2017年1月22日日曜日

大正4年(1915)3月 中国で日貨排斥運動 月刊「平民新聞」廃刊 第12回総選挙(大隈の与党立憲同志会圧勝。政友会大敗) 馬場勝弥(孤蝶)落選(漱石・堺利彦が応援、選挙権拡張・軍縮・新聞紙法改正など) 与謝野寛落選 漱石四度目の京都旅行  

カンザクラ 皇居 2017-01-17
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大正4年(1915)3月
・申圭植・柳東説・朴殷植ら、新韓革命党結成、上海英租界
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・上海・漢口・広東に日貨排斥運動起こる。
25日、中国政府、排日取締を告示。
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・平塚らいてう「処女の真価」(「新公論」)
らいてうは、皐月・花世の貞操論争に、「処女の価値についての徹底した意見が見出せ」ず不満。
彼女の主張の特色は、不適当な時において処女を捨てるのは罪悪だが、「適当な時にありながら、なお捨てないのもまた等しく罪悪」としたところにある。
現状では「習俗によって・・・自己の所有であるべき処女を取扱われているに過ぎ」ず、「世間道徳が承認する・・・形式的結婚も」、「多くの場合罪悪」だと、彼女は考える。
彼女の結論は、恋愛の過程での「霊的撞憬」から「官能的要求」を発し、人格内で「両者の一致結合」を感じた場合であって、処女自身以外に、それを知るものはありようがないと。
「性」についての彼女の思考は、ここで性の自立、性の自治の意識に到達したといえる。
こう考えてくると処女の価値は誠に大きい。婦人の中心生命で為る恋愛を成就させるか、させないか、婦人の生活の中枢である性的生活の健全な自然な発達を遂げしめるか、しめないか、ひいては婦人の全生活を幸福にするか、しないかの重要な第一条件がここにあるのである。・・・私はこの点をほかにして、どこにも処女それ自身の其価値、処女を重んずる根本的理由を見出し得ない」。
貞操道徳は「今日の男性中心社会においてつくられたもの」であって、「女を奴隷にし、無能力者にしている」ものである。
しかし女は処女を大切にし、それを捨てるのに適当な時までは守られねばならないが、また同じく適当なときに捨てないのも罪悪である。
では処女を捨てるのに適当な時とはどのような時か、という問いに、らいてうはジョルジュ・サンドの言葉をひいて、「霊性が官能を、官能が霊性を裏切らないとき」と答える(霊性とは精神のこと)。彼女はここで「貞操」を大切に考えるのは個人の主体的な選択による、という立場をとって家族制度下の貞操道徳は捨て去っている。しかし「貞操」の背後にある自立の困難さや、女だけにおしつける堕胎罪、姦通罪などには触れていない。
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・平塚らいてう訳(エレン・ケイ)「恋愛と結婚」(東雲堂)
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・与謝野晶子「鏡心燈語」(「太陽」)。
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・有島武郎、札幌農科大学に辞表提出。
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・第2回化学工業調査会、化学研究所設立の具体案を審議。物理学を含む理化学研究所設立案に発展。
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・福島県猪苗代水力発電所が竣工。
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・イギリス労働組合幹部、戦争続く限り全産業でのストライキ放棄誓約。
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・ダブリンのアイルランド義勇軍各部隊にデイリー、マクドナー、デ・ヴァレラ、シートンが指揮者として配属。イースター蜂起の戦闘配置。
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・ポルトガル、ピメンタ・デ・カストロ首相、議会停止。独裁開始。
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3月1日
・与謝野晶子(37)、詩歌集「さくら草」(東雲堂書店)、自選歌集「与謝野晶子集」(新潮社)。
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3月1日
・イギリス、ドイツの2月4日の無警告無差別攻撃声明に対抗、ドイツ港湾を入出港する全船舶を撃沈すると発表。
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3月1日
・メキシコ、カランサ、米鉱山会社に対し印紙税と所有税を新設。
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3月3日
・枢密院委員会、蚕糸業救済勅令案を否決。政府はこれを受けて、勅令案を撤回、行政処分によって救済する旨発表。
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3月4日
