2016年2月5日金曜日

堀田善衛『ゴヤ』(85)「絢爛たる悪意」(3終) 「ゴヤは元気を恢復した。肖像画の仕事が次から次へと舞い込んで来る。・・・これら多数の肖像画群、つまりは人間存在の大群は、・・・一人の人間によって示されたものとしては、バルザックの人間喜劇、あるいはトルストイやドストエフスキーの詩作にも充分に匹敵、あるいは並び立つものである。」

 ゴヤは元気を恢復した。肖像画の仕事が次から次へと舞い込んで来る。断るべきものは断っても、人間、人間だけに無限の興味と関心をもつこの人は、自分の前に立つ男女を観察して飽きることがない。モデルの存在そのものを画筆を握った手から画布へと吸いとって行く。

 ・・・これら多数の肖像画群、つまりは人間存在の大群は、そのいずれを見る、あるいは思い出してみてもその複数の存在群の重なりは人間の歴史のなかにあっても類い稀な壮観であろう。一人の人間によって示されたものとしては、バルザックの人間喜劇、あるいはトルストイやドストエフスキーの詩作にも充分に匹敵、あるいは並び立つものである。・・・

 ゴヤの前に立つ人、あるいはゴヤが引っ張って来て画布の前に立たせる人は、バルザックの場合と同じく、・・・。町人階級(ブルジョアジー)もまた登場して来る。

 その一人が、パルトロメー・スレーダという名の技術者であり産業家である。・・・ゴヤはこの新世代の技術者、新知識を、まことにノンシャラントな、ほとんど現代人、現代の技術者と言ってよいほどのものとして表現した。ほとんどはじめて、光源をスレーダ氏の頭の直上におき、左手を腰におかせ、右手には大きなトップ・ハットをもたせることによって指を描くことを避けた。面長な顔の額には、例によってロマンティシズムの流行からする、ざんばら髪が散らしてあって、技術インテリの走りとしてはいささか似つかわしくないのであるが、流行である、致し方があるまい。

 流行というものは本当におそろしいものである。この頃の肖像画に登場する人物は、超保守的な老貴族や老軍人を除いて、男女を問わずどれもこれもが、後には暴君フェルナンド七世までが、ウェルテル=パイロン式のこの憂鬱型、物憂い型で、額にざんばら髪を散らしているのである。この頃には、ゴドイ夫人のチンチョン伯爵夫人までがこの流行に乗っていたものらしく、王妃への手紙のなかで、彼は「妻の顔が見られません、髪の毛が眼まで垂れ下っていて」と書いている。・・・

 スレーダ氏は王命によってロンドンへ機械紡績の技術を研究に行き、そこでついでに、銅版刻画の技術の一つ、メツォティントといわれるものを修得し、これをゴヤに教えたと言われている。この手法によったものが後年の傑作の一つ、『巨人』であった。・・・
彼はまたフランスのセーヴルへ陶器製造技術を研究に行き、今日のスペイン陶器やマジョルカ陶器の独特の味の基礎をきずいた人であった。

 ・・・やがてナポレオン軍がマドリードを占領し、工場が占領されて兵営にされてしまうと、彼は自分の技術をロシアに売ろうとしてパリでナポレオンの警察に抑留される。ロシアもまたスペインとほぼ同様の後進国であり、虎視眈々たるナポレオンの餌食になろうとしている。技術者は技術の中立性にもとづいて仕事の出来るところで生きたいという次第であったのであろう。すでに現代が来ている。・・・ 

 これらの他にもよく出来た男性像としてほ、闘牛士の服装をまとった、ゴヤの友人でトレド大聖堂の歌手であったペドロ・モカレーテ像がある。・・・

 また別の親友、スペイン第一の俳優と言われたイシードロ・マイケス像も描いている。マイケスはパリで、ナポレオン皇帝お気に入りの俳優タルマに演技を学んだ人であったが、スペインに帰ってからは、彼もまた政治の地殻変動によって、劇作家のモラティン同様に演技の場を劇場の外に、政治の舞台の上ですることを強制されることになる。・・・

