2017年1月6日金曜日

正長2/永享元(1429)年3月~6月 足利義宣(35)、室町第6代将軍になり、名を義教と改める ジャンヌ・ダルクのオルレアン入城、解放 ジャルジョー、マン、ボージャンシー占領 パテーの戦いで大勝   

自宅近くの梅 2017-01-06
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正長2/永享元(1429)年
3月9日
・オルレアンの町の北部のパリジ門近くで城壁に抜け穴が発見され、施療院院長がここから逃亡。
この時期、町の有力指揮者サント・セヴェール、町奉行アラン・デュ・べーが没し、防衛司令官はシノンに赴き、防衛責任は私生児ジャンが担う。
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3月15日
・足利義宣(35)、室町第6代将軍になり、名を義教と改める。
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中旬
・オルレアンの私生児、ジャンヌの噂を知る。
オルレアンを解放し、王太子をランスで聖別・戴冠させる為に王太子の許に赴く「乙女」がジアンを通過したとの噂を知る(1456年2月22日処刑判決破棄裁判の審理での証言)。
私生児ジャンは、仲間2人をシノンに派遣、のち、この2人より、シノンでの王太子と「乙女」の面会の模様を知る。
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3月22日
・ジャンヌ・ダルク、イギリス軍への降伏勧告書状「イギリス人への書簡」を口述し送る。
更に、日付未詳で1通、更にオルレアンでの1通、計3通を送る。
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3月23日
・ヘンリ6世の妃となりバラ戦争をひき起こすマーガレット、誕生。
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月末
・ジャンヌ、ロワール川下流のトゥールの町に移動。
ここでジャンヌの甲冑が作製され、彼女は自分の旗印を注文。
ジャンヌに指揮官用従者を与える。
①ジャン・ドーロン(のち南フランスのボーケールの奉行)、
②小姓2人(レーモン、ルイ・ド・クート)、
③伝令2人。
一方で、新たな戦闘計画が立てられ、ブーサック将軍指揮で食糧・兵士のブロワの町に終結。
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4月17日
・オルレアン住民代表、ブルゴーニュ公に休戦協定とりなしを依頼する為に町を出て、この日帰着。
ブルゴーニュ公は、摂政ベッドフォードに取り次ぐが、ベッドフォードはこれを拒否。
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4月22日
・ジャンヌ・ダルク、軍司令官となる
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4月28日
・ブロウに集結した数千のオルレアン救援軍、ジャンヌ・ダルクに率いられてオルレアンに向かう。
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4月29日
・ジャンヌ・ダルク、オルレアン城入城
ジャンヌ、オルレアンの見渡せる地点(町の東方シェシーの台地)に到着。
ジャンヌは、ロワール川を渡り、左岸地区を大回りし、またその間、私生児は陽動作戦のため上流北側のサン・ルー砦を急襲。
夜8時頃、王太子が作らせた甲冑を身につけ贈られた騎馬にまたがり、彼女が作製させた「主と天使を描いた」旗印を手に、オルレアンへの補給部隊に同伴してブルゴーニュ門より入城。
オルレアンの私生児、騎士、隊長、兵士が従う。
多くのオルレアン市民達は解放を約束する乙女ジャンヌを歓迎。
この夜は、オルレアン公の財務官ジャック・ブーシェの家に宿泊。
10日足らずで、半年に及ぶイギリス兵の法人は撤退。