・ロシア・サゾノフ外相、ダーダネルス・ボスフォラス海峡とイスタンブールの領有権承認をイギリス・フランスに求める。両国、承認。
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3月4日
・ダーダネルス海峡突破作戦。
トルコ軍、反撃開始。セデルバールから陸戦隊を駆逐、クムカルとヘレス岬に砲台を設置。翌日からイギリス・フランス掃海艇部隊が夜間出動するが、狭い海峡でのサーチライトの十字砲火で作業は進まず(ダーダネルス海峡打通のためには掃海は絶対条件)。
13日、掃海艇に決死の志願兵をのせ夜間掃海に努め、相当の機雷を回収。
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3月4日
・アメリカ、ラ・フォレット船員法制定。船員の権利と航海の安全を保障。
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3月5日
・中村孤月、「第三帝国」文芸評論で伊藤野枝「貞操に就いての雑感」を取りあげ、「野枝女史は現代の婦人の中で、心身共に最も健全な発達を為た唯だ一人の新しい女」と讃える。
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3月6日
・駐日アメリカ大使、綿製品に関する満鉄運賃の差別待遇に関し日本の外相に抗議。
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3月6日
・追浜に海軍機が墜落。3人死亡(海軍初の航空機死亡事故)。
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3月6日
・ギリシャ、ヴェニゼロス首相、第1次世界大戦参戦めぐり国王と対立。辞任。10日、後任にグルナリス。
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3月6日
・アメリカ国務省、カランサ政権はアメリカ人の財産と声明を脅かす危険があると声明。派兵の可能性示唆。
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3月7日
・インドネシア、三聖会(「トリ・コロ・ダルモ」)設立。
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3月8日
・岡山第6師団、満州に出動。21ヶ条要求反対運動への威圧。
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3月8日
・イギリス外相、本多参事官に対し日華間の緊張を憂慮および満州に於ける日本の地位伸張に同情の意向表明。
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3月9日
・イギリス上院、まだ兵器生産をしていない全工場の管理を戦争期間中は政府に委ねる緊急法案の第2読会開催。
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3月9日
・オーストリア、トレンチノのイタリアへの割譲承認。
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3月10日
・英大使、南支鉄道に関する日本の対華要求に抗議。
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3月10日
・閣議、満州・華北駐屯の兵力増強を決議。
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3月10日
・第1・2艦隊、佐世保に集結。
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3月10日
・ヌヴェ・シャペルの戦い(~20日)。イギリス軍、ドイツの戦線突破を試みる。
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3月11日
・蚕糸購入の帝国蚕糸株式会社設立(第1次蚕糸業救済措置)。
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3月11日
・イギリス、敵国向け禁輸品没収宣言。18日、綿花を禁輸品と宣言。
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3月12日
・イギリス、ドイツの封鎖開始。
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3月12日
・中国、国民会議組織法公布。
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3月13日
・中国、長同鉄道完成。
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3月13日
・アメリカ、日本の対華21ヶ条について警告
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3月15日
・大杉・荒畑らの月刊「平民新聞」廃刊。
10月、「近代思想」復活。~翌大正5年1月。第4号で廃刊。中旬、大杉栄(30)、葉山・日蔭茶屋で「種の起源」翻訳にあたる。