ゴヤ『イサベル・デ・ポルセール像』1806

 次にこの時期の女性像について、・・・。・・・女性像の方が、やはり傑作が多い・・・。

 まず第一に来るのは、それはどうしても誇り高いアンダルシーア女の代表であるイサベル・デ・ポルセール像でなければならないであろう。グラナダに生れて、国家評議会議員で大狩猟家でもあった人に嫁したこの女性は、その豊満な胸をぐっと張り出し、左手は腰に、右手はその、これも豊かな股の上におき、栗色の髪は二つ、あるいは三つにわかれて額を蔽い、黒の透けたマンティーリアの下にはピンク・赤系のマハの衣裳をまとってそっくりかえっている。
 実に堂々たるアンダルシーア女性の代表である。・・・
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 眼はもとより、肉体の内部から深い生気が盗れ出ているという事は、この絵のような人間、女性のことを言うものであろう。
 世の中に女性像は何千、何万と無限にあるものであったが、実にかくも生気溌溂として生命力に満ちたものは稀である。・・・
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ゴヤ『サパーサ・ガルシーア像』1803-6
さてその次に来る女性は、その育ちも素性もよくはわからないのだが、名はサパーサ・ガルシーアと言い、・・・実に魅力的である・・・。
 白い紗のマンティーリアをかぶり、巻髪を額に垂らして、光りが走っているかのような黄色のケープを肩から肱にかけてはおったこの女性、その顔、つまりは眼はきわめて知的なものをたたえていて、一九世紀初頭スペインの、腐り切った貴族、聖職者などが威張りかえっていた社会のなかにあった人とは到底思えないほどである。この絵を、ゴヤなどという名をはずして、そのままに画商のガラリイに置いてみたら、そのままで都会的な現代女性の一肖像としても充分に通用するであろう。
前記ポルセール夫人とはまったく別個の、しかしやはり女性像としてのゴヤの傑作の一つである。・・・
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 俳優といえば、以前に言及した大女優ティラーナとは別に、ゴヤはやはりその当時の名男優の娘の、これも舞台をつとめたことのあるアントニア・サラテ夫人の肖像を二枚描いていて、複製で見る限りでも傑作である。この二枚は、いずれもアイルランドの某家とニューヨークの某家に所蔵されていて、残念ながら私は見たことがない。
 しかし複製で見る限りでは、一八〇七年頃の胸像は、これはマドリードの考古学博物館にある、紀元前五世紀の『エルチェ婦人像』に酷似した容貌をもっていて、一民族の特性というものの持続性の強さについて、人を驚かせるに足りる、とのみ言っておこう。そうして第二の、黒衣の半身像は、長椅子の黄に映えて黒と黄色のコンビネーションが見る人に迫って不吉な印象を与えるものであったが、このモデルの人となりを少し調べてみて、これがこの夫人の死の少くとも一年以内に描かれたものであることを知ったとき、私は、死というものの、黒い、その実在 - それは当り前のことであるが ー を、身にこたえて知らされ、眠りをなさなかったことがあった。
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ゴヤ『カレータス通りの本屋の奥さん像』1803-6
そうしてもう一枚、マドリードの太陽の門(プエルタ・デル・ソル)広場から発しているカレータス通り四番地にあった本屋の奥さん像である。ゴヤ自身の家からも遠くない。これは美々しい服装の貴族でもなければ、俳優でもない、要するにただの庶民、商人の妻であり、中産階級の平凡な女性であった。聾のゴヤはおそらく読書の楽しみを求めてこの本屋にしげしげと通い、女房と親しかったのであろう。彼自身がアトリエに呼び入れて、自発的に描いた稀な例であった。ゴヤ先生に呼ばれて、喜んでこの若い夫人は一張羅の服に長いマンティーリア、肱までも蔽う手袋をつけ扇をもって、つまりはお祭りのときの衣裳をまとっていそいそとカンバスの前に立ちに行った。彼女は珍しく十本の指を全部描いてもらう光栄に浴している。・・・

 
・・・最後に、サンタ・クルース侯爵夫人の、少々風変りな、ミューズ(詩神)に扮した画像について・・・。
この侯爵夫人は、ゴヤが大いにその恩顧にあずかったオスーナ公爵の娘であり、幼時に彼女を家 族図のなかに描き込んだこともあった。・・・この娘が、サンタ・クルース侯爵家へ嫁して行った。この夫の侯爵は、フランスで物理学を勉強して来て、スペインではじめて気球を飛ばす実験をやった。いわば実践的な開明派であった。

 そこで夫人もまた、フランスのロマンティシズム、あるいは新古典派流に、諸相の象徴であるリラを手にし髪には葡萄の葉と枝を飾り、薄いシュミーズ一枚だけという、ほとんど裸体という恰好で長椅子に横になってみせた、という次第であった。闘牛好きで、演劇に経済にまことに奔放な活躍をした母の子、この期にしてこの子あり、というポーズの仕方であろう。

 女性を、しかもほとんど裸体のそれを描くということは、当時のスペインの画家にとってまことに得難い機会であった。本来ならば欣喜雀躍してしかるべき筈であったが、この絵からはゴヤの情熱といったものがあまり感じられない。・・・
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 ・・・これらの肖像画は、少数の例外を除いて、大方の画集にもほとんどのっておらず、現物もまた多く世界に散っていて、その九割方はアメリカにあり、しかも個人所蔵のものが多く、・・・。

 ・・・政治的、経済的大変動に入る革命期であってみれば、後年これらの肖像画の大半が後進、かつ新興ブルジョアジーの国であるアメリカへ買われて行ってしまった・・・。その他の大作や傑作は、すでにプラド美術館その他、収るべきところへ収っていて、アメリカの大金持諸氏があさり得るものは、潰れかけた家から出て来る肖像画くらいのものであった・・・。この時期の肖像画で、それがもともとのあるべき家にのこっているものは、フェルナン・ヌーニェス伯爵像と夫人像が、マドリードの現フェルナン・ヌーニェス伯爵家にあるという、たったその二点のみである。
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