2016年2月12日金曜日

元亀4/天正元年(1573)4月5日 天皇の命により信長・義昭間で二度目の和議成立 「下京町人中」、信長の朱印状を獲得 武田信玄(53)没 信長包囲網崩壊 顕如は義昭を中心とする反信長戦線構築を狙う [信長40歳]

北の丸公園 2016-02-10
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元亀4/天正元年(1573)
4月5日
・勅使(関白二条晴良・大納言三条西実隆・中納言庭田重保)、義昭のもとへ出向き、次いで知恩院の信長を訪れる。

7日、勅使関白二条晴良・三条西実枝・庭田重保、義昭・信長陣営に赴き和議成立。
織田信広・佐久間信盛・細川藤孝、信長名代として幕府御所で義昭と会見。

上洛後2度目の停戦で、2度とも天皇の命令。
信長は2月下旬・4月4日と2度義昭に和を請うが拒否されている。
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4月6日
・信長、家康へ、義昭挙兵は身に覚えの無いこと、従来の忠節が無駄としないために種々の理を講じたが承諾が得られず、2・3日両日に洛外を、4日には上京を悉く焼き払ったので義昭と講和が成立と通達。また家康の横山周辺出陣は無用である、遠江・三河国境は油断無きように備えることを通知(「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」)。
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4月7日
・信長、京都から守山へ陣を移す。
8日、天台宗百済寺着。
佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家ら、六角承禎の最後の牙城鯰江城(愛知郡愛東町)攻撃。
11日、鯰江城を支援する百済寺を焼く。
この日、岐阜に戻る。
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4月7日
・下京では焼き討ちにならなかったことに対する信長への礼銀(礼銭)と「市内の堀」(惣構の堀)を補強する費用などを捻出するため、「都の住民の年寄ら」が「大小の各町に銀十三枚を課」す。

「都の住民の年寄ら協議し、(略)市の将来の安全のため、および下の都を焼かざりし恩恵に対する感謝のため、(略)住民より徴集すべき銀の残額が市内の堀をいっそう深く、また広くするため、ならびにほかの防御工事のために使用すべしと決し、これがため大小の各町に銀十三枚を課したり、」(『耶蘇会士日本通信』)

『耶蘇会士日本通信』は、各町で銀13枚が集められた際、それを負担できないような町人たちは「暴力をもって貧家より追われ、その家の売却代金のうちより彼らに課したるものを徴集」されたという。

なお、『下京中出入之帳』によれば、今回の銀は、下京の五つの町組に所属する町だけではなく、「下京構の内、寺銀の分」とあるように、下京の惣構の中に所在した寺院にも課せられていた。
また、その寺院のなかには、妙覚寺・本能寺・立本寺・要法寺・妙伝寺・妙泉寺といった日蓮宗(法華宗)寺院の名も見られ、これらの寺院が下京の町人たちの信仰の拠点となっており、下京という社会集団、共同体の一角を構成するものとして位置づけられていたことがわかる。

銀の支出先は、「遣わし申す銀の日記」というところに記され、「殿様」(信長)や「柴田様」(柴田勝家)など、信長やその軍勢に対する礼銀の額がこまかに記されている。
その一方で、「西の堀の掘り賃」や「西四条口横の入目(いりめ)」という項目も見える。これが『耶蘇会士日本通信』の「市内の堀をいっそう深く、また広くするため」ということに対応するもので、惣構の堀の管理も下京という惣町がおこなっていたことが明らかとなる。

結局、このときの礼銀によって下京は、この年7月朔日付で「下京町人中」にあてられた信長の朱印状(『饅頭屋町文書』)を獲得する。
「陣取りならびに新儀諸役非分などあるべからず、違背のやからあらば成敗を加うべし」(信長の軍勢が下京に陣を構えたり、また不法な賦課をかけることはしない。もしそれに背くような者が出たならば、信長が成敗する)という一文が記され、下京は信長の名のもと安全を確保することになった。
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4月7日
・戸次鑑連、箱崎大宮司領犬飼名を安堵。
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4月12日
・武田信玄(53)没
三河から甲州へ帰国途中、信州駒場(下伊那郡阿智村)で没。
信玄没は3年間秘匿されることになったが、月末には噂が謙信に伝わる(6月下旬、謙信はこの噂を確認する)。
反信長勢力の中心である武田信玄の急没は、信長包囲網の崩壊となる。