荒畑は、既に吉祥寺から大久保百人町に移り、新橋際のリグレー会社(チューインガム会社)日本支店に広告の文案係として勤務。

荒畑「シンディカリズム研究会だけは、小石川区水道町の大下水彩画研究所跡を借りて継続されていたが、大杉君とは思想的にも感情的にも、だんだん離れて行くことが私にには感ぜられた」。
ツレード・ユニオニズム(改良的労働組合運動と区別された革命的労働組合運動としてのシンディカリズム)に、社会主義実現の具体的な方法を見出し得ると信じたが、フランス以外の欧洲や米国の新労働運動を研究するに従い、労働組合の組織形態よりもむしろ個人の発意を重視する無政府主義シンディカリズムの理論に比べ、産業別組織の組合運動が労働者の階級闘争の発展と階級意識の向上とに効果を有する幾多の実例を学ぶ。
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3月15日
・ド・ゴール、再び戦争で負傷。
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3月16日
・中国駐在英大使ジョルダン、中国に日本の要求を承認するよう勧告。
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3月16日
・大審院、官有地入会権否認判決。
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3月16日
・アメリカ政府、日本の対華21ヶ条についてアメリカ利権を侵さない限り中国での日本の優越性を認める覚書「ブライアン・ノート」出す。
米国務長官ブライアン、日本の対華要求の一部(極東における日本の優越地位承認、兵器廠および福建問題等)に不同意の覚え書きを珍田捨巳駐米大使に手交(13日付)。のちにブライアン公文として問題化。
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3月17日
・第1艦隊、北支出動の準備のため、佐世保を出港。
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3月18日
・上海、21ヶ条要求に抗議の反日大会開催。日貨ボイコット・救国拠金を決議。日本品ボイコットが広がる。
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3月18日
・イギリス・フランス・ロシア、ボスフォラス・ダーダネルス海峡に関するコンスタンティノープル協定調印。イギリス・フランス、講和に際しロシアのコンスタンティノープル・海峡地帯の領有を保障。英仏露秘密協定。
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3月18日
・ダーダネルス海峡突破作戦、失敗。
司令長官ローベック、全艦艇を3挺団にわけて海峡突破作戦を作成。第1挺団「クイーンエリザベス」を筆頭にイギリス戦艦・巡洋戦艦6隻、1マイル遅れて第2挺団のフランス戦艦4隻を中軸に両側にイギリスの戦艦2隻、更に海峡外に第3挺団として戦艦・補助艦艇6隻。
午前10時半、海峡通過決行。クイーンエリザベスの15インチ砲がチャナック砲台を攻撃、後続艦はキリドバール砲台を攻撃。トルコの沿岸砲の応戦は戦艦上部に被害は与えるものの撃沈できず。
午後、第1・2挺団とも両側の砲台に近接攻撃、約45分間の猛撃でトルコ砲台は徐々に沈黙し始める。
午後2時、第2挺団は第3挺団を入替わるためUターンしたところ、フランス戦艦「ブーベ」が触雷、轟沈。これを見たトルコ砲台は砲撃を再開、また英仏艦も反撃。2時間の砲戦の後、英戦艦「インフレキシブル」が触雷、沈没は免れテネドス港へ回航。直後「イリジスタブル」も触雷、操縦不能となる。応援に向う「オーシャン」も触雷、舵を破壊される。司令長官ローベックは作戦を中止、両艦の乗組員を「クイーンエリザベス」に収容し海峡を脱出。
トルコ側は砲弾全量6千発を発射し、応戦能力なしの状況(後、ルーマニア経由ドイツからの供与に頼る)。
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3月18日
・イギリス政府、女性に商工業・農業への労働参加呼び掛け。
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3月18日
・インドで防衛法公布。
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3月19日
・漱石(48)、4度目の京都旅行。3月19日~4月9日。5度目の胃潰瘍で病臥。異母姉高田ふさ没。
この旅行中、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。
「木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
           春の川を隔てて男女哉   漱石」
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3月19日
・尼崎硝子摂津工場のガラス工750人、労働強化・賃下げ反対のストを実施。
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3月20日
・伊藤野枝、「第三帝国」同日号で、「らいてう氏の「処女の真価値」を読みて」を寄せ、「処女を捨てる場合」の「効果的理由」が語られるのみで、「処女そのものの価値については説いていない」と駁す。
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3月20日
・帝国蚕糸設立。
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3月22日
・中国、日本の要求した満洲に関する5条件をのむ。
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3月22日
・ドイツ型飛行船、パリ鉄道施設・工場に夜間爆撃開始。
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3月22日
・ロシア軍、ガリツィアの要塞プシェミシル占領。
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3月22日
・フィリピン・ホロ島のスルタンと植民地政府の和約(カーペンター・キラム協定)成立。
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3月25日
・袁世凱、各地の日貨排斥運動を禁止。各地で日貨排斥激烈。
6月16日、再び日貨排斥取締を命令。
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3月25日
・第12回総選挙。
大隈内閣の与党立憲同志会が圧勝。
政友会大敗184 → 108議席・初めて第2党へ。同志会153、政友会108、中正会33、国民党27、大隈伯後援会12、無所属48。
この選挙から大臣の地方遊説、候補者への公認料支給が開始。

