2018年10月1日月曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その18)「翌2日になって警官が取調べの上釈放するが、自警団が承知しない。2、3人でこの釈放された男を鉄棒でなぐりつける。男はヒーヒーと悲鳴をあげる。4、5歩歩くとばったり倒れる。それへかさにかかって大勢で鉄棒でなぐる。頃を見て針金でしばり、まだ焼残っている火の中へほうり込む。これを繰り返し、繰り返しするのである。無惨な殺し方をしたものである。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月2日(その17)「みんなで抑えて、そいでその逃げるあれが、ひょうたん池のなかでもう逃げ場失っちゃって、ひょうたん池ん中はいっちゃうんですよね。そうすっとね、ひょうたん池のところに橋がかかってたの、その下の、橋の下にはいってんのにみんなで、夜だけど、出しちゃってね、その場でね、そう、叩いたり引いたりしてすぐ殺しちゃう。みんな棒みたいの持ってね。叩く人もあれば、突く人もあればね、その場で殺しちゃう。.....」
からつづく

大正12年(1923)9月2日

〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
定村青萍〔童謡詩人、小学校教員〕
〔2日夜、浅草公園で〕夜も9時に近き頃であった。俄然公園一帯に騒音が響いた。やがてバタバタと走る足音、怒声、叫喚相続いて起った。すは又火事かと、はね起きて耳をすました。騒ぎは益々激しくなる。やがてどこからともなく、「不逞人の襲撃だ。」と伝えられた。群衆の中を馳巡る兵士と警官は大声で、「皆起きた起きた、今夜この観音堂を焼打するそうだから注意々々」とどなっている。
諸所に兵士と警官の誰何が行われる、まるで戦乱の状態である。〔略〕
2日間の疲労も何のその、起きて万一の用意にと付近に集り来る婦女や子供を慰めて坐せしめあたりを警戒していた。折から突然後方より、「そこに立っている白服は不逞人か、日本人か」「日本人!」答うる間もあらばこそ、暗にもそれとわかる兵士と警官隊は詰めよせた。原籍をいえ、姓名をいえ、矢つぎ早の尋問に即答し許された。「服装がよくない、白い靴を取れ」「はい」と答うるより外に術がない。暗夜に白服、白靴は目につきやすい、これはだめだと気がつくと同時に靴は捨て、服は風呂敷にして首につけた。
(定村青萍『夢の都 - 大正十一年九月一日大震大火災遭難実記』多田屋書店、1923年)

古澤菊枝〔当時府立第一高等女学校生徒〕
〔2日夜、浅草で〕その晩は朝鮮人が観音様に火をつけるといって警戒で大騒ぎ。ろくに寝られず3日になった。
(『校友・震災記念』府立第一高等女学校内校友会、1924年)

増子菊善・酒井源蔵
〔2日夜、浅草公園で〕時しも忽ち恐るべき警笛が耳朶を打った。そも何事ぞ、「鮮人襲来、鮮人放火せり、各自警戒せよ」 さあ大変だ、泣き叫ぶ婦女子がある、この暗夜に爆弾でも放たれたらたまったものでない。逃げろ逃げろと群羊の如く、この森を捨てて退去する者、心忙いで足進まず、実に悲壮と言おうか、悲惨と言わんか、自分にはこの時の真実を現わす言葉を持たない。自分は、何ここを去っても何処へという目的はない。鮮人来らば来れ、数万の一等国民、大和魂は末々失せはしない。彼等のために辱しめられたとあっては、全く国辱である。踏み止まってこれに当ることと決心した。
「今鮮人300名は南千住を出発して、この公園に向い進軍中なり」「男子という男子は皆警戒の為に出動すべし。女子供はその地にだまっていることとせよ」上を下への騒ぎである。妻子の止むるもきかず、出なければすまぬ様な気がして自分も出てみた。幾万の人々は金棒その他の物を持ってガランガランと、引きずり歩くのである。あまり気味のよい光景ではなかった。腰のまがった老人まで、決心の色が鮮かであった。昨日から今日にかけてのあの爆音は、鮮人の爆弾の音であったか、わが妻子を焼き殺したのは彼等であったのか。憎い奴等だ。かたきを取らずに置くものかと、猛虎の様にたけりくるう若者もあった。気丈な烈婦は、たとえ男子が出払っても、この中に一歩も彼等など入れるものか、もし来たら、ただむざむざと殺されているものか、などと憤るのであった。
「鮮人が飛び込んだ」と叫ぶ者あり、どれやっつけろと、気早の江戸ッ子、たちまちにしてその暴漢を捕えた。住所姓名を問うた。彼いわく、「我は新潟県の何の誰だ。神田の叔母の安否を尋ねんために来たのだ」と答えた。しかしそのアクセントに不審があるというので、懐中を調べた。すると西洋剃刀2挺を呑んでいた。これ確かに不逞漢だと、群衆によって交番へと持ち込まれた。彼が、「人殺し」と一声叫んだのが今も耳の底に残っている。
再び襲来の声に騒ぎは益々大きくなる。殺気立てる数千の人々はこの敵を囲まんとする。暴漢短刀をくわえて池に飛び込んだ。それに続いて十数人の勇士がその池にザンブとばかり飛び込んだ。ピストルは岸上から放たれた、暗の森に響いて物凄いこと話の外であった。あたりは其暗。しかも幾万と密集せるこの森、誰が誰やら識別することはできない。遂に逃がしたとて、口惜しがること限りなしであった。
〔略〕時しも真夜中の12時頃と思う。3度叫声に驚かされたのである。その声のする方に行ってみた。「鮮人藤棚の上にあり」と、婦女子は声もロクロク出せないで往来に皆飛び出している。命を知らぬ猛虎のような警戒員は、四方八方よりその藤棚に上っていく。下からは銃剣で突く人がある。あたかも芳流閣上の活撃を目の当りに見るようであった。「何処だ」「いたか」と棚上くまなく捜したが、遂に捕えることができなかった。彼は既に逃げ失せたのだ。〔略〕あとで聞けば、浅草公園を襲わんとした乱徒は、第一に上野を陥れて、次にこの森を攻撃する計画であったが、上野に於て予定よりも多く時間を費したがため、遂にこの公園に隊を成して来ることができず、その中に夜が明けたのでとうとう作戦計画が実行されなかったのだそうだ。これが果して本当であるかどうかは頗る疑問である。
(増子菊善・酒井源蔵『樽を机として』誠文堂書店、1923年)

〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
宮本筆吉〔浅草公園に避難〕
2日目の夜が来た。不てい鮮人が横浜に来たとか、井戸水に注意しろとか、いろいろなうわさが飛んだ。公園には、日本刀を持った人達が警戒に当った。時々皆の真ん中で「君が代」を歌う声が聞えてくる。朝鮮人かどうかを見分けるのだそうだ。真夜中、なんともいわれない深刻な命がけの「君が代」であった。
(「遺稿・わが生涯」『東京部落解放研究』第38号、東京部落解放研究会、1984年)
〈1100の証言;台東区/浅草周辺〉
山本芳蔵〔神田柳原の洋服店で被災し、浅草公園へ避難〕
〔1日〕火の中をくぐりぬけ、漸く公園に辿りつくと、既にこの一帯も焼け落ちて自警団が組織され、手に手に鉄棒を持って関所をつくっている。不逞鮮人の潜入を防ぐのである。自分も日本人である事を認められ、関所は通してくれ、君もすぐ自警団に加入するよういわれたが、いまの所はいれないと断った。
〔略〕その夜〔1日夜〕は一睡もせず夜を明かした。上野方面から朝鮮人が向っているから注意せよとの情報が自警団にくる。公園内に入る者は片っぱしから調べ、朝鮮人らしき者にはザジズゼゾといわせる。怪しいと思うものは、交番裏の空家へ押し込む。
翌2日になって警官が取調べの上釈放するが、自警団が承知しない。2、3人でこの釈放された男を鉄棒でなぐりつける。男はヒーヒーと悲鳴をあげる。4、5歩歩くとばったり倒れる。それへかさにかかって大勢で鉄棒でなぐる。頃を見て針金でしばり、まだ焼残っている火の中へほうり込む。これを繰り返し、繰り返しするのである。無惨な殺し方をしたものである。
(山本芳蔵『風雪七十七年』私家版、1977年)

浅草象潟署
9月2日午後4時頃流言あり、曰く「約300名の不逞鮮人南千住方面にて暴行し今や将に浅草観音堂並に新谷町の焼残地に放火せんとす」と。これに於て、自警団の専横となり、鮮人に対する迫害となりしが、これが為に同夜午後10時頃椎谷町に於て通行人3名は鮮人と誤認せられて殺害に遇うの惨劇を生ずるに至りし。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

浅草南元町署
9月2日の夕に至り、「鮮人等は爆弾を以て火災を起し、毒薬を井戸に投じて殺害を計れるのみならず、或は財物を掠め、或は婦女を姦する等、暴行甚しきものあり」との流言行わるるに及び、ここに自警団の組織を促して、到る所戎・兇器を携えたる団員の屯集を見たり。
(『大正大震火災誌』警視庁、1925年)

つづく




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