武田信玄が没し、越中における一向一揆や神保勢など反上杉勢力はその後ろ盾を失い、富山城も付け城戦術で孤立。
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4月13日
・美濃の吉村源介・吉村安実、足利義昭に呼応した江南表の一揆を撃破(「吉村文書」)。
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4月15日
・信長、近江佐和山城に到着。市橋長利へ、一揆が吉村構を攻撃するが撃退した、六角義治の籠もる近江鯰江城に対する付城4ヶ所の守備を命じる。
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4月19日
・信長、柴田勝家へ、十河存保より河内若江城攻撃の後援要請を受けたことを通知。
即時攻略すれば十河存保に三好義継知行分の河内半国と摂津国欠郡を「契約」し、一度の攻撃で陥落しなくても付城を構築するなどして攻略に成功すれば河内半国を与えることを約束したので、至急の軍事行動開始指令(「山崎文書」)。
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4月20日
・小笠原貞慶・松田監物、吉田兼見へ義昭からの二条城普請役賦課命令を伝達。
21日、吉田兼見、二条城へ人足を連れ祗候。天主の壁普請を担当。曼殊院覚恕・勧修寺晴豊・舟橋国賢も普請役を賦課されてい。(「兼見卿記」1)
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4月23日
・武田勝頼(28)、内藤昌秀に血判起請文を与え、懇切公正に遇することを約す。
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4月25日
・上杉謙信(44)、越中から春日山城に帰還。
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4月27日
・滝川一益・美濃三人衆(安藤守就・氏家卜全・稲葉一鉄)・柴田勝家・佐久間信盛・林秀貞、義昭側近一色藤長・上野秀政・一色昭秀・曽我助乗・松田頼隆・飯尾貞連・池田一狐へ、「公儀信長御間」和平について信長は義昭に対して一切の表裏をしない、信長「最前之条数」を堅守する、と「霊社起請文」を以て誓約。

28日、義昭近習衆より、信長に逆心を持たない、但し信長「最前之条数」に相違があった場合は織田側が分別ある対処をすべと確認し、「霊社起請文」を以て誓約。(「和簡礼経」)
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・信玄没の初見。この日付の上杉家臣河田長親書状「信玄遠行、必定のこと」。
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5月
・スコットランド、摂政モートン伯、エディンバラ城に篭るカーコルデーらを攻撃、排除。首謀者処刑。
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5月9日
・家康の軍勢、大井川を越えて駿河に侵入。岡部に放火、さらに駿府郊外にも放火。武田方の出方をうかがい、信玄の死の実否を確認する。
13日、再び吉田城入り。
翌14日、三河の長篠城外を巡視して岡崎城に戻る。
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5月11日
・ポーランド、ジギスムント2世没によりヤギェウォ朝断絶('72/7/7)。初の国王選挙がワルシャワで実施。仏王シャルル9世弟ダンジュー公アンリ・ド・ヴァロア(後のアンリ3世)の王位(ヘンリク・ヴァレジィ、'73~74)が決まる。
5月9日ワルシャワ郊外に集合した約4万人の貴族が国王選挙。ポーランド王候補者(ロシア・イヴァン 雷帝(ポーランドはモスクワ大公国に恐怖)。オーストリア・アルベルト大公(皇帝の弟)。アンジュー公アンリ)。
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5月15日
・信長、佐和山城に出向き大船建造。
義昭が再度敵対し、信長の行軍を遮断するための瀬田封鎖を想定し琵琶湖で大船(長さ54m、幅13m)を建造。
船の材木は多賀・山田(滋賀県多賀町近辺)山中から切り出し、芹川を下り佐和山山麓の松原に集結。松原には鍛冶・番匠・杣が集められ、大工棟梁岡部又右衛門指揮で造船開始。建造終了は7月5日。

「舟の長さ三十間、横七間、櫓を百挺立てさせ、艫舳(ともへ)に矢蔵を上げ」(「信長公記」巻6)。
後の鉄甲船よりはるかに巨大。
この年7月の上洛に一度使用しただけで、同4(1576)年解体。
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5月23日
・顕如より一色藤長宛て書状。
「御内書、謹んで拝見候。仍(なお)、今度武田大膳太夫入道(信玄)、朝倉左衛門督(義景)言上の条、意趣存ぜず候。天下静謐の儀は御下知あるべく候哉。相応の儀は疎意あるべからずの通り、披露あるべく候。恐々謹言」(「顕如上人文案」)。
顕如は信玄・義景の出陣しない意図・背景が読み取れず、将軍の許での反信長戦線再構築を狙う。
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5月28日
・ハーレム城外の湖での水上戦。アルバ公、ウィレム1世に勝利。
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5月29日
・柴田勝家・木下秀吉、小谷城を攻めて撃退される。長嶋一向宗徒が濃尾国境を放火。
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