北の丸公園 2016-02-10
*明治38年(1905)
9月6日
・朝刊各紙、政府を非難。政府側は警戒措置。和田倉・馬場先・桜田門に近衛歩兵を配備し通行禁止。各官庁・外国公館・要人宅(含む、「国民新聞」社長徳富蘇峰宅、桂首相愛人宅)に憲兵・警官・兵士を配備。
『大阪朝日新聞』
「東京は宛然第二の露都と化し去りたり、汚吏の専制暴虐は飛んで東京に入り、昨日の国民大会は全然蹂躙されんとしたり。・・・今や敵を満州に防がんよりは、近く東京にあり。」。
8日、
「言論出版集会の三大自由は憲法の保障する所にして、法律の範囲内に於ける国民の権利なり、今は議会を召集せず、・・・勅令を以って法律に代ふべき取締りを新定す、・・・精神に於て正しく憲法を破却するものなり」。
10~14日、発行停止処分。
15日、講和条約は締結され、天皇もこれを認めた、今後は、論鋒を憲政擁護・非立憲内閣打倒一本に絞ると社説で述べる。
『日本新聞』、「白昼白刃を提げて官邸に闖入(ちんにゆう)す、事既に驚くべし。白昼火を官邸に放つ、更に驚くべし。而して警官剣を抜いて人を斬り、軍隊銃を提げて良民に臨むに至つては宛然(えんぜん)是れ第二の露都なり」と痛論。
内田良平は、ハリマン歓迎会後、壮士を連れて日比谷松本楼で食事(木刀・日本刀など携行したまま。警察は一応監視しただけ、は不自然?)。
・午後2時30分、枢密院会議、戒厳令適用・新聞雑誌取締りについて討議。
戒厳令賛成:顧問官西徳二郎・大鳥圭介・野村靖・九鬼隆一・細川潤次郎・杉孫七郎・蜂須賀茂韶7人に大臣9人を加えた16人。
反対:福岡孝弟・樺山資紀・黒田清綱・税所篤・田中不二麿・河瀬真孝6人。
(顧問官だけでは7:6)。新聞紙条例改正は大鳥が反対に回り、顧問官だけでは6:7。
・キリスト教会が新たな標的となる。
午後3時、浅草区の教会が襲われたのを始め、本所・下谷・日本橋区の教会・教会関係者の家10数ヶ所が襲撃。
午後6時迄に、キリスト教会2・救世軍森下町分署が襲撃。
6時30分、京橋署築地2丁目・同1丁目派出所焼討ち。
7時、四谷署本村町・伝馬町1丁目・麹町11丁目派出所焼討ち。
7時30分頃、浅草芝崎町「美以教会」・牧師館破壊・放火。
8時、本所区内21派出所中19が焼討ち。
本所区内「教会焼討ち」続く。天主教会堂・フランス人会主宅焼討ち、付属敬愛小学校類焼。熱心なキリスト教信者といわれた乾物商鈴木房次郎宅放火。
8時30分、同盟キリスト教会放火。続いて、同盟キリスト教会本部・アメリカ人会主宅放火。
・午後9時10分、日比谷公園前に停車中の電車放火。計11両。
10時、「街鉄」事務所・工夫事務所焼討ち。
10時30分、「教会焼打ち」が下谷区に移る。日本メソジスト教会襲撃。出征中の留守番の老母の懇請により焼打ちせず。浅草署今戸分署襲撃。警官隊は抜剣して突撃。暴徒側死亡3。150人一斉逮捕。
11時、日本基督明星教会襲撃。白旗が掲揚されていたため内部破壊のみ。日本メソジスト下谷教会焼打ち。
・四谷本村町派出所襲撃の一団、新宿方面に向う。塩町2丁目・新宿元1丁目・3丁目派出所焼打ちし新宿署に突進。鉄道大隊11個分隊兵士に追払われ、鮫ヶ橋派出所に向かうが、付近は貧民窟が密集しているため中止。麹町方面に移動。途中、電車4両放火。
7日午前1時、神田駿河台ニコライ会堂に群衆。歩兵第1連隊兵士が警備のため、引揚げる。
同時刻、本郷署前に集合した群衆500が襲撃開始。警官隊が突進し、四散。
2時30分、神田署小川町分署半焼。
3時30分、日本橋署橋留分署焼打ち。
・この日夜、電車15台が焼討ち。1903年市街電車開通により人力車夫5千(1903⇒1904年比較)が失業。