首相大隈重信の民主的ボーズをふりまく選挙運動、元老山県有朋の意を体した内相大浦兼武の強引な選挙干渉、その結果、成立以来常に万年与党として、多数党の地位を占め続けて来た政友会の無残な敗北。
「二十三・四日の両日にて俄然(情勢が)一変したるは、(政府が)俄に金を送りて大買収をなさしめたるものの如し」と政友会原総裁は日誌に記し、投入資金は「岩崎、三井、大倉、安田」財閥が醵出したらしい、と付け加える。

東京市(定員2名、立候補者27名)の唯一人の政友会候補鳩山一郎は、2245票を獲得して第6位で当選。馬場勝弥は32票、最下位から2番目で落選。

馬場勝弥は、自由民権左派論客馬場辰猪の弟孤蝶の本名。藤村と共に明治学院を過し「文学界」の仲間(小説「春」では足立君)。日露戦後、慶応大学教授としてよりも、政治的・社会的問題に関心の深い評論家として名がある。日刊「平民新聞」(「文芸界」明治40年1月20日)は、孤蝶を「腰抜文士のみ多かる中に、流石は故辰猪の弟なり」と評す。彼は大逆事件後の「冬の時代」においても、社会主義者との交遊を恐れず、堺利彦の「売文社」の人々とも親交がある。

1月5日付「時事新報」は「文政五人男」(文壇で立候補を噂される5人)の1人に孤蝶をあげる。7日付同新は孤蝶訪問記を載せ、孤蝶が言論・思想の自由と没交渉の議会のあり方を正すため出馬の意思のあること、勝敗は眼中におかず、現政府に味方しないこと、但し出馬は推薦者の準備の進捗如何によること、を明らかにしたと報じる。「反響」(漱石門下の生田長江・森田草平主宰)が馬場孤蝶の立候補を推進したのは、個人の改良と社会の改良との相互関係を重視し、素人による政界の玄人の駆逐を主張する、日頃の見地によるものである(生田長江「馬場孤蝶の立候補について」二の三)。
しかし孤蝶は19日夜、堺利彦宛の手紙で、未だ迷っており、「お智慧を拝借に出度と思って居ます」と書く(「馬場孤蝶君より」「へちまの花」第13号)。堺は、「売文社」員高島素之・小原慎三と共に弧蝶を訪ね、その主張を聞き(馬場孤蝶「明治文壇回顧」)、23日「万朝報」に3行広告「衆議院議員候補者に推薦す/孤蝶馬場勝弥君/東京社会主義者有志」が掲載され、この広告を契機に、孤蝶の決意を促す声が高まる。そして2月3日、長江・草平・安成貞雄らが孤蝶宅に集まり、その立候補の言明を得る。

彼らは馬場勝弥後援会(神田仲猿楽町)を組織し、選挙運動は言論戦(「英国式」)に頼ることとし、資金は、孤蝶や「反響社」の知人より原稿寄付を受け、これで文集を作り、その収益を充てることを企てる。
馬場家は三菱とは深い関係にあり、孤蝶の姪は三菱の大立物豊川長平夫人であるが、敢えて立憲同志会との関係を持たず、一個の文士として選挙戦に臨む。

2月12日夜、「売文社」の最大顧客である実業之世界社社長野依秀一は、先日まで社長であった安成貞雄より交渉を受け、この文集の版元になる事を快諾。改名した野依秀市は、戦後、天皇中心主義・反共主義宣伝で知られるが、明治末~第1次大戦中は、熱烈な国家主義者ではあるが、藩閥官僚・特権資本に敵意を持ち、一方で中上川彦次郎系の交詢社ブルジョワジー、他方で冬の時代の社会主義者と密接な関係をもつ急進主義者でもある。彼は武藤山治・和田豊治・福沢桃介らに資金援助を受けるかたわら、売文社最大の顧客であり、堺利彦・自柳秀湖らに文章を代筆させる事実を隠さず。権威に物おじせず、自ら「悪口」記者を自称する彼に対し大杉栄も共感を抱く。彼は長江の教養主義批判に共鳴し、馬場孤蝶の人物識見を、かねて熟知していた。彼はもともと、政界に打って出る希望をもっているが、年齢は30歳に足りぬため断念せざるを得ず、これにかえて、安部磯雄に依頼し、小冊子「誰を選ぶべきか」を刊行したところであった。野依は安成の話より、孤蝶の選挙運動方法が全く自分の所信と一致することを知り、孤蝶を援助することは「自分の理想の一部の実行と信じ」、出版引受けを承諾(【現代文集」の野依の跋文)。