包囲の状況:
町の東は僅かに封鎖を免れる、北はイギリス軍が完全に制圧、西は包囲軍の砦が町を見張る。
包囲側の中心は、①川の南側から町に通じる大橋の入口を制圧する橋頭堡(トゥーレル)と、②これに接するオーギュスタン修道院跡。
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5月4日
・オルレアン攻防戦(百年戦争)。
オルレアンの私生児、ブロアの援軍を連れてオルレアンに帰還。
午後、ジャンヌに知らせず、ラ・イール率いるフランス軍3千、サンルー砦のイングランド軍4千を攻撃。
これを知ったジャンヌは急いで駈け付ける。ジャンヌの旗と白馬が初めてオルレアン城外突出。
サン・ルー砦奪取。オルレアンのブルゴーニュ門側・ロワール川上流側を解放。
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5月6日
・ジャンヌ入城後8日目。
オルレアン守備隊、ロワール川を渡りサン・ジャン・ル・ブランの敵陣地を襲撃、既にイングランド軍はオーギュスタン砦に撤退。
オルレアン守備隊が引揚げを開始すると、オーギュスタン砦からイングランド軍が攻撃。
オルレアン守備隊(ジャンヌ、ラ・イール)がこれに反撃。
イギリス軍はオーギュスタン砦に逃げ込むが、攻撃され陥落。
イギリス軍はトゥーレル橋頭堡に篭る。
フランス兵は、ロワール川両岸往来が可能となり、無人地区を占領し、市民はトゥーレル砦を包囲するフランス兵に食糧を運ぶ。
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5月7日
・オルレアン守備隊、トゥーレル橋頭堡を攻撃、陥落。
ジャンヌは胸上部に矢傷を受けるが、手当後は、攻撃に加え最前線で城壁に梯子を掛ける働きをする。
トゥーレル城塞のイングランド軍隊長ウィリアム・グラスデールはロワール川で溺死。
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5月8日
・オルレアン解放
イングランド軍、1428年10月12日以来のオルレアン攻囲を解きマン・シェル・ロワールの町へ撤退。
この日、騎馬のジャンヌを中心とした自然発生的な行列が町の中心の聖堂に向う(5月8日オルレアン祭は今日も続く)。
シノンの王太子シャルル(後の7世)、全土にこの勝利を報告。
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5月9日
・ジャンヌ、オルレアンを離れ南のロッシュの町に入る。~11日滞在。
ジャンヌ、オルレアンの私生児、隊長ら、シノンで王太子に面会。
ジャンヌは、聖別・戴冠の為のランス遠征を主張。
王家側の貴族・隊長らはノルマンディー侵攻を主張し論争。
アランソン公がジャンヌを支持し、ランス遠征が決まる。
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5月13日
・将軍義教、世阿弥父子の御所への出入りを禁じる。
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6月
・この月、一乗院門下の坊人で国民である井戸某が頓称坊という僧侶を殺害。
この事件が発端となり、やがて将軍を驚愕させる謀叛(大和永享の乱)に発展。
頓称坊は俗人でなかったので、かねてより財産を国民豊田中坊に譲っていた。そこで中坊は手兵を率い井戸の居館を襲撃し、騒ぎは次第に大きくなる兆候を見せた。井戸の背後には筒井(筒井氏は井戸と縁辺であった)・十市氏が、豊田の背後には越智・箸尾が控えていた。
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6月1日
・イギリスの教皇特使ヘンリー・ボーフォート、リューベック市へ、デンマーク王との戦争を止めて第5次対フス十字軍へ参加するよう要請。
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6月12日
・ジャンヌ、アランソン公、オルレアンの私生児を伴い、ラ・イール、ブーサック、ルイ・ド・キュランら隊長と共にイギリス軍残存部隊が集結するジャルジョーを攻撃。
夕方、占領。
ジャンヌは石弾で兜を撃たれる。
イギリス側隊長サフォークは捕虜に。
オルレアン市民も大型大砲・火薬・食糧を運び戦いに参加。
13日、ジャンヌ、ロワール川下流に引き返しオルレアンに立ち寄り、14日マンに向う。
15日マン占領。
17日ボージャンシー占領。

去就の曖昧なブルターニュ公の弟アルテュール・ド・リッシュモン将軍らがフランス側に立つ。
リッシュモンは、ブルゴーニュ公娘と結婚し、公の娘アンヌは摂政ベッドフォードの妻。
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6月18日
・パテーの戦い。オルレアンの西北パティーに近い平原。
王太子シャルル軍1万、オルレアン西北シャルトルのパテーの野でイングランド軍支援に派遣されたフォルスタッフ部隊6千を破る(大勝)。
フォルスタッフは逃亡、タルボットは捕虜。英軍戦死2,200、仏軍2~3。
オルレアン解放に並ぶ決定的勝利。パリは恐慌状態となる。
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6月29日
・王太子の遠征軍、ジアン到着。
月末、ジャンヌを先頭にジアンを出発。
オルレアン解放後、王太子軍内にはノルマンディー奪還を主張する者もいるが、ジャンヌはブルゴーニュ派勢力圏のランス遠征を王太子に決意させる。
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6月30日
・王太子の遠征軍、オーセールの町の城壁に到着。
町側と折衝の間、3日間城壁下で露営。オーセールは食糧供出を行うが、門は開かず。今後通過を予定するトロワ、シャロン、ランスと同一行動をとると約束。
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