・夜、緊急勅令2つ発令、即日施行。
①勅令205号。東京市及び府下5郡(荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾)に戒厳令(~11月29日)。戒厳令司令官は東京衛戍総督佐久間佐間太陸軍大将。近衞師団と第1師団が出勤し、7万人以上に検問。
②勅令206号(新聞紙雑誌取締令)。
戒厳令:
国内治安のために発動される行政戒厳は、近代日本で初めて。適用範囲は東京市とその周辺で、ほぼ現在の東京23区全域に相当する。
新聞雑誌取締令:
皇室の尊厳を冒瀆し、政体を変壊し、暴動を教唆し、犯罪を煽動する恐れがある事項を記載した新聞雑誌は、内務大臣が直接その発売を禁止し差し押さえ、以後の発行を停止することができるというも。これによって、政府が不都合だとみなせば、ただちに新聞雑誌の発行を止められるようになる。
戒厳令の施行と同時に言論統制が行われたことで、群衆は移動する自由も、集会して討論する自由も、メディアから情報を入手する自由も奪われた。
この二つが解除されたのは、11月29日。
発令翌日から、新聞雑誌は次々に発行停止を命じられた。大半は、1~3日程度の発行停止ですんだが、『東京朝日新聞』のように15日間も停止が解除されなかったケースもある。
このとき『東京朝日新聞』以上に長い発行停止となったのが、平民社の機関紙『直言』だった。非戦論を掲げる『直言』は、他紙と違って講和反対にはくみしなかったが、9月10日発行第32号に「政府の猛省を促す」(木下尚江)という社説を掲げた。『直言』は第32号から発行停止になり、そのまま停止が解除されず、この号が事実上の終刊号になった。
・衛戍総督令発令。戒厳令施行により警視総監・東京郵便局長が衛戍総督管掌下におかれる。戒厳令適用地域内に検問所70余ヶ所設置。
・衛戍総督告諭。
「言語を以て…解散又は制止の命に応ぜざる時は、最後の手段として断然兵器を実用することを許す」。実際は兵器は使用されず、軍隊は慎重に対応。民衆は軍隊には信頼・敬意を示す。警察は、戒厳令を拡大解釈し遊郭・木賃宿を厳しく取締る。
・講和反対運動の全国的展開。
大正デモクラシーの起点(専制政府反対の全国的都市民衆運動の最初の発現)。
講和反対(膨張主義的・反動的性格)と共に非立憲内閣打倒(藩閥への抵抗)のスローガン。
指導的役割:実業家・弁護士・新聞記者、周辺に広汎な都市民衆が動員(後の普選運動・護憲運動の起点)。
8月20日・9月8日の和歌山県民大会は「和歌山実業新聞」「和歌山新報」(政友会系)「紀伊毎日新聞」「南海新報」(憲本系)4社共催。
9月12日の新潟県民大会は「東北日報」「新潟新聞」「新潟公友」「新潟日報」4社の発起。
9月9日の静岡県民大会は「静岡新報」(政友系)「静岡民友新聞」(憲本)2社と静岡県出身政・憲党代議士の発起。
9月12日の長崎市民大会、20日の県民大会は「長崎新報」「九州日の出新聞」「鎮西日報」「長崎新聞」4社と市会・県会議長の発起。
愛知県豊橋町・新潟県長岡町でも地方新聞社発起の町民大会。
9月3・5・18日の呉及び広島市民大会は土地の新聞記者団の主催。
名古屋市民と愛知県民大会は新聞記者が準備。殆ど全ての集会は新聞記者が発起人か弁士を務める。
また、弁護士も組織者として働く。岡山・長崎市民大会は弁護士会長以下が参画。
中小商工業者も運動の表面に立つ(東京商業会議所は会頭中野武営以下動かず)。愛知県知多商業会議所は9月13日総会で宮相・枢密院議長に建議書送付。大阪では、田中市太郎・今西林三郎・渾大坊芳造ら名士が大阪講和問題同志会メンバとして加わる。京都市民大会には京都商業会議所が発起人。