「立候補の理由」(「反響」2の3、3月1日)は、冒頭に「民族の興隆は、その民族の原子たる各個人の充実せる活動に俟た無ければならぬ。一国の政治は、斯の如き民人の充実せる活動を基礎として、行はるゝもので無ければならぬ。民人の充実せる活動は、各個人の国民としての自覚より始まるべきものである。故に一国の法規は、各個人の自覚、各個人の正当なる活動に対して、妨碍となり、不便であるといふが如きものであってはならぬ」、と所信を示し、次の改革案を提示。
選挙権の大拡張、「或る制限の下に」おける女子参政権、軍部大臣武官制の打破、軍備縮小、とくにこの選挙の争点である2個師団増設絶対反対、兵役年限の短縮、警察官・裁判官の人権蹂躙を防止すべき法律制度の制定、言論・思想の自由のための新聞紙法の改正、官学偏重の積弊打破、学生・女子の政治演説を聞く権利さえ奪い労働者のストライキを実質的に禁止する治安警察法の撤廃、営業税・通行税などの諸悪税の廃止、行政・財政整理の断行。

立候補推薦状には夏目漱石ら20人余が名を連ねる。
2月21日、孤蝶の立候補第1声は、東京ローマ字会主催第3回文芸講演会での「文学と政治の接近」と題する演説であった。
2月22日と3月12日、政見発表演説会が神田青年会館で開かれ、中沢臨川・長谷川天渓・森田草平・与謝野寛らが登場。
3月12日、文集「弧蝶馬場勝弥氏立候補後援現代文集」刊行(寄稿者81名、漱石門下、らいてう以下青鞜社員、白鳥・花袋など自然主義文学者、鉄幹・晶子・白秋ら1円90銭)。
巻頭論文の夏日漱石「私の個人主義」(前年11月25日の学習院における講演原稿)は、通例3月22日学習院の「輔仁会雑誌」が初出とされるが、実際はこの「現代文集」が10日早いことになる。漱石は、堺利彦の提唱に応え、漱石門下左派が推進した、急進的民主主義の諸主張を掲げた馬場弧蝶擁立運動に率先して加わり、文壇の自由主義者・社会主義者の共同戦線の大看板の位置に自らを置く。かつて1906年の東京市電仕上反対運動の際、「社界主義者堺利彦氏と同列に加はりと新聞に出ても」少しも驚かぬと言った漱石の心情は10年後も変っていない。

与謝野寛、京都府愛宕郡岡崎村(現・京都市左京区岡崎)から総選挙立候補。99票惨敗
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3月25日
・ロシア、改正関税法発布。11.23 石井外相、実施延期の交渉を訓令。
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3月26日
・帝劇洋劇部、プランケットの喜歌劇「古城の鐘」「コルヌヴィーユの鐘」を上映(~3.31。1916.5.26 再演)
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3月26日
・ドイツ・オーストリア・ハンガリーの経済同盟交渉実施。6月28日にも実施。
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3月27日
・英大使、日本の外相に駐華英公使による日華交渉の斡旋申し出。日本、拒絶。
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3月28日
・スイス、ベルンで開催された国際社会主義婦人会議(3月26日~)が平和をアピール。
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3月28日
・「U28」、イギリス商船「ファァバ」を撃沈。
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3月29日
・アメリカ、福建問題に関し日本の要求の是認を回答。
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3月30日
・気仙沼大火。1100戸焼失。
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3月30日
・宮部金吾・三宅勉(樺太庁)、「樺太植物誌」刊行。植民地調査の初め。
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