「即死した中には高等小学校の同級生の須賀君もいた。ショックで声も出なかった」と加藤さん。しかし、この日の帰り際、退役軍人の指導教官から「今日のことは親兄弟にも口外するな」と言われ、涙も流すことができなかった。

 県聾の記録によれば、川崎市内では横山工業のほか日本鋼管などが被弾し、死者34人、負傷者50人が出た。ところが、当時の軍や報道が伝えた「事実」は全く違った。軍は「敵機九機を撃墜」と発表し、新聞は焼夷弾を消し止めた隣組の奮闘などを伝えるばかり

 加藤さん自身、教官の指導に従って口をつぐみ続けた。45年の大空襲で家族が焼け出されても、「日本が勝つ」との信念は揺るがなかった。19歳で陸軍に志願。山形県に駐在する歩兵連隊で敗戦を迎え、しばらく虚脱状態になった。


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