政友会(西園寺公望総裁が自重を要望するが):
地方支部25が条約破棄または内閣問責決議。憲政本党でも支部16で決議。福岡・埼玉・秋田県民大会は憲政本党支部が肩入れ。群馬・岐阜の県民、松江市民大会では政友会代議士が議長や発起人代表。静岡・新潟・茨城・長野県民大会では両派が協力。
国権主義者(福岡の玄洋社や熊本の国権党など、内に専制を批判しない対外硬派)はこの運動からは脱落。
・支配層の思惑
首相桂太郎は山県有朋に事件の3日前、次のような手紙を送っている。
商業的売出候小新聞、又は・・・旧対露同志会之変体、講和談判同志会なる、対露同志会員と、進歩党関係の新聞記者達、之れに渡辺国武一派の連中、入雑候団体より、種々雑多の手段方法を以て、下層の人民の人心を動揺せしめ候故、政事と社会と混同いたし、目下の処、車夫馬丁の輩より、償金が取れぬと云ふより、小商人等の中間に迄、何となく其事柄の是非を弁せず、騒々敷有様にて、此辺は余り不宜情況に付、此際は可成此問題をして、政事問題にのみ引込候手段緊要と存候而、夫々手段を尽し申候。(『公爵桂太郎伝』)
桂太郎は起こるべき事態を的確に把握していた。「車夫馬丁の輩」から「小商人等の中間」層までが、特定の組織に煽動されれば何らかの動きを起こすことに気づいていた。
また、警視庁官房主事の談話記事と重ね合わせると、政府側は要注意人物と団体の動向を綿密に調査していたことがうかがえる。
国民ハたしかに激昂して居る、今回の国民の憤慨ハ維新以来初めての熱度であらう。開戦前に志士が対外硬を唱へ廻った時程われわれの取締を要した事ハ無いと思つたが今度程其極に達して居る、で、どんな者が飛び出すか分からぬからわれわれハ十分に取締りをして居る。目下われわれが注意人物として居る者ハ千余名あって其中にハ政治家新聞記者種々なものもある。(『万朝報』掲載の川上警視庁官房主事インタビュー)
新聞記事を読んでも、仕込杖の剣を携えた、いわゆる壮士たちが事件の要所要所で群衆を煽動している。彼らが先陣を切り、また背後から各施設の破壊活動を教唆したものと思われる。
警察側は彼らの動きを察知しながらも、なぜこのような事態を引き起こしてしまったのだろうか?
・「警犬問題」
大会幹部の吉沢不二雄は自由党系の壮士だが、彼は逮捕されると「警犬問題」を引き起こした。
捜査当局は事件後、大会幹部が計画的に群衆の暴動を作り出したことを立証しようとした。検挙した幹部のうち吉沢を除く全員が、暴動計画を否定した。ただ独り、吉沢だけが暴動計画を詳細に陳述した。彼は同じく幹部であった佃信夫から、国民大会強行のため壮士を周旋することを命じられ、佃宅にて爆弾のような包みを見せられ、警視庁、内相官邸などへの襲撃計画までを打ち明けられたと供述した。この供述を基にして河野らを事件の責任者として特定した。
ところが、吉沢は翌明治39年2月26日~4月11日に11回行われた公判廷で、供述をひるがえし、警察から釈放と金銭300円とを代償に話したと語った。「自分は警視庁の犬と云はれても致方なし」と証言した。
啄木は翌明治39年3月5日の日記に憤慨してこう記している。
