京都御苑 2016-02-05
*2月はやっぱり「ややこしい」月である、という感じは今も変わらない。
私と次男の誕生日があって、その直前に父親の命日があるという関係。
そのややこしさと、翌年には母が亡くなるという一連の大変さの記憶と。
先日、父の七回忌を執り行った。
まる6年経過したということだ。
さすがに、時の経過がいろんなことを対象化、客観化してくれて、
あのころの大変さの記憶はかなり癒えたと思う。
その代わりというのもヘンだが、2月に亡くなる人、亡くなった人に敏感になった。
3月に亡くなった人とは全く異なる感じを持つようになった。
司馬遼太郎さん、2月12日
小林多喜二、2月20日
尹東柱、2月16日
・・・・
で、最近ハマっている詩人、茨木のり子さんの命日が、なんと2月17日なんだ。
茨木のり子さんは50歳で韓国語の勉強を始め、64歳の時には翻訳詩集『韓国現代詩選』を出版するほどにまでこの言語を自分のものにされた人だ。
その間、60歳の時の随筆『ハングルへの旅』では尹東柱の弟さんとの交流についてや尹東柱の詩『序詩』について触れている。
以下、後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』を引用する。
茨木が出会った詩人に尹東柱がいる。韓国でもっとも人気のある、若くして獄中死した詩人である。
旧満洲の生まれ。戦時中、来日して立教大学へ、さら同志社大学文学部英文科に在学中、朝鮮の独立運動に関与したという容疑で逮捕され、京都地方裁判所で懲役二年の判決を言い渡される。日本の敗戦の半年前、福岡刑務所で収監中に亡くなる。二十七歳。顔写真を見ると、知的な眼差しをもつ、美青年である。
詩は、当時使うことを禁じられていたハングルで記されていた。詩編は友人のもとに送った手紙に同封されていて、友人が隠し持っていたことにより後世に伝わることとなった。
遺された尹の詩は、伊吹郷の訳によって読むことができる。『空と風と星と詩 - 尹東柱全詩集』(記録社、一九八四年)であるが、この過酷な時代の、この世代の若者にのみ詠むことができたであろう清音高き調べに満ちている。
あかい額に冷たい月光がにじみ
弟の顔は悲しい絵だ。
歩みをとめて
そっと小さな手を握り
「大きくなったらなんになる」
「人になるの」
弟の哀しい、まことに哀しい答えだ。
握った手を静かに放し
弟の顔をまた覗いて見る。
冷たい月光があかい額に射して
弟の顔は哀しい絵だ。
「弟の印象画」と題する詩である。茨木は尹の全詩編のなかでもっとも好きな一編としてこれをあげている。
後年、建築家となり大学教授となった弟・尹一柱と茨木は会っている。来日する前、兄の尹東柱は延世大学の学生であったが、構内に建てられた尹東柱詩碑を設計したのは十歳下の尹一柱であった。茨木は人・尹一柱を「篤実で陰翳深いお人柄、そこはかとない茶目っ気もあり」と記している。『ハングルへの旅』の最終章で尹兄弟の足跡をたどりつつ、ラスト、茨木はこう締め括っている。
《弟の一柱さんと話していると、そのお人柄にどんどん惹きつけられていった。私の脳裡に「人間の質」という言葉がゆらめき出て、ぴたりと止まった。あまり意識してこなかったけれど、思えば若い頃からずっと「人間の質とは何か?どのように決定されるのか?」ということを折々にずいぶん長く考えつづげてきた、見つづげてきた、という覚醒が不意にきた。
ふしぎな体験だった。
それも尹一柱さんというすばらしい「人間の質」に触れ得て、照らしだされてきたことで、いきおい兄である尹東柱もまた、こういう人ではなかったか? と想像された。
もの静かで、あたたかく、底知れぬ深さを感じさせる人格。
だが三年間近くの日本留学生時代、伊吹郷氏の丹念な調査にもかかわらず、誰一人、彼を記憶していないということは・・・なんとも言えない情けなさである。
ともあれ尹東柱・一柱兄弟に出会えたことは、最近の私の大きな喜びである。
これもハングルを学ぶ道すがら、その途次でのことであった》
死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。
今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)
尹東柱の代表作ともいわれる「序詩」であるが、茨木は『ハングルへの旅』でこの詩を引用しつつ、尹東柱を論じている。このくだりが日本の高校の教科書「新編現代文」(筑摩書房、一九九〇年)に載せられた。
すでに「序詩」は韓国の高校の教科書にも使われている。日韓両国の教科書に、戦時中に死んだ若き在日朝鮮人の詩人の詩が掲載されること。小さなことではあるが、ゆるやかに流れる時代の変化を告げているのかもしれない。
そして、茨木のり子の詩。
隣国語の森 茨木のり子
森の深さ
行けば行くほど
枝さし交し奥深く
外国語の森は鬱蒼としている
昼なお暗い小道 ひとりとぼとぼ
栗はパーム
風はパラム
お化けはトッケビ
蛇 ペーム
秘密 ピーミル
茸 ポソッ
ムソウォ こわい
入口あたりでは
はしゃいでいた
なにもかも珍しく
明晰な音標文字と 清冽なひびきに
陽の光 ヘッピッツ
うさぎ トキ
でたらめ オントリ
愛 サラン
きらい シロヨ
旅人 ナグネ
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く
啄木の明治四十三年の歌
日本語がかつて蹴ちらそうとした隣国語
ハングル
消そうとして決して消し去れなかったハングル
ヨンソハシプシオ ゆるして下さい
汗水たらたら今度はこちらが習得する番です
いかなる国の言語にも遂に組み伏せられなかった
勁いアルタイ語系の一つの精髄へ――
少しでも近づきたいと
あらゆる努力を払い
その美しい言語の森へと入ってゆきます
倭奴(ウェノム)の末裔であるわたくしは
緊張を欠けば
たちまちに恨(ハン)こもる言葉に
取って喰われそう
そんな虎(ホーランィ)が確実に潜んでいるのかもしれない
だが
むかしむかしの大昔を
「虎が煙草を吸う時代」と
言いならわす可笑しみもまたハングルならでは
どこか遠くで
笑いさざめく声
唄
すっとぼけ
ずっこけた
俗談の宝庫であり
諧謔の森でもあり
大辞典を枕にうたた寝をすれば
「君の入ってきかたが遅かった」と
尹東柱(ユントンジュ)にやさしく詰(なじ)られる
ほんとに遅かった
けれどなにごとも
遅すぎたとは思わないことにしています
若い詩人 尹東柱
一九四五年二月 福岡刑務所で獄死
それがあなたたちにとっての光復節
わたくしたちにとっては降伏節の
八月十五日をさかのぼる僅か半年前であったとは
まだ学生服を着たままで
純潔だけを凍結したようなあなたの瞳が眩しい
――空を仰ぎ一点のはじらいもなきことを――
とうたい
当時敢然とハングルで詩を書いた
あなたの若さが眩しくそして痛ましい
木の切株に腰かけて
月光のように澄んだ詩篇のいくつかを
たどたどしい発音で読んでみるのだが
あなたはにこりともしない
是非もないこと
この先
どのあたりまで行けるでしょうか
行けるところまで
行き行きて倒れ伏すとも萩の原
*『おくのほそ道』曾良の句より
*(引用註) 原詩はハングル表記にカタカナのルビの箇所をカタカナのみにした
(第六)詩集『寸志』(1982年12月 花神社)
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