近頃の新耳目は、天下の名士河野広中氏らの兇徒嘯聚事件についての警視庁の卑劣なる行動の曝露された事である。昨年九月五日、ポーツマス条約の屈辱に義憤を発して、国民大会が河野氏等の主唱の下に日比谷苑頭に催された。警視庁が無謀にもこれを暴力を以て禁止したのが、はからずも幾万愛国の赤子の怒を買って、東京は忽ちに暴動の府となり、内務大臣官舎が焼かれ、幾多の警察署が破壊され、幾百の交番も焼打の的、あはれ聖代帝闕の下、叫喚の風潮の如く、義臍の猛火全都に漲った。巡査が抜剣する、戒厳令が布かれる、河野氏等を初め二百幾十名は直ちに兇徒嘯聚罪として検挙されたのであった。かくて今年その公判が開かれるに及んで、図らざりき、国民の安寧を保護する筈の警視庁が、諸名士を罪に陥れむがために、幾百の黄白を散じ、無腸漢を買収して殊更に神聖なる法廷に偽証を申立てしめむとした事が天下に曝露されたのだ。最後の勝利は正しき者の手に落つるとは云ひ乍ら、警察権の不信今日の如くば、国民は何れの時に安んじて眠る事が出来やう。
・ある推論
民衆を「ガス抜き」しないと桂への不満が燻り続ける。
黒龍会が、この政府の意図に沿って民衆を扇動。
桂は警察の過度の弾圧が民衆を激昂させたというシナリオを作り、9月10日安立綱之警視総監、16日芳川顕正内相を引責辞任させる。
ついで桂太郎内閣から西園寺内閣へと替わり、内相は官僚政治家原敬に替わる。
プロの煽動家が、あらかじめ国民新聞社、替察、内相官邸を攻撃の対象として選び、一定の計画のなかで 「群集は動かされていた」、「当然爆発するであろうと支配層も予知していた民衆のエネルギーの爆発を内務省-警察-交番-派出所に集中させた」。
騒乱を仕掛けたのは桂太郎自身ではなかったか、との推論がある。(中込道夫「日比谷焼討ちの作られた暴動」(「現代の眼」1974年4月)
また事件の背後に右翼の大物、頭山満、内田良平、杉山茂丸が桂と気脈を通じていたのではないかとの推測もある(前田愛『幻景の明治』)。つまり桂は、当然起こるべき政府批判の高まりを、暴動を通じて、内務省と警察の責任問題へと転化したと推理する。
内田は、6月、ルーズベルトから講和の話が出た時点で伊藤・桂と会い、講和賛成意見を述べている。東北地方各地で講和問題の講演をし、政府から謝礼を受取る。
また、焼討ちは民家への延焼を避けて注意深く行われている。
しかし、山県と右翼が暴動を仕掛けたとしても、日比谷焼き打ち事件は 「民衆のエネルギー」が煽動者たちの思惑を超えてしまったところに、事態の新しさがある。
桂自身、山県に対し9月18日には「此度の都下之騒動は、実に意想の外に出で、畢竟前知の不完全の致す処と、深く恐縮仕居候」という文面の書簡を送っている。群衆の行動は、桂にしても河野ら大会主催者にしても、「意想の外」のことたったのである。
「要するに日露戦争の勝利が、日本国と日本人を調子狂いにさせたとしか思えない。…政府批判という、いわば観念をかかげて任意にあつまった大群衆としては、講和条約反対の国民大会が日本史上最初の現象ではなかったろうか。…。私は、この大会と暴動こそ、むこう四十年の魔の季節への出発点ではなかったかと考えている。この大群衆の熱気が多量に - 例えば参謀本部に - 蓄電されて、以後の国家的盲動のエネルギーになったように思えてならない。」(司馬遼太郎「「雑貨屋」と帝国主義」(この国のかたち 一」)
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9月6日
・川上音二郎(41)、大磯・滄浪閣に伊藤博文を訪ねるが留守で会えず。
ついで茅ヶ崎に行き、翌日、村長宅で時局演説。聴衆68名。川上は講和条約反対の世論には批判的で、「御用演説」と報道される。
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9月6日
・この日の原敬の日記、「盛岡滞在、東京における昨五日の騒動の報知盛岡に達せり」とのみ
(予め桂のシナリオを察知している如く?)。
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